2017/10/17(火)15:15
銀杏BOYZ ライブ at 武道館 2017
仕事の都合で開演時間に間に合わず、10分遅れで会場に入ったら、大轟音のギターの音が鳴っている。
銀杏BOYZは、デビュー作の2枚のアルバムの頃から、轟音ギターが特長だった。そのギターの音はまるで欲求不満の中学生がやけくそになって演奏したパンクロックのような響きがした。でも今鳴っている武道館のギターの轟音ノイズはその頃とは感じが違う。それはマイブラッディヴァレンタインを連想させるような轟音ノイズだ。
武道館は2階の最後尾の列まで総立ちになっている。立見席も満員だ。そんな武道館ライブは非常に珍しい。観客の期待の大きさをそれは示している。銀杏BOYZのライブはかなり久しぶりという印象があって、僕自身も2007年のせんそうはんたいツアー以来の銀杏のライブだった。
それから約10年。2007年の轟音ノイズパンクの銀杏とはかなり違う銀杏BOYZがその武道館にいた。
MCでも言っていたけど、峯田自身はひたすら100mを全力疾走する感じで2007年のライブも、今回のライブにも臨んだのだと思う。それにもかかわらず、2007年の銀杏と2017年の武道館の銀杏は違っていた。いったい何が変わったのか。
長い沈黙の後、久しぶりに発表された銀杏BOYZの新作「光のなかに立っていてね」と「BEACH」は賛否両論を巻き起こした。昔の銀杏の轟音パンクロックから、非常に内省的で暗い印象の音楽へ。その急激な変化に僕を含めてかつての銀杏を知っている人々に大きなインパクトを与えた。
その変化のヒントが今回の武道館ライブにあった気がする。
例えとしてはあまりよくないかもしれないけれども、こういう例をあげることができると思う。YouTubeであげられている、視聴者が映した2011年の津波の映像は非常に衝撃的で、またあの時に何が起きたのかというドキュメントとしてとても貴重な映像である。
しかし、もしあの映像を「表現」として見たら、優れた表現ではないと思う。あのときカメラをまわした視聴者はその映像を「表現」のためにまわしたわけではなく、ほぼ事故のようにあの凄まじい災厄を映してしまった。
もし2011年の災厄を「表現」した作品を見ようとするならば、例えば「シンゴジラ」といった映画作品を見るべきなのではないかと思う。それが表現として優れているか否かについての判断は人によって違うだろうとは思うけれど。
「DOOR」や「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」といった初期の銀杏BOYZの音楽はまさしく「性春時代」の生々しく衝撃的なドキュメントである。
ひたすら本能の赴くままにギターノイズをかき鳴らし、爆死していく銀杏のその頃の音楽はYouTubeにアップされた身の毛もよだつ津波映像のように衝撃的で生々しい。
そうした生々しい「性春時代」の鬱屈を表現できたのは、峯田の過剰な情念と才能があったからこそだ。
そしてその峯田の才能は、銀杏を「性春時代」のドキュメントの再生産ツールにすることを許さなかった。
年を経て色々な経験を重ねるうちに、峯田の才能は「表現」の深化へとシフトしたのだろうと思う。それはYouTubeにあげられた津波の映像ではなく、「シンゴジラ」という映画作品へとその災厄の記憶が昇華されたように。
その表現の深化をどう評価するか。それは銀杏ファンの間では賛否両論なのだろうとは思うけれど。
峯田の「表現の深化」がどこへ向かうのか。それに大きな興味があって武道館のライブに行ったのだけれど、正直に言えばよくわからなかった。彼がどこへ向かうのか。その表現がどこへ行きつくか。それはわからなかった。相変わらず「100m走を猛ダッシュする」ように走っている峯田自身も、もしかしたらそれはわからないのかもしれない。
実際僕自身がこの日のライブで印象に残った曲をあげると「あいどんわなだい」と「光」だった。
今の状況は、観客が望む銀杏と峯田が表現したい「銀杏」の楽曲がずれてきている状態なのだろうと思う。
多分峯田のその才能は「援助交際」をそのまま再生産することを許さないのだろう。今の峯田のリアルは、「援助交際」ではなく「円光」の方にある。
「援助交際」のときも「円光」のときも、峯田は自らの情念に赴くままにその情念を楽曲の中に込めながら歌っている。峯田の過剰な情念が銀杏の音楽の特長でもあったし、そうした情念が峯田を動かしているのは今も昔も変わりがないのだろうと思う。
現在の「銀杏BOYZ」に僕が何かの違和感を感じるのは、表現と情念の込め方の関係である。峯田の「過剰な情念」を込める曲のフォーマットとして「援助交際」というプリミティブな曲は最高のものだった。しかし同じ「過剰な情念」を「円光」という曲のフォーマットに込めると何か違和感を感じる。つまり表現の深化に伴って彼の「情念」が取り残されてしまい、「表現される曲」という入れ物と「情念」との間に、齟齬が生じているのではないかと感じるのである。端的に言うと峯田の過剰な情念を盛り込む入れ物としては、「円光」よりも「援助交際」の方がしっくりくるということだ。
先ほど今回のライブで印象に残ったのは「あいどんわなだい」と「光」だったと書いたが、それもそうした齟齬を象徴しているような気がする。
最近発表されたシングルを聴いていると「援助交際」の頃とかなり肌触りが違うポップソングである。「光のなかに立っていてね」を聴いた後だと優れたポップソングだと素直に思えるけれど、「あいどんわなだい」の次のシングルだったらどうだっただろうか。その間に生じた変化をどうとらえるべきなのか。
今回の武道館ライブを見て、その答えは出なかった。だけど退屈で高級すぎる表現に移行したわけではなく、あるところでは2007年の峯田と陸続きでありながら、あるところでは大きな変化を感じる。そんな印象を持った。
そしてそれは2007年の頃のようではないけれど、僕を引き込むところがある。今の「銀杏BOYZ」に疑義を唱えるようなことを書いてしまったけれど、いつまでも余韻が残った素晴らしいライブだった。それだけは確かだった。
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