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珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

李忠武公 碧波津戦捷碑

李忠武公 碧波津戦捷碑 (珍島郷土文化遺産 第5号 2001年10月30日指定)

この石碑は珍島の中心地から東に12km離れた古郡面(コグンミヨン)碧波里(ピヨクパリ)682番地に立っている。碧波里は珍島大橋が開通するまでは、となりの海南と珍島の間を行き来する船が止る大きな港町だった。今は木浦から済州島に向かうフェリーが1日に1度停止する波止場として利用されているだけだ。過去の賑わいはまったく感じられない寂れた港になってしまった。この港の左に大きい岩山があるがこの自然石の頂上を亀の模様として刻み、その上に石碑を立て頭には竜が左右に首を出し、石碑は日本の対馬に向かっている。

李舜臣将軍

碧波津の青い海よ、お前は栄光なる歴史を知っている。民族の聖雄・忠武公李舜臣が、最も苦難の時に大功をたてた場所が、この地である。獄中から解き放たれて、三道水軍統制使の重任を一身におい、病身を奮い起こして、老船12隻をようやくかき集め、郡守の任命を受けて珍島の碧波津に赴任したのは李舜臣が53になった丁酉年(1597)の8月29日であった。

この時、朝廷では李舜臣将軍に陸戦を命令したが、将軍は「ここにはまだ12隻のわが軍船が残っており、そしてわが神が生きております。敵は決して私達を侮ることができません。この地にてこの海を守ります」と答えた。それから16日間の闘いが始まった。3日間は雨が振り4日間は風が吹き、将軍は長男と共に船に乗り涙で過ごした。9月7日には敵船13隻を追いはらい、9日にも甘浦島まで侵入して来た敵船2隻を追い出した。将軍は思案の末、15日に海南の右水営に陣を移すやいなや、12隻の小船で330隻の敵船をことごとく撃ち破った。ああ何と痛快無比、万苦の歴史に燦然と輝く偉大なる勝利よ。

この日、珍島のすべての住民たちは、馳せ参じて軍士達に衣服と食糧をおくり、李天亀、金水生、金聖振、河水坪、朴軒、朴希齢とその息子麟福、そして梁ウン池とその甥啓源と曹鐸、曹ウン亮とその息子命新など、数多くの義士達が命がけで戦い、海の泡と消えて護国の神となった。このことは、真に珍島民の誇りである。珍島の民俗カンガンスウレの歌と踊りは、義兵戦術の物語を今につたえて涙をさそい、鹿津と鳴梁に置かれたという鉄鎖の跡は、老人達により語り継がれてきた。今ふたたび同胞の御功と精気を永世につたえるために、碧波津に石碑を建て、その前にひざまずき、過去の事績を書きとめて、これを歌にする。

12隻の老船を集め
碧波津に集結して海を守る
その事情を知る者なく、一人涙を流す
300隻の敵船を、山を崩す如くに討ち沈め
ウルトルモクの急流に泡のように消え去る
太鼓の響きのなか、公は一人立つ
誇り高き公の恩功が、いずこに消えようか
熱血の義士魂は、永久に消えることはない
この海辺に立って、この身に深く刻み込もう

壇紀 4288年 (1956年)9月19日
鷺山・李殷相の詩、素筌・孫在馨の書により、珍島教育区教育監の郭忠魯が区内の教職員と生徒、珍島郡民の募金を集め、この碑を建立する。


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上空から撮影した李舜臣将軍の石碑

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上空からの碧波港 (中央に見える港)
1984年10月18日に珍島大橋が開通する以前はこの港からとなりの海南に渡る船がでた。
現在は木浦から済州島に行く船が珍島に寄港する。
運行時間 14:30(珍島 出港)ー17:00(済州島 到着)
料金:片道 41,750ウオン(2011年8月現在の料金です)




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