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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼死んだ後


予防医学のカイロプラクティック

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考える事は哲学だよ 何でも考えてみよう 独断と偏見のコーナーです 

死んだ後にどうなるのか


どの生命体も絶対に免れられない事がありますね。  それは「 誕生する 」 こと、「 死亡する 」 ということです。

誕生に対して私達は、
『 神様や両親となる魂と約束をし、神様の許しを得て、自分の意志で、約束してきた両親の元で生まれて来た 』という認識を持つことが出来ました。

勿論この見解には、
「 そんな馬鹿な! 」 という考えの方が居られると思います。

「 そんな馬鹿な! 」
と考える思いの中に、どのような想い ( 論理・理論・理屈 ) があるのでしょうか。

「 許されて、自分の意志で生まれて来た… 」
という言葉の背景には、今まで述べてきた事柄が裏付けされるためにも、個々人が自分の心の内面を見つめる作業がどうしても必要です。

これはどういう事かと言いますと、人によっては人の話を心いくまで十分に聞かず、そんな馬鹿な!、と言うように「一笑に付す」という行為をする人が居られること。
そして真剣にじっくりと考える行動が少ないがため、簡単に、反射的に「ノー」 という言葉を発してしまう傾向の人が居られるからです。

ここで考えなければならないことは、「 どんなことにも、必ず原因がありその理由がある 」 ということです。

そして
一笑に付すという行為、行動は、じっくり真剣に考える事をしていない行為ですね。

単純に、一笑に付すような事柄や話が、自分の耳や目に入って来た時、ものの見事な反射的作用で、問題点を否定してしまう態度が多く見受けられます。

どうしてこのような行動 ( 反射的否定行動 ) に対して、人間は疑問を持たないのでしょうか?


「 そんな馬鹿な! 」
ということは、その人にとって、「 考えられないことだ! 」 という範囲の問題だと思います。

だから、それが本当かどうかは判らないけれども、考えて来たことがないからどうしても「解らない、理解できない」から、「 そんな馬鹿な! 」 という判断が、すぐに起きてしまうようです。

そして現実的に「考えられないこと」と認識するのは、「 今まで考えたことがない 」 という証明でもあるわけです。


また、考えても判らなかった為、
「 考えない事にする 」 という個人的な都合の良い判断があったのかも知れません。

「今まで考えたことがない」ために、
それまでに結論を導き出すことが出来なかっただけなのですが、 途中で諦めてしまった結果がその様に成っていると思われます。

だからこそ、「 考えられないこと 」 が目の前で起こったとすると常に意識は否定する事ばかりしているものですから、それは「 チャンスだ! 」 という発想が出来ないのかも知れません。

でも、「 これはチャンスだ! 」 という発想は重要だと思います。


人はこの人生を生きている以上、個人別にありとあらゆる問題が目の前に起ってきます。

そして常にその人なりに問題点を見極め、 色々な方法や考えで試行錯誤して、 人は行動して行きます。

その体験する現実の中で、 自分にとって沢山の新しい出来事に遭遇することによって、 その体験した出来事が、 「 どういう意味があるのか 」 という内容が理解できるように成ってきます。

常に個人が体験する新しい出来事の中には、
今までに 「 考えられなかった事柄 」 が多く含まれていることでしょう。

だから人はその新しい問題に対して、 挑戦して行く気構えを、 本来は持っているはずです。
この気構えさえあれば、 人は新しい出来事について学んで行くことが出来るようになって来ます。

しかし殆んどの 「 理解不能・考えられなかった 」 ことは、 毎日の生活上の延長線上で起こってくる出来事が多いものですから、 人は 『 それは突飛な考えだ、理解不能だ 』 と認識してしまい、 その考えは 「 理解不能・考えられないこと 」 というジャンルへ自動的に押し込んで行ってしまいます。


パソコン的に言えば、『 理解不能・考えられないこと 』 という情報を、 『 理解不能。考えられない 』 ファイルの中に入れ込んで、 その侭にしてしまうことと何ら変わりはありません。

そのファイル名は 「 理解しなくても良い、分からない事柄 」 という名前になるかもしれませんね。

パソコンで利用しているファイルは、 箪笥の引き出しと同じように、 閉まったままにしておけば、 利用している人がクリックしない限り、 何時まで経っても開けることは出来ません。

そして本人がそのファイルを開けようと思い、 クリックする意思を持たない限り、 そのファイルは永遠に閉じたままになります。


人間の持っている心の恐ろしさ、欠陥はここにあります。


ファイルを開けることが出来るにも拘わらず、 どんどんそのファイルの中に流し込み、入れ込んでしまい、 その情報さえ忘れてしまうことが問題に成っていくのです。
「記憶喪失症状」 に似たような状態になってしまうことです。


何時まで経っても大切な記憶は蘇らず、 逆に、 『 自分は知らない、私には関係がない、全く判らない 』 という判断の基盤になってしまうことに成りかねません。
これでは現実を打開する理解力を発展させることにはならず、 打開は難しいでしょう。


しかし現実問題として、 自分が理解出来る範囲で理解して行く事が必要だ、 ということはハッキリしています。

そして、理解できない事柄に対して、 理解出来るように努力をして行く行為が、 普通の人であれば必ず起こるはずです。

確かに人それぞれものの捉え方考え方や性格は違いますが、 それほど性格の差はあるものではありません。

ただ、同じ問題に対し思考し解決する方法が、 その人の考え方や物事の捉え方、 心の在り方、 心の傾向や判断力で、 どの方向性が強いか弱いかというものでしかないと思います。

人それぞれが同じ様な心を持っているけれど、 その表わし方、 表現力がそれぞれ違っているだけの話です。

表面に出てくる傾向が、 人それぞれ違っているにしか過ぎないようです。

なぜなら、その原因は総て、 その人の心の 「 思い 」 の中に関係があるからです。

だから 個人的な性格の長所短所の在り方を 判断することが出来るわけですし、
他人の長所が自分の短所になったり、 その逆があったりして、 その形が様々になる訳です。

最近血液型で、 性格を判断しようとしていますが、 これは馬鹿げた事です。
血液型も、あくまで個人の性格には関与しておらず、 血液の種類を増やすための手段でしかないと考えられています。
そしてその影響で、 体の形成の要素として、 その役を担っているに過ぎないと言われています。
これらを掛け合わせることで、 多くの事件が生じることで、 人生の多くの事件が生じるように出来てるようです。 そして人はその事件から、 学ぶんですね。 何かを。


今まで心の問題に対し、 多くの人々が歴史的に膨大な時間を掛け、『 心の実在 』 を解き明かそうとして来ました。

しかし歴史的に多くの賢者が輩出されては来ましたが、 「 心の実在 」 を真実に解き明かした賢者は居ませんでした。

もちろんイエス・キリスト、 ゴータマ・ブッタやモーゼ様達は、 神様からの言葉を、 その当時の民衆に伝える使命を持って、 それを実践なさいました。
それは当時の民衆の心の在り方に対して、 真の人間としての心の在り方や生き方を教え導いたものでした。


しかしながら、 文字で残すという行為は、 当時ではまだまだ教育そのものが一般的ではなかった為に、 確立されることは無かったのです。
その理由は、 文字を読み書きできる人が一部の人に限られていたからに他なりませんし、 教育は支配者のみが出来たことだったからです。


そのために、 理論的に証明する「 理証 」 としての理 ( ことわり ) は賢者の言葉で証明されては来ましたが、 文字に残すという 「 文証 」 としての証明は イエス・キリスト没後700年後に 「 聖書 」 として現れてきました。
また仏陀・釈迦没後、 300年後になって仏教としての文字が 「 仏典 」  として現れてきました。

このどれもが、賢者の言葉を人から人へと 『 伝承 』 して来たものです。

聖書や仏典が、 直接賢者が自分で書いたものではないことに、 人は理解しなければなりません。


当時はあくまで 文字が一部の人の為にしかなかったため、 『 伝承(口伝) 』 という作業でしか文化が伝えられなかったからです。

やはり 文証として証明されるには、当時の時代背景では不十分な時代でした。

ただ多くの人々が強く関心を持っている 『 奇跡現象 』 は、仏典や聖書に描かれている通りかもしれません。

また、 モーゼが現したとされる現象も、奇跡として関心を持つと思います。

しかしそれはあくまで 「 不思議な現象 」 として、人々は関心を持っているにしか過ぎませんし、 現在もそのままだと思います。


「 心の実体 」 はそれほど難しい問題ではなかったのですが、
私達のような凡人ではその実体を証明するだけの力はありません。


賢者が居られて始めて、 我々に本当の事・真実を示すことが 出来る わけです。
その賢者が現在、 我々と一緒に地球上に生まれておられるからこそ、 私も含め多くの人々が心の実体を学ぶことが出来ている訳です。


これはただ縁があっての話ではありませんから、 今では誰もが自由に参加し、 学ぶことが出来るのです。


この学びは難しいものではなく、 今までに理解して来ている 「 常識、理屈、偏見 」 等々の概念を、 覆さなければ理解ができない部分も確かにあります。
言葉で言うのならば、『 心を白紙にする 』 という言葉でしょう。

でもそれは特別に行うことでもなく、 日常的に、 常に新しい概念を取り入れるときにはそれまでの古い概念を捨てて行く必要性があるということです。

中には 「 古い概念を捨てること 」 を躊躇する人が居られますが、 それは決して自分を否定するという行為ではありませんから、 躊躇する必要はありません。

何か古い概念を捨てる事で、 自分が駄目になるんではないのかと、 実証がないのに信じ込んでしまう人も居ます。

逆に積極的に、 自分の新しい発見をすることで、
前向きに出来事を受け入れることが出来る人が居ます。

積極的に前向きに受け入れることで、
新しい自分を創造して行くことに繋がって行きます。


『 死んだ後はどうなるのか? 』
という疑問に対して、 誰もが、 「 そんなこと分からない! 」 と反射的に発言をされます。

確かに常日頃、
日常茶飯事的に、 死ぬことが起こっているなら、 誰も「 そんなこと分からない 」 とは言わないでしょう。

しかし 日常茶飯事に死ぬことが起こっていないから、 またこの人生では一度しか死ぬ事はないから、 死の経験をしていないから、 分からないと言っているにしか過ぎません。

しかし 本当に分かっていないのでしょうか、?

私はそうは思っていません。

理由は、 自分以外の人で、 「 死ぬこと 」 を経験されている先人が沢山居られるからです。

私の場合であれば、 すでに亡き両親がそうです。

それまで良く知っている人達の死亡した事実は 自分の体験にはなりませんが、
その人が体験することは、 いつかは私にも当然当てはまる訳ですから、 現在は経験していなくても考えることが出来ます。


そして今まで生きて来て沢山の情報を理解した中で、 テレビ・ラジオや他の人々が経験してきた不可思議な現象を見聞するに及ぶと、 さも自分が経験したかのような錯覚に陥ることも可能です。

しかしそれは 経験ということでは決してありません。

確かに今の自分の人生で経験する事柄は、 一度しかないことばかりです。
そして殆んどの人が最も関心を持つことが、 「 死んだらどうなるか 」 だと思います。

だから「 死んだ後にどうなるか 」 という命題は、
とても大きな、 そして重要な関心事になる訳です。

今まで私が学んで来た事で理解できているのは、 「 死ぬ事によって 」 もう一つの世界が 「 存在する、実在する 」 し、その世界に帰るという事です。

実はあの世の方が本当の 「 実体の世界 」 であるという理解が出来ています。

この世の方が実は 「 幻である 」 と。 


別にこの考えは、 高橋信次氏から学んだだけではなく、 小学生の時から追究してきた事柄ですから、 高橋信次氏からはそれまでに自分で理解し構築して来た事柄を証明する人として、 高橋信次氏を心に受け入れることが出来ました。

それまでは、 大学時代まで追求して来た様々な体験と研究でしか、 「 3次元以降の世界 」 を理解し判断することは出来ませんでした。

しかし私が高橋信次氏の影響を受け、 確実に 「 3次元以降の世界は存在している、! 」 と断定出来るようになったのは、 高橋信次氏が真実を ( 理証・文証・現象 ) で証明されたがために、 私の今までの研究成果が証明されたことと同じになったからです。

別に私が特殊な人間でもなく、 少し感受性と好奇心が強いというだけにしか過ぎないだけです。 ただ追求すれば、とことんまで行うのが私の性格です。

当時の時代背景では、 確かに私はちょっと変わった子供であったことも事実かも知れません。

だからと言ってそれを否定されて来たこともありましたが、 実体をしっかりと理解できたことが私にとって一番の幸せでした。


ところで死んだ後は、 人それぞれの心の状態が関係することなので、絶対にこのような形に成ると断言はできません。
しかし、マニュアル的なことはハッキリしていますから、 掻い摘んで話をすると以下のようになるかと思います。


1.
体の機能が停止し肺呼吸ができなくなり 心停止になった時点で、 意識がそれまでの表面意識から 潜在意識へと変化します。
表面意識は逆に心の中に内在されてしまいます。 すなわち今までの経験が徐々に理解しにくく成って行くようです。 勿論徐々にです。


2.
肉体から魂が離れます。
ただし、心の問題で、この世に執着のとても強い想念を持っている魂( 本人の意識 ) は、肉体や個人的な思いに固執する余り、 ( 肉体こそ自分自身だと想う想念が強いために ) 肉体から離れることが出来難くなります。

そのために魂が 肉体から離れることが出来なくなり、 そのまま葬式をされることに成ってしまいます ( 死体硬直はこの理由から起こるようです )。 そのため、魂が肉体に入ったままになってしまい、 自分の体が焼かれてしまう経験をしてしまう人もいます。


3.
心が理解できる人は死を受け入れ、 肉体から魂・心・意識が離れます。 心の歪の少ない方、 正しく生活をされ、 正しく思考をされ、 心を清くされて生きて来られた方は、 天上界の世界に行くことになります。
その世界は人の感覚によって違うようですが、 お花畑があったり美しい人々が居たり、 綺麗というまたは明るいという、 光で満ちた感覚になるようです。


4.
2と3で話をした中で、 肉体から魂が離れた本人は、
ドームのような筒の中を物凄いスピードで上昇して行くと言われます。

ただし天上界に行ける方は最後まで昇り切ってしまいますが、 そうではない心の汚れた重い魂は、 その途中で分かれてしまい、 天上界ではない世界に行くことになります。
それは自分のその時の心の状態に比例して( 心の重さに乗じて )、
  その世界 = 心の周波数が同調する世界、 という形で行くことになる訳です。


5.
天上界に行くことで、 その人の魂はそれで終わりではありません。
その場所で自分が 「 生まれてから死ぬまでの間に起こった全ての事柄 」 について反省をする場所へ行かなくてはならないようです。
「 反省道場 」 とでも言える場所だと考えれば良いようです。

その場所で魂は、 オギャーと泣いてから死ぬまでの期間、
それまでに経験した全ての出来事を、 目の前で見させられることになります。

その全てとは、 自分が思ったこと、喋ったこと、 行動したこと、 それらあらゆることを、 さも自分が目の前で起こっているように感じるぐらいに解る、 第三者的に見れる 「 立体モーションピクチャー 」 として見ることが出来ると言われています。

自分が自分を 第三者的に詳しく見ることになると云う事です。

このときには、 まずしっかりと目を開いて見る事は難しいと言われるくらいに、 心はとても動揺するそうです。

目を背けなければ見れないというくらいに、 精神状態は揺さぶられると言われます。 やはり良い事も良くない事も全て、 何もかもを見せられる訳ですから・・・。


6.
天上界に最後まで行けなかった人は、
心の重いその世界で 自分を反省しなければならない厳しい修行が待っています。

この修行は死んだ時の 「 そのままの心 」 ですから、 その時の自分の持っている 「 価値観やものの捉え方 」 に依存する訳ですから、 なかなか修正することは難しいと言われています。

なぜなら、 日頃反省をして自分の心を磨いている人
( 自分の過去からのカルマの修正に頑張って実行し、 美しく明るい心になる努力をしている人 )
ならこういうことには成りませんが、 反省をして自己改革することが実践にまで繋がらなかった人達は、 その心の重さに比例した世界で苦しみながら反省をして行くという大変な修行が待っています。

だから現在生きている間に、 しっかりと己を見つめ、反省すべき所は反省し、 人生をやり直して行くならば、 しっかりと修正されたら、 その部分が黄金色に変化すると言われています。
それが反省ができた印、 証明だと言われています。


7.
天上界に最後まで行けた人は先ほども言った通り、 反省道場で自分のその人生を反省しますが、 地球時間でどれくらい掛かるかは分かりませんし、 人それぞれではかなり時間の差はあるようです。

そして全て、 反省、 心の修正が終わった人は、 自分の心の美しさに比例した世界へ行くことになると言われています。
なぜなら、 天国( 天上界 )は、 心の美しい人しか入れない世界だからです。
これは厳然と、 ハッキリしています。
水と油のような関係です。  ハッキリと分離しています。

その世界も個人によって様々です。  しかしお金や地位、名誉を求め過ぎる生活をする余り、人の心を傷つけ、 多くの人々を苦しめさせた人々はそれ相応の世界に行くようです。

人の心を苦しめたその心を知るために、 同じ苦しみを味わう・・・、 だからその世界に行かなければならないと言われています。


8.
反省を終えた魂は、 第4段階という修行に入ると言われています。
そこでは自分の子孫たちが、 自分の残した影響でどのような人生を歩んでいるのかを見続けなければならないという、 これも苛酷な修行になります。

この修行によって、 自分の言葉や行為によって、 多くの人々を思いもかけない間違った方向に進ませてしまっていれば、 その現実を見せられ、 天上界で反省させられることになります。

これもかなり厳しい修行になりますね。

地獄の世界に入った者も、 地球上の子孫たちを見ることになりますが、 不幸になっている自分の子孫たちがいるのを見て、 素直に心を痛めることが出来るならば、 その人はきっと天上界に行けると思います。

しかし、自分の子孫が苦しんでいるのに、 何のお咎めも感じない魂であれば、 何時までもその世界に居らなければなりませんし、 とても苦しい心の状態がそのまま続くということになります。


9.
地獄に行かなければならなかった人達も、 何時かは天上界に帰れる時が来ます。
しかし、 それには自分を知るという反省がなくてはなりません。

だからいま肉体を持って生きている方々も、 しっかりと反省と実践をするという行為がとても大切なことだと御判りになるかと思います。
それは死んだ者達が、 一生懸命心を正し、 正しい道を歩んでいる者の姿を見ることで、 自分達の誤りに気づき、 そして反省するキッカケとなるからです。
これを、本当の供養と言うのです。

お供え物をするのが供養ではありません。 死んだ者達は、 この三次元の物を食べることは決して出来ないからです。
仏壇に供え物をしても、 それを喜ぶ先祖は、 地獄に居るという事です。
天上界では必要がありません。


死んでからどうなるか、 これは死ななきゃ分からないという判断は正しいと思います。 でも死ぬ前に理解ができ判断することができたなら、 本当に満足してあの世に帰ることが出来るものだと思います。


「 生きている内が華だ 」 という言葉がありますが、 そうする事が出来るかどうかは、 その人の心一つで決まります。

そして実際に生活する現実の中で、 どれだけ、 イエス・キリスト様や仏陀様、 モーゼ様やその他の賢者様が我々衆生に神様からの言葉を伝えられたその言葉を、 実際にどの様に我々が生かして行けるのか、 がとても大切な事だと思います。

ただし、『 地獄に行きたくないから反省をする 』 というのは間違いだと思います。 また、『 天上界( 天国 )に行きたいから反省する 』 のでもないのです。

ただ自分の心を、 どれだけ美しくきれいに磨くか、 それだけを注目して生きてゆくことが大切なのではないかと思うのです。

「 天国に行きたい 」 という願望だけで生きているのは、「 この地上に生まれて来た意味 」 をしっかりと認識していない心の持ち方だと思います。

「 何をしに生まれて来た? 」 のか、この点が人それぞれに 「 命題 」 として、「 心の中に持って来て生まれて来たのです 」 と、 言えるかと思います。


私は思いますが、 やはり神様に近づくために、
心を神様のように大きく豊かに成長させたいために、 生まれて来たのではないかと思います。

そして、太陽のように、 全ての命を何の報いも求めず、
命の源である光を与え続ける心になるために、 この人生があるのだと心から感じています。


言葉では簡単に言えますが、 現実のこの修羅場では、 理想を現実にすることは本当に難しいです。
でも人間には常に、 希望・可能性という未来を作る力が与えられているのも事実なのです。

その力は誰にでも 「 平等 」 に与えられているものです。
ただ信じればいいだけです。

結果がどうであれ、 努力した結果が良い結果にならなくても、 心を平常にして神様の愛情を理解したとき、 この現象世界で起こってくる様々な現実を受け入れることが出来るようになってくると思います。

心安らかに毎日が過ごせるように、感謝してゆきたいと思います。


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