テーマ:今日聴いた音楽(73633)
カテゴリ:音楽あれこれ
今になって振り返ると という視点ではあるが、いわゆる「97年組」の登場は日本のロックの転換点だった気がする。
それまでの日本のロックは、基本的にBOOWYとブルーハーツとストリート・スライダーズの系統を押さえていればそのバンドがどのような音楽をしているかが説明できた。もちろんフリッパーズ・ギターや電気グルーヴやユニコーンといった偉大なる例外もあったが、97年組が現れるまで上記の三バンドはそれまでの日本ロックのスタイルを決定付けていた。 多少の乱暴さはあっても、例えばピーズだったら「自分が思っていることや考えていることをわかりやすい歌詞と激しいギターサウンドで演奏する」ということでブルーハーツ系統の音楽だ。とか、ミッシェル・ガン・エレファントは「反社会的な立ち位置とルーツミュージック志向の硬派なロックバンド」ということでストリート・スライダーズ系統の音楽だ。とか、系統による仲間分けができた。 しかし、例えばナンバーガールやスーパーカーが上記の三バンドのうち、どの系統に属するかを考えるのはナンセンスだ。ナンバーガールもスーパーカーもそうしたバンドの影響は多少受けたかもしれないが、もはや彼らはそうした区分では説明できない音楽を演奏し始めていた。 そしてそうした97年組のフォーマットが形を整えると同時に日本のロックは転換期を迎えた。 2000年代に活躍したバンドをBOOWYやブルーハーツやストリート・スライダーズの文脈で語ることは不可能に近い。そうしたバンドよりも97年組の音楽に、より親和性がある。そんな形で日本のロックは97年組、ナンバーガールやスーパーカーやくるりや椎名林檎や中村一義といったアーティストの影響下で進んでいった。そういう感を僕は持っている。 2000年代の日本のロックは何だったのか。一言でいうと日本のロックは誰を代表するのか不明なものになっていく過程だった。それに尽きるのではないかと思う。 大昔であれば、暴走族の集会にモッズの音楽が流れていたとか、尾崎豊がある若者像としてジャーナリズムから注目を浴びただとか、ブルーハーツが朝日ジャーナルの特集で掲載されただとか、ある意味でロックバンドがあるタイプの若者を代表しているということがお約束のように自明であった。 だから逆にブルーハーツなり、BOOWYなりの歌詞を読み解くことが、若者のどのような感性を象徴しているのかの手がかりになりえた。 しかし2000年代のロックは違っていた。音楽の細分化が進み、また音楽の享受の仕方も変化した。くるりとB'zと宇多田ヒカルが同じ人のCD棚に入っていても、あるいはアイポッドのプレイリストに並んでいたとしてもそれほど違和感がない。そうした音楽の享受の仕方が広まるとあるアーティストの歌詞を丁寧に読み取ってもそれが誰の感性を代表しているのかわからない。 例えば2000年代の若者の感性を語る音楽を一つあげろといわれて、「これ」と提示できるものがあるだろうか。 97年組以降のロックはそうした形で進んでいった。 夕暮れ時、部活の帰り道で またもビートルズを聞いた セックスピストルズを聞いた 何かが違うんだ MDとってもイヤホンとっても 何でだ全然鳴り止ねぇっ 「ロックンロールは鳴り止まない」 ネットの動画サイトで話題を呼び、サマーソニックにも出演し、最近になってメジャーデビューを果たした神聖かまってちゃん。 その音楽を聴いて僕はこんなことを思った。 ナンバーガールとスーパーカーが中村一義のカバー曲をくるりのプロデュースでセッションしたものの、あまりにも出来が悪くひどいものができてしまったので、そのセッションはなかったことにして焼却処分しようとしたそのテープがたまたま盗難されて出てきてしまった。 その音楽から聞こえるのは豊穣でもロックンロールの未来でもなく、これ以降先がないというドン詰まりの音。 例えばイギーポップやセックスピストルズだったら、何かが始まる予感を感じることが僕にはできた。しかし神聖かまってちゃんに僕はそうした展望を全く見出すことができなかった。 以前村上龍がこんなことを言っていたのを思い出す。60年代の豊かなロックを体験してきた彼が初めてセックスピストルズを聞いたとき、そのあまりに単純な音楽に絶望的な気分になってロックを聴くのをやめてしまった。 神聖かまってちゃんの音楽は旧世代の人間にとってはそういう類の音楽だ。 「この先行き止まり」「この先に未来はない」 それはつまり97年組以降のロックに終わりの宣告を叩きつけた、そんな音楽だ。 彼らの歌の歌詞は深読みすることができない。はっきり言ってしまうと身も蓋もない表現だ。ニートの焦り。いじめの体験。コンピュータにかじりついて孤独に襲われてしまったときの荒んだ気分の独り言。 そうしたことを歌うバンドは今までいなかった。そういう目新しさはあるけれど、だからどうしたという気分が先にたつ。その音楽に深みがなく歌詞も単純。それは。あえていうと僕らのような旧世代の人間に退場を迫る音楽だ。 村上龍がセックスピストルズを聞いてロックを見捨てたように。 「ロックンロールは鳴り止まない」はある意味彼らのロックンロール新世代のアンセムにも聞こえる曲だ。 しかし僕にはそこに何か新しいものを見出すことができない。ビートルズとピストルズを同列に並べてしまう感性。それは僕ら1971年生まれの人間にとって新しいものではない。最近の曲は糞みたいな音楽ばかりだ。それはいつの時代にも共通のもので、そうしたものに対するアンチは既に何度も見ている。 様々なところで毀誉褒貶が付きまとう神聖かまってちゃん。それは彼らの音楽がそういう性質を持っているからだ。 そして僕は彼らの音楽からこういうメッセージを読み取った。 ロックンロールは鳴り止んだ その後の日本のロックをそれでもまだ僕はフォローし続けるのか。どうなのか。それは、僕にはまだ決めかねているのだけれども。 神聖かまってちゃん / 友だちを殺してまで。 【CD】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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歌詞は深読みすることができない?
自分には深すぎて底が見えない 本質をとらえていない人には絶望を突き付ける歌。あなたたちの出番は終わりだよって。 恐ろしいほどの誹謗中傷を受け止めて、かみ砕いて発信する。こんなことができる彼らに希望を感じる。 フラストレーションの発散、ロックの系譜、ジョンレノン、ジョンライドンと本質的に同じ。 「ニートの焦り。いじめの体験。コンピュータにかじりついて孤独に襲われてしまったときの荒んだ気分の独り言。」全て大昔から歌われている。形は違えど。 ロックンロールは鳴りやまない。 分かりあえることを願う。 (2010.05.25 12:50:50)
???さん
>コメントありがとうございます。また多忙につき、返信が遅れてしまったこと、お詫び申し上げます。 神聖かまってちゃんを聞いてまず思ったのは、イギリスのthe smithsというバンドです。 彼らはサッチャー時代のイギリスの中から生まれたバンドです。彼らの歌ったことは労働者階級の絶望であり、ニヒリズムであったり、またいじめといったことも歌にしていましたが、多分モリッシーという作詞家の非常に類まれな資質によるものだと思いますが、 とても豊かな詩世界を作り上げていました。 still illといった曲は神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まない」と似たような「マニフェスト」の曲ですが、非常に多義的で聞く人それぞれによって解釈が違ってくるのではないか。そんな気がします。 こういうことを言うと、「ロックは結局ビートルズを超えることができないじゃないか」といった意見だとか、 「昔のロックはこんなに豊かな表現に満ちていたのに、最近のロックは…」といった 僕が若いころに聞いた年寄りの意見と似てしまっているな そう感じることはあります。 日本のロックも日本の時代や状況と切り離せない関係があり、また若い人たちのリアルも時代が変われば変わる。 だから若い方々がthe smithsや例えばブルーハーツなんかよりも神聖かまってちゃんの方がリアルであると感じることに僕は何も申し上げる立場はない。 でも僕自身の感性では神聖かまってちゃんに音楽的な深みや歌詞の深みを感じることができない。 それはなぜなのか。それを考えた結果が本文に書いたような理由です。 だから神聖かまってちゃんは日本のロックの世代交代を告げるバンドであると思うし、 神聖かまってちゃんを理解できない僕はある意味で日本のロックから退場を迫られている年寄りの一人である そんな気がしているというのが、この文章を書いた理由でもあります。 (2010.05.27 22:09:35)
身も蓋もない素直な歌詞ってむしろ芸術では高く評価されるもの。
もちろんの子さんの書く歌詞が文学性がある良いものだというつもりは全くない。 単に精神年齢が10歳ぐらいのお子様が 思っていることをそのまま書いてあるだけだ。 しかし、変に無い頭で文学的な歌詞をこねくり回そうとするよりかは 素直でストレートなメッセージの方が幾分かマシ。 そうやって貧弱な手持ちの札でガンガン行動していく姿勢はロックだと思うし、 すくなくとも受動者でうだうだ言ってる惨めな人間よりはやっぱり百倍マシ。 現にそういうの子さんの姿勢はほかの音楽関係者に高く評価されていたと思います。 他の記事を読みましたがアップされてる詞(小説?)も自分に酔ってるだけの気持ち悪い詞で 文学性なんて微塵も感じられなかったです。 僕が先ほど申し上げた、無い頭で文学性をこねくりまわしして作り上げようとしている 人間にあたると思います。 ちなみに僕は文学に詳しくないのですが、 好きなのは真島昌利さんの書く詞です。 深みがあっていいなあと思います。 シンプルに人間のある世代での心理を書き表していると思います。 そういう基準で言っています。 僕が言いたいのは所詮ロックの主体者としてはの子さんに負けている モブの人間が うだうだ自分に酔ってるかのごとく、ちゃんと頑張っている人間をこきおろすってのは 情けなくないのかという話です。 逆にそういう自分の立場に自覚的なうえで言っているのなら、別にどうこういうつもりはないですが。 退場を迫るも糞も、ロックは基本的に幼稚な人間が聞く音楽だと思います。 幼稚な管理人さんの精神性がやっとロックを越えたんじゃないでしょうか。 まあ大昔の記事にマジレスですが。。。 結局地力の問題で 神聖かまってちゃんはもう売れる気配がないですしね。 (2014.08.06 16:08:02)
aiueoさん
コメントありがとうございます。 一応礼儀として、この文章をアップした動機をまず書かせていただきます。 神聖かまってちゃんの「友達を殺してまで」というアルバムを知ったのは、確か新聞の記事でピックアップアーティストとして取り上げられていた記事です。確か朝日新聞だったと思います。 そのアルバムを聞いたときに、僕自身が全くその音楽に共感できなかったことに非常に衝撃を受けました。 なぜ僕は神聖かまってちゃんの音楽に共感できないのか、自分なりに考えてみた結果、できた文章が本文の文章です。 僕自身は神聖かまってちゃんを貶すつもりでこの文章を書いたわけではないけれども、貶しているだけにしか見えないというのであれば それは完全に僕自身の文章力のなさに問題があるということでしかない。 そういうことだと思います。 だいぶ昔に書いた文章なので、そのときには見えなかったことが見えてきた。 それは神聖かまってちゃんは本当に僕にとっての「セックスピストルズ」だったのだということです。 神聖かまってちゃん以降の日本のロックと呼ばれるジャンルの音楽に僕はほとんど共感できなくなってしまいました。 それは本当に僕らのような古い感性のロックファンに退場を迫ったロックが神聖かまってちゃんだった。 その予感のようなものは当たっていたのだ。 この文章についてはそう位置づけています。 僕らと同世代の音楽でも共感できない音楽はたくさんありました。 でも神聖かまってちゃんについては、どうしても書かないといけない気がした。 それは神聖かまってちゃんの音楽がまぎれもなく誰かにとってのリアルロックであり、 ある世代にとってのリアルを表現している。 それは「僕にはモーニング娘。に共感できない」というレベルではなく、もっと深いレベルで何かの断絶を感じる。 それはとっても重要な何かだと思う。 そういうことを書きたかったのだけれども結果として単に貶しているだけと感じたのであればそれはそれで仕方がないことだと思います。 そしてこの度は、僕のほかの文章まで目を通していただいたみたいで、大変ありがたく思っております。 自分の文章がの子さんよりも素晴らしい表現だとか 真島さんのような素晴らしいものだとか そんなうぬぼれは持っておりません。 まぁ自分が書けるものとしてベターであればいいかな。くらいでしかない。 そしてそれはほとんど達成できていない。 それが今まで書けた文章に対する自己評価です。 そうした文章が気持ち悪いというのであればそれはそれで仕方がないことです。 aiueoさんが僕の文章に対して真正面から対峙していただき その上でご批判をしていただいたことに 大変ありがたく存じております。 ご批判に対する僕の回答は以上のようなものです。拙い文章で僕自身の考えをお伝えできていれば幸いだと思います。 (2014.08.17 07:16:24) |
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