小岩井農場は、国の登録有形文化財でいっぱいだ…
嫁と子どもたちが宮古にある嫁の実家に行ったので、ヒマになったオイラは南畑から雫石環状線を走って、小岩井農場に出かけてきた。案内板で牛舎などの配置を確認した。気を付けて寄ってかないと、クモの巣まみれになる。小岩井農場の看板の奥にあるのが二号牛舎(分娩牛舎)。普通なら、一号牛舎が最初だと思うだろうが、乳牛が産まれるのがこの二号牛舎である。そう、ここには分娩期前後の母牛がいて、中は個室になっているとのこと。大型のファンが勢いよく回って、中に風を送っていた。農場内で最古の牛舎である。ここは、二号牛舎の前。出産前の牛達が草を食んでいる。ここが三号牛舎(犢牛舎:とくぎゅうしゃ)。産まれた仔牛たちは、誕生から16か月間ここで過ごす。中は、仔牛の成長に合わせた様々な飼育室に分かれている。16か月間を過ぎると二号牛舎に移動して人工授精で種付けをし、約280日後に出産して、一号牛舎に移動する。ここが一号牛舎。出産してから約330日ここで、搾乳される。奥の方には、大型のファンが6基設置され、スゴい勢いで回っていた。搾乳期間が過ぎると、次の出産に備えて約60日間搾乳を休む。これを乾乳という。これは、一号サイロと二号サイロ。二号サイロは、明治41年(1908年)に建築されている。高さ10.6m、直径は5.5m。案内板には、現存する日本最古のものと言われていると書いてあった。これは、けっこう奥にある宮澤賢治詩碑。看板には、 この四行の碑文は、心象スケッチ「春と修羅」のなかの詩「小岩井農場」(パート1)から撰んだものです。(途中省略して) 季節の循環を踏まえ、万物の生命が明滅するなかで、小岩井農場の姿がつぎつぎと更新していくさまに力を得、賢治が「あたらしくまつすぐに起て」と自らをはげます契機となりました。 なお、碑文に添えられた宮沢賢治の文字は、親友である森佐一(森荘己池)宛手紙の封筒に書かれていた賢治の直筆です。と書かれてあった。これは、四号牛舎。かつては産室があったが、搾乳専用に改築したとのこと。残念ながら、メス牛の一生の看板からは、使用されている様子が窺えなかった。これは、二号牛舎の前の放牧場の脇にあるコナラ。看板には、暑さに弱い牛達を夏の日ざしから保護し小岩井の歴史と共に育ってきました。という説明があった。ソフトクリームを食べてから、小岩井稲荷社方面に移動。これは、四階倉庫。大正5年に建設したもので、エレベーターがあったというから、スゴ過ぎる。現在は、1階を倉庫して利用しているとのこと。これは、小岩井稲荷社。四階倉庫の裏のこんもりとした林の中にある。以前にも紹介したが、小岩井農場環境報告書2010を見ると、明治四十二年に、大阪西長堀の土佐藩邸の中にあった「土佐稲荷」より、「小岩井農場永久ノ鎮守トシテ小岩井稲荷神社鎮座ヲ挙グ」として分霊を遷したのが、小岩井農場内にある小岩井稲荷社である、とあった。3,000haの広さ、2,000頭以上の牛、120年を超える歴史。うーん、小岩井農場ってスゴい。今回は農場本部事務所を紹介できなかったが、だいぶ基礎知識が蓄えられてきたので、いつかガイド付きバスツアーに参加してみたいと思う。なんと、1人しか乗らなくてもツアーをやってくれるし、まきば園の入園料が無料になるとのこと。先着25名、1日4回、旅行代金は1,000円で11月4日まで。安いと思いませんか…にほんブログ村