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珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

元寇と三別抄

日本では元寇で知られる蒙古の襲来以前に、高麗での蒙古による侵略において、蒙古軍に対抗した「三別抄の戦い」があった。
「海が割れるのよ~~~」で知られる珍島にはこの三別抄軍の遺蹟が残っている。

では三別抄軍とは何か。まずはその説明からはじめることにする。

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三別抄(サンビヨルチョ)関係の年表
*1206年-チンギス=ハン即位
*1231年-蒙古の高麗侵略がはじまる
*1232年-高麗王朝が開京(現・開城)から江華島に還都
*1260年-フビライ即位
*1270年-三別抄が蜂起、珍島へ移って蒙古に抵抗する
*1271年-三別抄が全羅道・慶尚道南岸を制圧
     三別抄が日本に救援を求める
     蒙古・高麗王朝が珍島を攻略する(5月)
     三別抄勢力は壊滅的打撃を受け、済州島へ移る
     日本で三別抄の「牒状」が審議される
*1273年-済州城が陥落し三別抄が鎮圧される(4月)
*1274年-元が日本へ侵攻する(文永の役)
*1281年-元が日本へ再び侵攻する(弘安の役)

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もともと三別抄軍は高麗国内の治安維持のために組織された軍隊だった。左別抄・右別抄・神義軍を合わせて三別抄軍という。

高麗は1270年の武臣政権崩壊に伴って解散を決定する。このとき江華島に残っていた三別抄は解散指示を拒否した。

そして三別抄の中心人物である裴仲孫は、王家の流れをくむ承化候温を「王」として冊立した。
三別抄の「反乱」は、蒙古に服従する高麗の現政権を認めず、正統的と主張しうる「国家」の設立であった。

1270年の6月に三別抄軍は千隻余りの船で江華島を出発し、約2か月後の8月16日に珍島の碧波に上陸し、龍蔵山城を建てた。

龍蔵山城(上空)

宮殿跡
宮殿跡を上から写す!雄大であった当事の建物が伺い知れる。

欠片(宮殿の・・)
宮殿跡で拾った高麗時代の建物の欠片!

三別抄はたんなる反乱軍や、盲目的な愛国集団ではなかった。その証拠に「図籍(ずせき)」というものを自らの手で焼いた。

身分制度の強かった当時の高麗社会にとって非常に大切なものだった。
それを焼くということは貴族か民衆か区別をなくし、国民の身分も否定したことになる。

この三別抄の勢力は、全羅南道全域と慶尚南道の一部を掌握する海上王国を成した。
日毎、勢力が強まる三別抄を打つため、連合軍は何度か珍島上陸を試みたが、ことごとく失敗に終わる。

三別抄の経路

ついに1271年5月、麗蒙連合軍は左・右・中の三軍に分かれ珍島に総攻撃をかけた。

この大攻撃に三別抄軍は戦闘らしい戦闘もできないまま逃げ出し、現在の五日市ーソクキョンー珍島邑まで逃れ、ここで二手に分かれた。

この戦で承化候温「王」とその息子である恒は義新面の沈渓里で敵に捕まり首を打たれて亡くなる。

現在そこは「王の峠」という地名が残り、峠の左手には王の墓と、王が乗っていた馬の墓が残っているが、息子の墓は残っていない。

王温の墓(入り口)

王の墓

この峠を越え雲林山房方面にむかう途中には「論首」という村がある。
この付近で「王の首を打つか!否か!を論じた」というのが地名の由来だが、最近は縁起が悪いというので「首」を韓国語の発音が同じ「水」に代えて論水村と呼び名を変えた。

論水村

三別抄軍の残党、金痛精らは義新面の金甲から済州島に逃げ、
三別抄を率いた裴仲孫将軍は南桃浦に逃れここで最後を遂げる。

高麗人同士が血で血を洗う激しい抗争は、
わずか10日間で終結し珍島の三別抄国家は1年も続かず消滅した。
記録によると男女の捕虜が1万名、珍しい宝や器材が山と成した!とある。

1273年4月には元と・漢軍(旧金朝の兵士)・高麗軍合わせて一万もの兵による総攻撃の末、済州島は陥落し三別抄は滅亡する。

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『歴史誕生より』
解読された謎の国書(蒙古襲来の真相)

石井正敏 構成 / NHK 江藤厳二

 モンゴル(蒙古)勢力が世界を席捲していた13世紀、皇帝フビライは2度にわたって日本侵略を企てた。このとき突然の嵐によって難を逃れた日本には「神風神話」が誕生した。しかし蒙古の侵略が失敗に終わったかげには、燐国高麗の反蒙古勢力の存在があった。かれらの抵抗勢力こそ、日本を助けた「もうひとつの神風」だったのだ。近年発見された700年前の1枚の文書、そこには蒙古襲来の史実に、知られざる一面があったことが秘められていた。

三別抄、珍島に新国家樹立
(愛国心の強い三別抄の人々は、蒙古帝国とその傀儡の旧王朝の抵抗。
 新たな国家を建国し、龍蔵城を築造した)

江華島から珍島へ
 1270年、江華島の宮殿を追われるよにして出た三別抄の軍隊は、海路をたどり朝鮮半島の南西海域へ移った。ここは多島海という名が示すとおり小さな島々が点在している。かれらはその島のひとつ、珍島へ渡ったのだ。

徹底反抗を続ける三別抄
 700年前、高麗王朝に追われるようにしてこの島へ移ってきた三別抄の軍隊を島の人々は喜んで迎えた。当時、島の人々は大量の食糧を提供したばかりでなく、男たちは進んで兵士となり、戦いに加わっていったのだった。さらに当時この島での抵抗運動に加わっていったのは、珍島に住んでいた人々ばかりではなかった。永年にわたる蒙古の侵略に耐えかねていた高麗の人々は、三別抄の動きに呼応するかのように各地で、次々に蜂起していったのである。そして、民衆たちの力強い支持をうけた三別抄は、蒙古と高麗王国から送られてくる降状勧告を何回も退け、徹底抗戦の姿勢を貫いていく。

我が本朝三韓を統合す
 そして、文永8年に「高麗牒状」が日本に送られた。当時の交通事情を考えれば、その牒状をもった使者が珍島を発ったのは、三別抄がこの島に入ってまもなくのことである。当時、珍島での抵抗の勢いは最高潮に達していた。いったい三別抄は、珍島においてどのような状態だったのだろうか。珍島での拠点だった龍蔵城の遺跡の遺跡は木浦大学の研究者によって行われた。九層に及ぶ石垣、無数に散乱する瓦の破片。木浦大学の博物館長はこう語る。「この城を三別抄の人たちは数ヵ月で築き上げ、何万人にも及ぶ兵士たちがここに集まってきました。三別抄の本体だけでなく、島の民衆、そして周囲の島々や半島本土から、蒙古帝国に抵抗するという目的で人々が続々と集まったのです。その勢力範囲は、最盛期には半島に南半分にも達する勢いだったようです。珍島を中心にした海上国家が新しくここに生まれたのです。そしてここがその新しい国家の首都だったのです。」
 高麗の従来の王朝が蒙古帝国の属国化していたとき、それとは別に独自の王国を推戴し、政府機関を設置して、民族自決をめざすもうひとつの高麗国家が、ここ珍島を拠点にして誕生しようとしていたのだ。日本に送られた「文永8年高麗牒状」は産声をあげたばかりのこの新国家にとって切実なる建国宣言だったのかも知れない。そしてその一説に「我が本朝三韓を統一す」と記されていたという。これは、我こそは高麗の正当王朝であるという理念を示したものだったのではなかろうか。

愛国者集団、三別抄
 三別抄の人々は、たんなる反乱軍や、たんなる盲目的な愛国者集団ではなかった。その証拠に、かれらは「図籍」というものをみずからの手で焼いてしまった。身分証明書である図籍は身分制度の強かった当時の高麗社会にとっては非常に大切なものだった。それを焼くということは自分達の身分を貴族だか民衆だかわからなくするだけでなく、国民全員の身分をも否定したことになる。このとき、三別抄はもともとの王朝の親衛隊という性格から、民衆の軍隊になったといえるのではないか。だからこそ珍島や半島全域の民衆たちは高麗王朝ではなく、三別抄新国家のほうを支持していったのではないか。

日本朝廷は蒙古の脅威さえ知らず
 「文永8年高麗牒状」のことを伝える数少ない史料のひとつ、「吉続記」によると、当時の日本は三別抄新国家の必死の要請の期待には応えなかったようだ。日本で朝廷や鎌倉幕府が三別抄国家から送られてきた国書への対応に苦慮していたそのとき、その国書を出した珍島国家はすでに存在していなかった。文永9年(1271)5月、日本侵略を急ぐ蒙古帝国皇帝フビライは戦略上最も大きな妨げになっていた三別抄の追討を高麗王朝に命じたのである。蒙古皇帝・高麗王朝連合軍に対して、三別抄側は軍人に混じって民衆たちも鍬や鎌を手に立ち向かった。しかし、その抵抗も長くは続かなかった。高麗人同士が血で血を洗う激しい抗争もわずか10日間で終結し、珍島の三別抄国家は1年も続かずここに消滅した。

力尽きた抵抗運動
 目の前に立ちはだかっていた三別抄国家を滅ぼしたフビライは、このときはじめて直接日本を射程距離にとらえることができた。津島海峡を挟んで九州に臨む朝鮮半島の南部の港では、日本遠征用の準備が急ピッチで始まった。しかしフビライはまたも妨害に出会う。珍島の激戦を逃れた三別将軍の残党が、海上ゲリラ集団と化して次々に港を襲撃し、日本遠征用の軍艦を焼き払っていったのである。三別抄の残党は、珍島のさらに南方の島耽羅(現在の済州島)を拠点として活動を続けていたのである。たまりかねた皇帝フビライは日本遠征計画を一時延期、その全軍を耽羅の三別抄追討に差し向けたのである。かれらの抵抗はついに力尽きた。文永10年、じつに第一次蒙古襲来の1年前のことであった。

もう一つの神風
 蒙古襲来の時期は、三別抄の反抗が続いたおかげで大幅に遅れた。抵抗そのものは3年間で終わってしまったが、その精神というのは民衆に引き継がれたようだ。日本遠征のための軍隊を建造するために、高麗の民衆が動員されることになるが、かれらはひそかに船を焼いてしまったり、手抜き工事をしていたらしい。つまり船板を三枚つけるところを一枚でやめてしまったり、強度を増すための梁や桟をつけなかったりしていたという。このおかげで、非常にもろい船が日本に攻めていったときに、嵐のなかでじつに簡単に沈没してしまうことになる。蒙古襲来は嵐のおかげで、二度とも日本が助かっているが、その神風というのは自然現象であくまでも偶発的なものだった。しかし三別抄の抵抗というものは偶発的なものではなく、実際にあった、日本にとってはまさしく具体的な神風ではないだろうか。
 しかし日本に住むものはこのもうひとつの神風、三別抄の抵抗をしるよしもなかった。そして、蒙古襲来の経験は「日本は絶対不可侵である」という「神風神話」をつくりあげていくことになる。


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