家族関係と家族愛
この話をする前に、どうしても「前提」を設けなければなりません。
そうしないと延々と話は続き、結論に近づく事が出来ないからです。
なぜならば、家族形態は多くの要素が絡まりあって出来ているものであり、これが一番良い形だという形はないからです。
多くの要素とは、
それは家族形態を形作っているその構成員(親子)一人一人の人間性に関係する要素です。
と言うのも、
一人一人、親子は全く違う存在だからです。
例え現在仮に親子であっても、ある前提の上に立って見ると全く違う人間(魂)として考えなければならなくなります。 どうしてもその前提をハッキリさせないと話しは進みません。
それではその前提を明確化しておきましょう。
1.家族の一人一人は、個別の魂
どの方々も一人一人は、偉大な魂の持ち主です。
誰もが一個の魂であり、光から出来ている密なエネルギーの塊です。
そして家族としてのメンバーは魂としての一員であり集合体です。
事実魂は、光そのものです。 勿論この肉体も光でできています。
それは神様・・・人間が浅知恵で考えた神ではなく、この宇宙そのものの意識・・・と繋がっている存在であり、我々一人一人が自分の人生を生きて、一人一人の心を成長深化させるため、この地上に生まれさせて頂く約束をして、我々は生まれて来ます。
一人一人の心の美しさに比例した天上界(天国・仏界・実在界・天竺)の場所からこの三次元の肉体を持つため、この地上界(三次元世界・物質界・この世)にやって来ます。
2.その家族の一員になることで、自分の心の目標に応じた魂の修行が出来る
家族の構成員(メンバー)は、殆どが良く似た心の持ち主の集団に成ります。
「類は類を持って集まる」と言えるものです。
良く似た魂同士が家族構成を構成しますから、その家族の一員に成ることで魂を成長させる為の問題が発生し易くなります。
理由は、同じ様な心を持っているために、同じ問題を抱える傾向が強くなるため、その結果同じ波動がぶつかるために自分と相手の問題点があらわになるからです。
どの様にしてその問題点が表面に出てくるのでしょうか?
それは、自分の嫌な性格(改善が必要な心の問題)をメンバー(家族等)が、現象として現してくれるからです。
その時に、本当の自分の姿(問題点)を指摘されたり見せられた人は、その現象を見て、それが事実の為にそれを否定しなければならないために怒ったり嫌悪したりします。
しかしその現実・事実が自分の問題点を映し出してくれている真実に、その人(対象者)は気付く必要があるでしょう。
なぜなら、人は、自分の短所・欠点を指摘されたり見るのが嫌なのですが、まだ「自分では気が付いていない欠点」を見ると、自分の心が傷つけられたような気持ちに成るのです。
そして自分は「そんな人間ではない!!!」と主張したくなるのです。
それが「怒り」と成ってしまうようです。
でも理(ことわり)・真実を理解できる人は、その問題点(欠点と思う事柄)を、逆に自分の「心の栄養素」として捉える事が出来るのも事実です。
しかし「欠点を理解することが心の栄養になる」・・その様に捉えられない魂・人であるならば、その問題点が理解できず、人・相手を批判中傷し、暴力で攻撃して行く事にも繋がります。
そしてそのことが余りにも極端になれば、その人を亡き者にしようと殺害するでしょう。
それは絶対に避けさせなければなりません。 人を殺したところで問題解決には決してならないからです。 逆に自分の心は深く傷がつくことになり、死んだ時に大きな後悔と共にその心に応じた場所で過ごさなければならなくなるからです。
その様な人はどうしても、自分自身の心を知らなさ過ぎるのが原因になります。
人の行っている姿を見て間違った嫌な気持ちを持つとき、間違った怒りを持つとき、それが心からの「真の正しい怒り」以外のものであれば、目の前に起こっている自分への嫌な現実は「自分の問題である」事を理解する「心の寛容さ」が必要だと思います。
どの様な事にも深く意味を捉えて、謙虚に接して行きたいものです。
3.自分のカルマ(業、原罪)の修正には、その家族が必要
人は永遠に続く心の旅路の過程の中で、心を修正する為に一人の人生を生き続けていますが、生きている最中に何度かは真面目に間違いを犯してしまいますね。
その様なとき正常な心の持ち主ならば、その間違いを認め修正をしながら、常に自分の心の内側を見続ける行為(その原因の追及と解決)をされ、自分の心の曇りを取り除こうとするものですし、その様な方々は実行されて行かれます。
この人生の過程の中で作ってしまった光以外の曇り、「心の曇り」が心に積もったものが「カルマ・業・原罪」として形成され、修正するべきものとして心に堆積してゆきます。
堆積した心の闇・垢・曇り・汚れ等々を心の中から取り除こうとして、私達はこの三次元社会に、強い願いを持って「自分の意志」で生まれて来ます。
そして魂の長い転生輪廻の過程の中で、真面目に造ってきてしまったカルマを修正しようと強烈に願い、そのカルマを自分で理解しやすい、表に出し易い、出やすい環境を選んで来ます。
その環境の最前線が、家族の集まりなのです。
ゆえにお互いが同じ様な心の持ち主ですから、当然その環境の中では、自分の心の問題が起こり易くなります。
それだから、自分にとって何を修正すれば良いのかが分かりにくくなり、逆に自分以外の人からは指摘され易くなります。
その生まれて来る環境や場所、家族になってくれている魂の友人たちを信じて心の修正を願って生まれて来ることになります。
それゆえに家族形態は本当に愛すべき、最高に素晴らしい集団なのです。
ただし、世界中の家族がこの事実を知らないがために、色々な場所で紛争が絶え間なく続いてしまっているのが現実なのです。
4.この世界では「偶然」は一切存在せず、「必然」が支配している
今までの事を理解下されば、この世の世界には「偶然が無い」事がお分かりだと思います。
それは誰もが「意志を持って行動している」ために、人生の延長線上で交差する場所に、人が関わり、その結果、現実化していることを見る事で、偶然だと思ってしまっているだけなのです。
偶然という言葉は、必要の無い言葉だと思います。
「全てが関わり合う」ということを考えると、実際には存在しないにもかかわらず、偶然が有るとするのなら,偶然から生じたものには、不必要な部分が有ると理解してしまいます。
なぜなら、「偶然にそうなったんだから、仕方がないんだ」、という判断をしてしまう結果を産むことになるからです。
しかし現実には、この世界で、自分に関係することに於いても全く不必要なものは何一つ存在していません。
その不必要だと思う心には、まだまだその人が気付いていない「モノの見方」「モノの捕らえ方」が、その人の心の中にあると思われます。
「全てが必要なモノであり、その全てが意志によって関わっている」
ことを理解できると、「必然が支配している世界」を感じる事が可能になることでしょう。
5.自分が両親を選び、自分が望んで生まれて来る
あの世の存在が判断できれば、この肉体を使って生きていると思っているこの三次元社会での行動が、全て自分の願いを生きようとしている世界でもあることを判断する事が出来るかも知れません。
何もかも自分で,自分の心の修正をする為に、「どの様に生きて行こうか」と計画をして生まれて来ている事実を、どの様に判断するでしょうか?
この世に計画をして生まれて来ている事実を判断することが出来れば、自分の願いで両親となる魂と互いに約束をして、生まれさせて貰っているという事が判ります。
そしてこれを事実だと受け止める事が出来るのなら、必然的に、親になって下さっている方々に、心から感謝する事が可能でしょう。
それが理解できない為に、現在の心の荒廃が、親子の中に存在しているのも事実です。
自分がこの娑婆の荒波の中に冒険をしに来ているのですが、そのきっかけを作って下さったのも、親になって下さっている魂なのです。
その魂に感謝する、親に感謝する事は、これだけでも当然な事なのです。
そしてこの社会が必然である以上、全ての存在に対して、自分が関わっているいないに関わらず、心からの感謝を必要とするのは当然ではないでしょうか?
6.自分の心のカルマの修正及び、人間に成るために行う「行」をおこなうために生きている
誰もがいま、「自分は人間なんだ」、と自覚している事と思います。
しかし私達が未だ人間として、「完成された存在ではない」ことも、十分理解する事が出来ます。
なぜならば、
我々人間が神(宇宙創造主)のように、誰かまわずにその愛情や慈悲(光や熱といった環境)を分け隔てなく、与える生き方をしている存在ではないからです。
どうしても我々は中途半端な魂として、現実を生きています。 人間に成る途上の道筋に立っている存在である、とでも言える魂です。
残念ながら自分の利害のことしか考えない存在として、生きています。
その宇宙創造主のように、あらゆる生命に対して、「完全なる愛」で命に関わりあっているという現実は、現在の社会情勢を見ても、自分の心の中を見ても、その隔たりには、気が遠くなるくらいに隔たったものであると自覚せざるを得ません。
それくらい私達は中途半端な存在であり、その完全なる愛に向かって長い道のりを歩いている存在という事が言えるかもしれません。
私達はその完全なる愛のエネルギーである、「神への道」を歩いている魂だということは言えると思います。
それ故に、我々の魂は真の人間になるために、今を生きているのだとも言えると思います。
「未完の頂き」
という表現があります。
我々はこの人生を常に
頂上に向かって生きようとしている訳ですが、
その頂上を目指すのは自分が未だ未完であるからです。
そしてその未完である人生において、自分のカルマ、カーマ(業、原罪)が、その未完成の中心を占めています。
そのカルマを修正する必要があるから、そしてカルマを修正し、完全なる愛のエネルギーの中に戻ろうと、我々は人生を歩いているに過ぎません。
神は意志を持たれ、ビックバーンを通じて、この三次元と四次元以降の社会を築かれ、それぞれの魂を、育てられています。
私達は今、その道を歩くだけでよいのです。
人として、未完のままで良いのです。
完全なるモノはこの社会では有り得ないかも知れませんが、未完だからこそ、真実が理解された時に、お互いが許しあえるものだと思います。
7.「自分の思う通りにならない」のがこの世の定めである。 「忍土」であるがゆえに、思い通りには成らないのです。
人生を計画をし、成功させるために完全さを望んでも、現実には「自分の思う通りにならない」のが、殆どではないでしょうか?
もし仮に、完全に何事も自分の思い通りに物事が進み、何でも手に入るとしたならば、果たしてこの地上界(この世)に生まれて来る必要はあるのでしょうか?
人は悩んで、そして幾多の事件を通じて、心を理解する事が多いと思います。
病気をして、自分の人生を振り返り、到らなかった自分の現実を知って、新しい自分を作ろうとし、心を入れ替え生きる人達もたくさん見かけます。
その人達は皆、自分の思い通りに生きて来られた方々ばかりでしょうか?
殆どの方々が、その人なりの苦労をされて来たんだと思います。
それがその人の為に必要だったからこそ、
その艱難辛苦を受ける必要が有ったという事が言えないでしょうか?
艱難辛苦の中には、自分ではどうしようも出来ない現実が目の前に横たわる事もあるでしょう。
しかしその時に、敢然とその現実に立ち向かって行かれた方々に(全ての人にではありませんが)、諦めずに生きて来られた方々に、新しい人生の道が現れる事が多いのも事実です。
自分の思い通りになる社会では、
自分の心の問題を表出させる事が出来ません。
だからこそ、自分の思い通りにならない現実を前に出す事で、その現実を生きる過程の中で、自分を見つめる行為を行う事が出来ます。
だからこそ
自分の思い通りに成らない方が良いのです。
そして努力をして
自分の道を探す冒険をするのですね。
だからこそ最後に美酒を飲むのは、
誰でもない貴方なのです。
8.しかし思念と行為で、己を改めるならば、人生は変化する
思う事も行いであり、
何ら行動しているのと変わりがないことが解りました。
思うだけでは相手に伝わらないものだと、思い違いをしている人が殆どではないかと思いますが、実際はそうではなかったのです。
思う思念という念は、実際には相手の心に響いているものです。
また思念が正しいものとそうで無いものとが有ります。
正しい思念は、自分も含め人を幸福に導きます。
しかし正しくない思念は、自分も不幸という環境に導いてしまいます。
その為に、自分の心を入れ替える努力をするならば、その行為が変化して行かざるを得なくなります。
正しい思念と行為が実際に行われる事になって来ますと、自分の心が心底から変化して来たものであるならば、それは自分の思念と行為を変化させて来たために、変化する事が出来た時点から、自分の人生を変えることに繋がってくる訳です。
それ故に、思念と行為の正しい使い方を理解して、現実を生き抜くことが大切だという事になります。
そしてそれが運命を変化させる事になるわけですね。
9.この世(現象界)は、全ての魂が心の修正をする事が出来る、唯一の場所である。
魂の段階の違いに関係なく、心の修行が出来る場所である。
ゆえにあらゆるモノの捉え方の違う魂が集まるために、多くの問題が生じる。
問題が生じる事で、その魂にとってその問題発生が必要な条件になる。
何故この世がその様な物質社会であるのかがわかりませんでした。
しかしこの三次元物質社会が心の進化のために必要な場所であるとするのなら、当然この場所は平等なものでなければ成りません。
なぜなら、幾多の魂が、心の次元の違う魂が、集まれる場所は存在できない事に成ります。
しかし神様は、魂の進化のために、この様な三次元の社会を創造されました。
その理由は先ほど言いました通り、あらゆる段階の魂が一同に集まって修行が出来る必要性を求めておられるからだと思っています。
あらゆる段階の魂が集まるのですから、同じ問題定義を、どの様に理解できるのかは、その魂の理解力の差があるようです。
そしてその魂が歩んできた道のりの中で培ってきている心のあり方に、その愛情の持ち方の違いが有るようです。
そして実践行動力の違いが存在しているようです。
魂の違いというのは、心の曇りの違い、心の美しさの違いという事が言えるようです。
心の中心に神様への思いがあり、その心を物指しにして、人生を歩むかどうかに関わっているようです。
信じなくても、「誰もが、神様の子供である」といわれます。
それは、イエスキリスト様だけの特権でもなく、誰一人その範疇に入らない人はいないといわれます。
この娑婆は、あくまで、心を成長させる社会だったのですね。
10.万物命のある物質は、崩壊の定めに従って消滅(分解)する
命があるもの全てが、最後は分解するようになっています。
それは物質のみです。
量子力学の世界では、その法則を証明しているそうですが、どうしてもそれから逃れる事は出来ません。
ただし魂も同じ様に崩壊する事はないということですね。
それが理解できないために、肉体が滅ぶと、命も全て滅んでしまうんだという考えが、多くの人々の心の中に教育されている事です。
魂は何度も言うように永遠不滅の存在であり、エネルギーだと理解させて頂いています。
その為に私達は安心してこの三次元物質社会の中で、たくさんの心の問題を経験する事が可能なのですね。
死ぬ事がないことが解っているのと、死んだらおしまいだと思いながら生きているのとでは、全くこの世界の生き方は違ったものに成るのは当然ですね。
物質は、「崩壊の定め」から逃れる事は出来ませんが、魂はその影響を受けないということを理解するだけでも、これからの人生の生き方が、変化するのではないでしょうか?
11.魂は永遠不滅である
このところが一番のポイントですね。
この判断が出来、その様に感じる事が可能に成れたなら、もうこれから目の前に起こっている現象が、全て魂の修行のためにあるんだという事がわかるんではないでしょうか?
家族の一人一人が、その魂の連鎖によって引き寄せられている事を知ると、両親になられた魂や、そのまた両親、その全ての魂達の足跡が、全て「自分のために用意されていた」ものだという判断が出来るのではないでしょうか?
人間は、自分ひとりで、生きていくことは出来ません。
多くの魂達の進化への努力が、自分をも含めて、進化させて下さる環境や文化創りをしてくれていることが判断できますね。
勿論正しい、正しくないという方向性は別のものですが、全てに渡って、自分に関係する出来事は、個の魂を成長させるための材料であるという判断は正しいのではないかと思います。
12.人生は永遠に流転し、魂の修行は続く
どうして神様はこの様な魂社会を作られたのでしょうか?
私には完全にいまだ理解できませんが、ただ感じるのは、神様は「多様性を好む」と仰るそうです。
多様性とは何かという事になりますが、字の如く多くの要素が集まっている集団
ということにも成ろうかと思います。
多様性とはありとあらゆる形の違い心の違い、全てに渡っての違いを指すものと思います。
その多様性があるからこそ、何億年経っても、何一つ同じものがないという事実も存在します。
海の波も、全く同じ状況になることは、地球が出来てからも無いということなのです。
多様性があるから、
人はあらゆる人生を体験する事が可能です。
だからこそ、その人生経験の中で、
神様の心を実現していく魂を、自らが作っていく
ということを個の魂は心の底に理解しているのではないでしょうか?
久しく日本人は、神の存在を否定してきていました。
そして人間の作った宗教を一生懸命拝むだけで、神様の心を生きていこうとはしていませんネ。
拝む事で何かそこに近づいていると錯覚をしているだけです。
多くの艱難辛苦を体験して、
その体験からも心を広く明るく強く清楚に生きていく魂作りをして行きたいものですね。
13.死は終わりではない。流転の一時、課程の一こまである
魂は永遠不滅。個の人生も永遠です。
ですから今というこの世の時間も、長い人生流転の一過程でしかありませんね。
それ故に、今苦しんでいる人も、そうでない人も、自分の心を見つめなおし、本当の人間に成るように努力をして行きたいものですね。
大体前提として以上のようなことを理解できるのならば、考えてみて下さい。
魂の存在が全面に出ています。
魂とは何ぞや?という疑問が生じると思います。
その答えは、貴方を含め誰もが実は理解している事です。
しかし今判らないという方が殆どではないでしょうか?
それは当然な事で、今までこんな考えを真剣に考えた事が無いから判らないのでしょう。
でも、考えても判らなかったので、
魂という意味が言葉では聞いているにしても、本当のものか、
本当に存在しているのかが判らなかっただけの話しではないでしょうか?
魂の存在は当然あります。実は貴方が、私がそうなのです。
この肉体を動かしている存在、それは心ということも言えますが、
実は、三次元社会であるこの肉体にへばりついているもう一つの体、光子体とも言われている、四次元社会の物質、それが魂と言われるものです。
心はその光子体に存在し、それこそ私達の思いの源です。
考えるという原点です。
この肉体に不二一体で付いている心があるから、私たちはこの肉体を動かす事が出来ます。
そして死んだ時、この肉体は崩壊の定めにより、今まで結合していた細胞たちは分解していきます。
それが肉体が滅びる時です。
死が訪れると、私達は光子体の体になります。
元来の姿に戻ります。
ですから死は、肉体と光子体の分離だという事が言えます。
そして光子体は四次元以降の社会の姿ですから、その社会へと帰って行きます。
しかしその社会があることさえも理解できなければ、この話は荒唐無稽に終わる事でしょう。
誰もが今まで真実の人生の意味を知りたくて、道を求めて生きて来、そして先人達は、この様な話を求めて艱難辛苦を通じ、何度も何度も生まれ変わり、悟りの道を捜し求めてきました。
しかし私も含め我々は、この日本に居て、そして偉大な方の教えに導かれ、そしてその法を説かれる偉大な方に巡り会わなければ、私もここまで確信を持ってこの様な事を書く事が出来ませんでした。
その方の名前は 高橋 信次氏です。
そして後継者として、高橋佳子女史が今我々に人としての道を示して下さっています。
信じなくても良いし、そうでなくても悪くはありません。
しかし本当の事を教えていただいて、その様に生きていくことで、本当の人間性を培(つちか)う事が出来る。
その稀有な時にいま私達は生まれています。
本当に勿体無い話しです。
今まで人類が知りたくて理解したくて、求めてきた道が、この日本で、しかも日本語で理解できるのですから。
多くの高橋信次氏を語る人々は居ます。
しかし本当に目の前で、身近に接してきた高橋佳子女史以外に、高橋信次氏を語れる方は存在しません。
にも拘わらず、多くの方々は、自分が一番偉い、真実は私が知っているんだと、神様のように言動している方々が居ます。
しかし神様は、その様な行動を取っている人間をも、平等に扱っておられます。
やはりその真実を見極める目をもたなければならないのは、私達の方なのです。
私達が、どの様にその真実を見つめる事が、真実を見極める事が出来るのかを見届けておられるようです。
全てが学びであり、全てが己の魂の向上のための修行であり、勉強の場であると思
います。
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