ソマリア手記和訳
JOFCのBBSで削除されてしまった ビョンホンシの「ソマリア旅行記」がすごく気になっていました。ネットサーフィン能力が低くて、発見できずにいたのですがきつね雑貨市さんがご紹介下さっていたのでやっとビョンホンシの手記を読めました。カムサハムニダbyunghunzzang.com念のため翻訳機くんにかけたところ、もっとしっかりしてくれぇ!!と思いながらまた訳してしまいました。お叱りを受けることも覚悟してますが、ビョンホンシの想いが伝わりますように。自分が恵まれた状況で子育てをしている事実と何かできないか、考えつつ。若いビョンホンシの、素直な文章。(読みやすいように、勝手に改行を入れています。)ソマリアまで、男性化粧品の撮影に行かれたときのエピソードです。SBS「愛の香り」と KBS 青春ドラマ「明日は愛」の撮影でとてつもなく忙しい日程の中で合間を縫うように勉強したおかげで、中央大学校演劇映画科大学院に進学することができた私はその喜び覚めやらぬ前にまた一つの嬉しい知らせを聞いた.一度も外国に行ったことがなかったが「ツインエックス」 第3弾 CF 撮影を外国でしなければならないから早くビザを準備しなさいと連絡受けたのだ. 撮影場所も滅多に行くことができないアフリカ大陸の中部に位したケニアだった. その上に話に聞いていた「飢餓の国」 ソマリアと接境地帯にある難民村という話に難民に対する好奇心と内戦中の国に行くという緊張感に出発前日まで眠ることができなかった.香港, インドを経由ナイロビで難民村に発つ待望の (?) 7月5日朝 7時. 夜明けまでまともに眠れなくてうっかり二度寝をしてしまい朝寝坊した私は少し遅く金浦空港に到着した. 先に来たウォンジュニは腹立だしい表情で "兄さん, 初日からこれでは旅行期間始終苦しめるつもりなの."という脅迫めいた(?) 発言で遅れて来た私をいじめた.しかしウォンジュ二も旅行のときめきに寝そびれたようで疲れているようだった.一緒に出発する仲間とあいさつを交わして 8時発香港行飛行機に乗った私はウォンジュンとその間過ごした話を交わしながら浮き立った気持ちを落ち着けた. 香港に到着して次の経由地であるボンベイ行きの飛行機時間までは 4時間ほど残っていた. それで私たちは昼食を取ってから空港周辺を観光して時間を過ごした. また飛行機に乗ってインドボンベイに到着した時間は夜 1時.機内で疲れるとは知らず、ふざけあいながら話したウォンジュンと私はホテルに到着するとそのまま眠りに入ってしまった. ボンベイの夜空を眺める余裕さえなく.6日夜明け, ボンベイを出発した私達一行は予定時間より 3時間も延着した午後 4時頃になってからようやく「熱帯の国」ケニアの首都ナイロビに到着することができた. そしてそこで私たちはあらかじめ、CF撮影場所をハンティングするために出発した撮影チームと合流した.ナイロビからダダブ難民村までナイロビに到着するやいなや図らずも問題が発生した. 元々私達一行が宿に決めた所は難民村で二日間そこに泊まって撮影をする計画だった.ところが難民村はナイロビから飛行機で2時間かかるほどとても遠く離れていたし、また難民たちに品物を奪われる危険性が高いという現地人の忠告で日帰りに日程を変えるしかなかった. これにより私たちは、翌日夜明けとともに起きて、撮影装備と荷物をまとめて空港に向かわなければならなかった.6時頃到着した空港には私たちが金浦空港で見ている大きい飛行機ではなく小さな小型飛行機たちが列をなして置かれていた. その飛行機を見て私たちが不思議に思っていると現地案内者は空港大部分の飛行機がソ連で亡命した人々が乗って来た飛行機で 2人乗, 6人乗, 15人乗など小型が大部分だと説明してくれた. なかでも私たちの乗った飛行機はそれでもその空港で一番大きい 36人乗だった.私達一行の最終目的地と同時に撮影場であるダダブ難民村は西欧列強が輝度の線に沿って国境を分けておいたケニアとソマリアの国境線に位した所でUN HCR(国際難民を助ける機構)の傘下に属した難民キャンプだった.そこまで私たち一行を案内した現地人の一人はギムフンググという方だった.撮影監督の言葉を借りれば 去年初までツインエックス広告会社で働いていたのだが去年中旬から国際飢餓対策本部奉仕団の一員でこちらへ来て救護物資をケニアで難民村に伝達する事をしていらっしゃる方だそうだ.難民村で一日の間ボランティア直ちにウォンジュンと私はキャンプ内にある病院を訪問して疾病治療を受けている子供たちを面倒を見始めた. 初めにはこれが単純に CF撮影のための一つの 「ショー」という気がしてすまない気持ちだけだった. しかし時間が経つほど骨と皮だけ残っている飢えた 4才児のか細い姿を見ながら難民村人たちの生活をまた思うようになった.また子供がほとんどお乳を飲むことができず、餓えて病気になってもどうすることもできないお母さんの切ない姿は今も頭の中に鮮やかに残っている. 横で看病したウォンジュンも私と同じような心情であるように目頭を赤くした. 鼻に呼吸器をつけている二歳も満たない子供の小さい手を握って、こんなに難しく生命を延ばす子供達がキャンプの中に多いことを切ながるしかなかった.昼休みになっても食事をすることができなかった. UNを通じて配給される救護物資で生命をつないでいる難民の前でご飯を食べることがまるで大きな罪を犯すという気がしたからだった.ここにいる 4万から 5万名余もなる難民たちの大部分がそのように暮すというギムフンググさんの言葉に 私たちは 「現代の世の中にこんな所もあるのか」と感じた. そして撮影を終えて帰って来る機内で 「自分がいかに愚かな考えを持っていたのか」と後悔ばかりしていた.飢えることについて単純に好奇心しかなかった自分自身が倭小に感じられるだけだった.あそこでの短い日程を終えてもう私は再び忙しい現実に帰って来たが、ダダブ難民村病院で会った子供の痛々しい目つきだけは一生忘れることができなさそうだ.