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カテゴリ:美術・芸術・博物鑑賞
きょう最後は、「京都国立博物館」の展覧会を見ました。 今は、「魅惑の清朝陶磁」という特別展をしています。 たびたび「焼物は苦手だ」と言いながら、最近は結構焼物の展覧会にも足を運んでいます。(笑) 絵画は一部を除いてすぐに画風が目に焼きつくのに、焼物は何度、どんな作品を見ても、いろいろな区別がほとんどつくようになりません。 今回の展覧会は「魅惑の清朝陶磁」というタイトルが示す通り、中国の清朝時代の焼物が中心でした。 「第1章.行き交う唐船」では、「江戸時代の鎖国中にも、オランダ、中国の2国は渡航を認められていた。長崎は中国商船(唐船)が着岸していて、少なからざる中国文物がもたらされていた」という説明から始まりました。 ポイントは江戸時代は外国との交易はしていなかったものの、中国は例外だったということでしょうか。 当時の中国は文明的には日本より‘先進国’であり、日本人の憧れだったという見かたができると思います。 その交易の様子を伝える伝円山応挙の『長崎港之図』がありました。 地図を立体化したような感じの絵で、唐船とオランダ船が古い日本画の中で色の‘どぎつさ’と相まって目立っていました。 オランダは「和蘭」と表記され、今でもたまに使用される「蘭」の1文字が定着したというあたりに、日本と古くから密接な関係にあった国だと感じさせられました。 他の絵に描かれている中国人は、いかにも中国人という格好をしていました。(笑) 小ぶりの焼物(主に食器)がやや雑多な感じに展示されていました。 ベトナム近辺やマラッカ海峡などの沈没船から引き揚げられたもので、高級感がなく、ヨーロッパ向けのものとは考えにくいと書いてありましたが、そう言われて見てみると、私の目にもどこか粗い作りであるように見えました。 「第2章.出土品が語る-江戸・京都・長崎-」では、「1644年に明が滅亡し、王朝が清に交代すると、海外交易が禁止され、中国陶磁の輸出は無きに等しい状態に陥った。その間に、日本では磁器生産地として有田が急成長し、国内需要を賄うようになっていった。しかし、意外にも相当量の清朝陶磁が同時代の中国から輸出されていたことが発掘調査が進められる中で判ってきた」と説明されていました。 18世紀の終わりごろから19世紀の半ばあたりまでの発掘された焼物が修復されて展示してありましたが、おおよそ時代が下るにつれて絵付けが粗くなっていました。 「第3章.独自の回路」では、「江戸後期には京都・江戸・大坂などには唐物屋といって輸入品を専門に扱う商店が存在した」ということでした。 『白磁観音立像』は真っ白な観音像で、表情が日本のものと違うことはすぐにわかりました。 『青花喜文字鉢』は、模様に文字を使っていました。 ヨーロッパの言語で用いる文字(ローマ字、キリール文字)は装飾にはならないところが、漢字との違いの1つですね。 並べて展示されていた『紫泥松竹梅鳥文獅子鈕茶瓶』や『紫泥松竹梅文茶瓶』の「紫泥」という素材の色がきれいだと思いました。 遠目には金属に見えるのですが、『粉彩花卉文紫泥水注』のように岩絵の具のような色合いの絵付けができることが違いの1つでした。 焼く前は紫に近い色なのかもしれませんが、均一の焦げ茶色が本当にきれいでした。 「第4章.日本からの注文」のコーナーには、「18世紀頃から清朝陶器の日本へもたらされた絶対量が増加していた。ほとんど同じものが作れるのにわざわざ中国へ発注していたのは、異国文化に対する憧憬の念があったとしか考えられない」と、ずいぶん主観的な説明がありました。(笑) この博物館の解説文は、以前から「~まい」とか「~のだ」といった、客観的な解説には通常は見られない表現が多いのが特徴だと思っています。 展示さていた水指などは茶道の道具なので日本向けだとしか考えられないわけだし、あるいは、『青花琵琶湖八景図磁板』と『青花琵琶湖八景図磁板』は日本の具体的な場所を描いた柄が入っているので、これも日本向けだということになります。 「第5章.旧家伝来の清朝陶磁」では、「輸入品は高級品でなくとも珍しいということで大事にされ、特に大型品は伝来する率が高い」ということで、旧家からの伝来品が展示されていました。 高級品であまり使われなかったために、欠けやひびがほとんどない、保存状態のいいものが多く展示されていました。 皿や水指、文鉢、扁壷などに、梅、山水、唐紋などがあしらわれていました。 『粉彩絵替散蓮華(十錦手)』はすべて異なる絵柄の蓮華が10個あって、きれいだと思う一方、実際に食器として使うのはためらわれるほど色鮮やかでした。 『青花黄彩花果文平鉢』は、黄瀬戸のような色合いの黄色が塗られていました。 蝋梅の花のような黄色が好きなのです。。。 『青花山水図花卉文透彫猪口』は角度を変えて見ても、透かしのところが透かしではなく、穴が開いている(貫通している)ようにしか見えませんでした。 こんなに完全なまでに透明にできた焼物は見たことがありません。 「第6章.江戸時代の中国趣味」では、「清朝陶磁の人気ぶりが日本の陶工たちに影響を与えたことが認められる。とりわけ粉彩技法の撫子(ピンク)は多くの人を驚かせた。日本各地の陶工が挑戦し、伊勢の地では江戸時代のうちにその再現に成功した」ということで、いくつか似たような感じのもので、一方は日本製、もう一方は中国製のものが並べてあったのですが、完全にどちらがどちらかわかりませんでした。 むしろ、きれいだと思ったほうが日本製だったということのほうが多く、完全に日本の技術が中国に追い付いたように感じました。 有田焼は見た目の派手さが目を惹きました。 「第7章.清朝陶磁と近代日本」では、「開国した日本輸入超過を防ぐための輸出産業振興として、世界に通用する陶磁器を作るべく、日本の陶工たちに研鑽・努力させた」ということで、1つ前の章の続きのような感じでしたが、ピンク色も見事に再現されていました。 『釉下彩藤花図花瓶(四代清水六兵衛作)』になると、私の目にも中国で作られたものではないということがかなりはっきりわかるようになりました。 形といい、絵といい、どこか日本独特の感じが漂っていました。 ただ、まだまだ清朝陶器へ対する憧れはあったようで、清の時代の焼物を模して作ったものは、逆に完全に中国製に見え、その意味ではいっそう区別がつかなくなってしまいました。 その逆と言ってもいいものが、「終章.影響の双方向性」にありました。 「1684年に中国からの輸出が解禁されると、今度は既にヨーロッパで高い評価を得ていた日本の『伊万里』を真似した清朝陶磁が作られた。大小強弱はあろうとも、文化の影響は双方向なのである」ということで、中国で作られた伊万里焼っぽい壷と瓶が2つだけ展示されていました。 言ってしまえば、立場が逆になった部分もあるということですね。 それほど興味があって見たわけではありませんが、1時間15分かかりました。 今回の展覧会は、展示物そのものよりも、他の国の高い文化に対する憧れを追い、やがて追い付き、そして追い越す(と言うと、言い過ぎでしょうか)という変化を見たような気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年10月29日 20時32分06秒
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