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珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

倭徳山について・・

日本の水軍兵士が眠る倭徳山 (ウエドクサン) 合同墓地

「倭徳山が日本に知られるようになったいきさつは?」

2006年5月初め

韓国の前農民新聞社の社長と、広島修道大学人文学部の教授が
珍島の郷土歴史家である朴柱彦一氏の案内で初めて倭徳山を訪問する。
NIHON

2006年5月下旬
<韓国の地で眠る来島水軍を知って>という内容で
広島修道大学教授が愛媛新聞に寄稿する。

2006年8月15日
広島修道大学教授と学生、愛媛新聞記者
及びNHK記者など総勢25名が珍島に訪問!
wadoku

2006年11月
珍島アリラン祭り中、珍島学会・国際学術セミナーにて
<400年の歳月を超え珍島倭徳山の語るもの>
という主題で広島修道大学教授の論文発表

2006年12月
広島修道大学日隈研究室チームが
倭徳山をテーマにしたドキュメント「もう一つの8月15日」で
NHK全国大学放送コンテスト優勝
文部科学大臣賞を受賞!し
<二つの金賞を祝う会>を開く。

2007年5月
倭徳山の隣りに住み、墓守りをする李おじいさん
夫婦で愛媛訪問!
MBC木浦文化放送局記者同行!
kurusima

2007年6月
MBCラジオ「楽しい3時」にて李おじいさん夫婦の
愛媛訪問内容を1部と2部に分けて紹介!
(この内容は年末にMBCラジオ作品賞
 放送文化振興会 地域プログラム賞を受賞する)

2007年8月上旬
今治市議会委員の珍島公式訪問
2007年8月中旬
広島修道大学、及び来島住民34名が珍島訪問
8.14-3

2007年10月下旬
珍島大橋の隣り、海南のお祭りに来島住民訪問し
倭徳山訪問
2008-02-21 10:08:23

看板

「案内文」
この墓は朝鮮宣祖30年(1597)丁酉再乱(慶長の役)鳴梁大捷の闘いの時
ウルトルモク(珍島大橋の下を流れる海峡)で戦死した日本水軍の死体を
埋葬したと伝えられている墓である。死体を見つけた内洞里の住民は、
敵軍でありながらも、死んだ霊魂に温情を施し手厚く葬い
その後、倭人に徳を施したの意味で倭徳山と呼ばれるようになった。
この場所は鳴梁大捷での教訓を私たちに伝えている。

倭徳山の現況
 位置:全南珍島郡古郡面内山里山162番地
墓の数:約100基
 珍島郡守

ライン2

次の記事は珍島芸郷新聞に記載された内容である。

壬辰倭乱の倭軍後孫が報恩の訪韓
珍島郡の古郡面(コグンミヨン)、内洞里(ネドンリ)から
馬山里(マサンリ)方面にぬける左側の用水路を越えると、
寒い冬のさ中でも一休みしていきたくなるような温かい日だまりである。
一帯を見渡してみるとあまり大きくないどんぐりの木と
まばらな松の木の下で年を越した葛のツルが地を覆っているのだが、
そこには数多くの墓が隠れているのがすぐに解る。

すぐとなりの畑との境界線となっている細道も墓の肩を
曲がりながら越えている。結局、この畑も昔は墓地であったと見当がつく。
墓地から最も近い家を訪ねると、幸いなことにその畑の主人でもあり、
内洞里の里長(村長)を長年つとめてきて村の歴史をよく知っている
李基洙(76才)さんに会うことができた。
李さんは家の庭先でもあり共同墓地と倭徳山を見渡しながら語る。

今、白菜を植えた畑は李さんが20年前ある人から買い取ったもので開墾した。
当時は太い骨がたくさん出てきたそうである。
現在の墓は50基余りであるが当初は100基以上があったという。
李さんの説明によれば壬辰倭乱当時、現珍島大橋の下、
鳴梁海峡(韓国の固有語ではウルトルモク)で朝鮮水軍と
日本水軍が戦う時、数多くの日本兵士が死に、死体が引き潮にのって流れ、
馬山里と内洞里の海上に押し寄せてきたとのこと。

壬辰倭乱(文祿の役)のあと、また倭軍が攻めてきたとして
‘再乱’と名付けられた丁酉再乱(慶長の役)での珍島の戦いは、
1597年9月16日の早朝7時頃始まった。
満潮の流れに乗り海南の於蘭浦方面から日本水軍が攻撃をかけてきて
戦闘が始まった。
これが有名な鳴梁大捷(ミヨンリヤンデーチョプ)の交戦である。

李舜臣将軍は金億秋右水使(海南の水軍将軍)と共に、
12隻の戰船で戦闘を準備し珍島の住民は大挙して義兵として戦に加わった。
その中でも珍島の五山里に住むチョウ應亮とチョウ命新の親子は、
右水使と共に倭船を沈没させるため海中にクサリを設置し
決定的な戦功を立てて戦死し、朴厚齡と朴イン福の親子、ヤン應地とヤン啓源の叔甥など多くの住民が壮烈な戦死をとげた。
開戦後、大砲を打ち続けていると李舜臣将軍の船に捕らわれた
日本軍の捕虜が、急に声を荒げた。
海に浮んでいるのが日本水軍のマタシ将軍であるという。
李舜臣将軍は馬多時(来島通総)将軍を船に引き上げ殺し、
その死体を高々と上げ倭軍に見せると、志気が落ちた倭軍は後退をはじめ、
時を逃さず総攻撃をかけた朝鮮水軍は海南の於蘭浦の沖合いまで
倭軍を追撃し撃破した。
当時、日本水軍の規模と沈んだ船の数はさまざまな説があげられている。
李舜臣将軍が書き残した乱中日記には、山の上から敵船を数えると
300隻までは数えたが、それ以上は数えきれなかったとある。
この戦闘で死んだ日本水軍の死体のうち、ここの村の海上に押し流され、
幸運にも住民に発見されたものが引き上げられて倭徳山に葬られたわけである。
もちろん当時は干拓事業をするずっと以前の時代で、
海水が五山里の近くまで達していたので、死体は潮の流れにまかせ
馬山里・内洞里・五山里・芝水里・芝幕里・下栗里・皇朝里など
7つの村の住民の誰かの目について、
見つけた村人達は内洞里で葬儀を行ってやった。

漁民は、海で死体を発見するとそのまま過ぎることはない。
必ず収拾し安らかに埋葬してやるのが通常の礼法である。
海に浮く死体を見付け、そのまま放置すると
その死体が船の後を付いてくるということわざを今も信じている。
このような概念をもって、珍島古郡面の海辺の人々は
海の上に漂う日本水軍戦死者たちを引き上げて、
暖かいこの場所に共に眠らせてやった。

押し寄せてくる死体を一体、二体と埋葬していくうちに、
いつしか共同墓地になり、新しく出来上がったこの場所を
住民達は「倭徳山」と名付けた。
遠い他国でしかばねとなった者を、戦死した倭水軍に‘徳’を施し、
陽当たりの良い所で安らかに眠ることが出きるようにした雅量を
自ら徳としたのである。
この戦死者達は未婚の青年が大部分であるはずで、
日本のどの地域から動員されたか知らないが、
死を決意して自ら戦争をしたくて鳴梁海峡の激流に流されたのではない
という判断から、
珍島住民は倭水軍であることを知りつつ
死体の処置をしたという話なのである。

近い祖先の眠る墓だけを守っているうちに、
遠い祖先の墓を失う昨今、わずかな形態だけを
なんとか維持してきた倭徳山は408年の歳月が流れた。
周辺あちらこちらの墓には、正月の墓参りに来た後
孫たちの姿が見えもしたが、埋められた後一人も訪れる人がなく、
むやみに伸びた葛のツルはあたかも水面で漂うときの
毛髪のように入り乱れている。
それでも全部開墾したり畜舎をつくったりせずに
痕跡だけは残してくれたといってありがたがるだろうか。

今、この内洞里の倭徳山は珍島郡の判断に運命をゆだねている。
筆者が珍島を訪ねる日本人達に行きたい所を尋ねると、
まず倭徳山をあげる。
珍島住民のヒューマニズムと平和精神を語る倭徳山を、
即刻観光資源として開発する必要性を感じる。
何か特別な投資をしなくても伝えるべきストーリーのある
戦争現場を見せることができ、
さらに美しい珍島民の心性をも広く伝えることのできる場所であるからだ。

2006年8月23日芸郷新聞より
朴柱彦(郷土歴史家・珍島学会 事務局長)


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