ken tsurezure

2010/05/02(日)21:08

ロックンロールは鳴り止んだ 神聖かまってちゃん

音楽あれこれ(62)

 今になって振り返ると という視点ではあるが、いわゆる「97年組」の登場は日本のロックの転換点だった気がする。  それまでの日本のロックは、基本的にBOOWYとブルーハーツとストリート・スライダーズの系統を押さえていればそのバンドがどのような音楽をしているかが説明できた。もちろんフリッパーズ・ギターや電気グルーヴやユニコーンといった偉大なる例外もあったが、97年組が現れるまで上記の三バンドはそれまでの日本ロックのスタイルを決定付けていた。  多少の乱暴さはあっても、例えばピーズだったら「自分が思っていることや考えていることをわかりやすい歌詞と激しいギターサウンドで演奏する」ということでブルーハーツ系統の音楽だ。とか、ミッシェル・ガン・エレファントは「反社会的な立ち位置とルーツミュージック志向の硬派なロックバンド」ということでストリート・スライダーズ系統の音楽だ。とか、系統による仲間分けができた。  しかし、例えばナンバーガールやスーパーカーが上記の三バンドのうち、どの系統に属するかを考えるのはナンセンスだ。ナンバーガールもスーパーカーもそうしたバンドの影響は多少受けたかもしれないが、もはや彼らはそうした区分では説明できない音楽を演奏し始めていた。  そしてそうした97年組のフォーマットが形を整えると同時に日本のロックは転換期を迎えた。  2000年代に活躍したバンドをBOOWYやブルーハーツやストリート・スライダーズの文脈で語ることは不可能に近い。そうしたバンドよりも97年組の音楽に、より親和性がある。そんな形で日本のロックは97年組、ナンバーガールやスーパーカーやくるりや椎名林檎や中村一義といったアーティストの影響下で進んでいった。そういう感を僕は持っている。  2000年代の日本のロックは何だったのか。一言でいうと日本のロックは誰を代表するのか不明なものになっていく過程だった。それに尽きるのではないかと思う。  大昔であれば、暴走族の集会にモッズの音楽が流れていたとか、尾崎豊がある若者像としてジャーナリズムから注目を浴びただとか、ブルーハーツが朝日ジャーナルの特集で掲載されただとか、ある意味でロックバンドがあるタイプの若者を代表しているということがお約束のように自明であった。  だから逆にブルーハーツなり、BOOWYなりの歌詞を読み解くことが、若者のどのような感性を象徴しているのかの手がかりになりえた。  しかし2000年代のロックは違っていた。音楽の細分化が進み、また音楽の享受の仕方も変化した。くるりとB'zと宇多田ヒカルが同じ人のCD棚に入っていても、あるいはアイポッドのプレイリストに並んでいたとしてもそれほど違和感がない。そうした音楽の享受の仕方が広まるとあるアーティストの歌詞を丁寧に読み取ってもそれが誰の感性を代表しているのかわからない。  例えば2000年代の若者の感性を語る音楽を一つあげろといわれて、「これ」と提示できるものがあるだろうか。  97年組以降のロックはそうした形で進んでいった。 夕暮れ時、部活の帰り道で またもビートルズを聞いた セックスピストルズを聞いた 何かが違うんだ MDとってもイヤホンとっても 何でだ全然鳴り止ねぇっ        「ロックンロールは鳴り止まない」 ネットの動画サイトで話題を呼び、サマーソニックにも出演し、最近になってメジャーデビューを果たした神聖かまってちゃん。 その音楽を聴いて僕はこんなことを思った。 ナンバーガールとスーパーカーが中村一義のカバー曲をくるりのプロデュースでセッションしたものの、あまりにも出来が悪くひどいものができてしまったので、そのセッションはなかったことにして焼却処分しようとしたそのテープがたまたま盗難されて出てきてしまった。    その音楽から聞こえるのは豊穣でもロックンロールの未来でもなく、これ以降先がないというドン詰まりの音。  例えばイギーポップやセックスピストルズだったら、何かが始まる予感を感じることが僕にはできた。しかし神聖かまってちゃんに僕はそうした展望を全く見出すことができなかった。  以前村上龍がこんなことを言っていたのを思い出す。60年代の豊かなロックを体験してきた彼が初めてセックスピストルズを聞いたとき、そのあまりに単純な音楽に絶望的な気分になってロックを聴くのをやめてしまった。  神聖かまってちゃんの音楽は旧世代の人間にとってはそういう類の音楽だ。  「この先行き止まり」「この先に未来はない」  それはつまり97年組以降のロックに終わりの宣告を叩きつけた、そんな音楽だ。  彼らの歌の歌詞は深読みすることができない。はっきり言ってしまうと身も蓋もない表現だ。ニートの焦り。いじめの体験。コンピュータにかじりついて孤独に襲われてしまったときの荒んだ気分の独り言。  そうしたことを歌うバンドは今までいなかった。そういう目新しさはあるけれど、だからどうしたという気分が先にたつ。その音楽に深みがなく歌詞も単純。それは。あえていうと僕らのような旧世代の人間に退場を迫る音楽だ。  村上龍がセックスピストルズを聞いてロックを見捨てたように。  「ロックンロールは鳴り止まない」はある意味彼らのロックンロール新世代のアンセムにも聞こえる曲だ。  しかし僕にはそこに何か新しいものを見出すことができない。ビートルズとピストルズを同列に並べてしまう感性。それは僕ら1971年生まれの人間にとって新しいものではない。最近の曲は糞みたいな音楽ばかりだ。それはいつの時代にも共通のもので、そうしたものに対するアンチは既に何度も見ている。  様々なところで毀誉褒貶が付きまとう神聖かまってちゃん。それは彼らの音楽がそういう性質を持っているからだ。    そして僕は彼らの音楽からこういうメッセージを読み取った。  ロックンロールは鳴り止んだ  その後の日本のロックをそれでもまだ僕はフォローし続けるのか。どうなのか。それは、僕にはまだ決めかねているのだけれども。 神聖かまってちゃん / 友だちを殺してまで。 【CD】

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