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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼無力感


予防医学のカイロプラクティック

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RMIT大学のサイトはこの字をクリックして下さい。

考える事は哲学だよ 何でも考えてみよう 独断と偏見のコーナーです 

神頼み・無力感

世界の社会状況を見ていて、自分自身以外のことで、かなり無力感を感じてしまうことが多々あります。

それは何かと言うと、「偉大なる魂」ということについてですが、私の心の中にどうしてもポッカリと空いている空間、その空間に、ある思い・ツブヤキ があるからです。

それは、「どうしてこの現在に、偉大な魂が生まれて居られるのに、この人間社会は泥沼のような状態に成っているのだろう?」という、嘆くような思いなのです。

この思いが決して正しい判断であり、思考だと思ってはいません。

なぜなら神様さえも我々の行動(自由意志)を抑制することが出来ないのに、「この偉大なお方が、我々の全てを統制することなど、到底不可能だ」、という事は、分かっているつもりだったからです。

しかし私の心には「この偉大なお方のようなパワーを持った魂が、現在生きて居られるのだから、何とかしてくれる」という思いを持っていることは事実だと思います。

この思いが決して良くない考えだと、理解しているのは正しいだろうと思います。
なぜならこの思い( 何とかしてくれる )は、「他力本願」でしかないからです。

しかし他力本願の意味には、他の力を頼りにしている、といった意味合いが含まれています。

しかしもっと「究極的な他力本願」があるようです。
そして、「神のみぞ知るという世界」があることも判ってきました。



ところでこの思い、(この偉大なお方のようなパワーを持った魂が今生きているのだから、何とかしてくれる)に対して、なぜいけないと思うのでしょうか?

そして「無力感」として、この問題を考えなければならないのはどうしてなのでしょうか?

以前、私は同じようなことを聞いたことがあります。

それは故高橋信次先生が言っておられたことでした。

「神様を試してはならない」 という言葉でした。

正に、私の思いには、この 「神様を試す」 という考え方が、心の基盤に在るからだと思いました。

なぜ神様を試してはいけないのでしょうか?

ここに大きな理由があります。

それは、常に悪魔が言うには、

「この世に神が居るのなら、全ては神の成せる業だから、何もかも神様がしてくれるだろう。 神が奇跡を起こし、お前たちを救ってくれるだろう」、と言います。



この意見に賛成する人は、ちょっと考え直して欲しいと思います。

それは本当の奇跡というのは、神様が行うものではないからです。

それは一人一人の人間の心、 この世に生きて来た我々自身が、 心を修正することで、 奇跡が目の前に起こって来るものだからです。

そして心の修正とともに、実践して生きて来た結果として、奇跡は現れるものだと言えます。

それゆえに、心から神様の存在を信じて、生きることではないでしょうか。

それは自分の両親から受ける愛情に対して思う心と同様に、その愛情に応えようとする私達自身の姿勢そのものが必要なのかも知れません。

そして我々に対して「全て(地球環境・物質その他)」を与えて下さっている、この三次元の次元において、神様を試すようなことは、何ら必要ではないということです。

だからこそ、神様を試すなんてことは全くナンセンスなことなのです。

奇跡を求めることは、心の中でいつも 「助けて欲しい」 という思い・欲望があるからではないでしょうか?

いつも助けて欲しいと思うことも大切かもしれませんが、それよりも自分の知恵〔知慧〕 や努力で解決して行くように、自分の生き方を変更して行くことの方が、もっと大切なのではないでしょうか?

そして、最後の最後まで努力してどうしても不可能に思うとき、本当の意味で助けを乞う思いが、「真実の他力本願」になると思います

人間一人一人は、かけがえのない肉体的な命ではなくて、魂なのですから。



このように考え思う、心の中に存在する思い、私の心に在り、私を動かす「心の基盤」とは一体どういうものでしょうか?

結論的に言えば、「もし~だったら、何とかしてくれるだろう」 という思いが私の心の中心に存在していて、そしてこの思いが基準となって、物事を考え捉えているようなのです。

だから、この思いが常に尺度となって、「考える・判断する物差し」になり、誰かに救いの手を求める原動力になってしまっている、と判断することが可能なのです。

「何とかしてくれる」この思いは自分では出来ない事を、「神頼み」にしている思いだと、理解できると思います。

「私には出来ない、何とかして欲しい」 この思いは、「救われたい」という気持ちが、このような言葉を使っていると思います。

「自分は救われたい」と思う心が、「何とかして欲しい」という思いに繋がって来るのだと考えます。

「神様・仏様何とかして欲しい。この世界を救って欲しい」 という思いが、この心の中にあるからこそ、口に出して言うのだと思います。

でも、地球で起こっている様々な事件を見ると、事件を起こしている人々の心が人間の「良心」の世界から、すでにかけ離れていると感じているのは私だけではないでしょう。

この思いから発してくる思考は、「もう駄目だ」「私ではどうにも出来ない」という判断、気持ちが生じて来てしまいます。

また、神様が私達を救うことは、果たして正しいのだろうか? と、 この疑問がいつも心の中に現れては消えて行きます。



仮に神様が私達をいつも幸せにするために手を差し伸べるのならば、現実にそれが起こっているのならば、その現実は正しいものなのだろうか?…という疑問です。

なぜならば、私達が生まれて来てそして死ぬまでの間の出来事は、一体何の為に存在するものなのか? …という疑問を、説き明かすことが出来ません。

それはどういうことかと言うと、

仮に神様が私達を、常に事ある毎に救うとするならば、私達は常に神様から守られ、怪我もなく、病気もすることなく、お金も一杯あってなに不自由なく生活することが出来ます。

しかし神様が仮にそういうことをする絶対的意識ならば、私達がこの世に生まれてくる必要性が無くなってしまうのではないでしょうか?

なぜなら、『私達が生まれてくる理由には、この肉体を持ち、この三次元の光の世界であらゆる精神的な向上を目指す理由があり、三次元社会で神様から生かされることによって、精神的な進化を遂げることが出来る』と、判断することが出来るからです。

また、「何もかも神様によって成される」とするなら、何もこの三次元の世界で、苦労する必要などありません。 そして私達が意識的に持っている、「未来を創造する力」などは全く必要はなくなってしまいます。

しかし現実は、この地球上で多くの動物の頂点となって生きている人間の現状を見るにつけ、また私達人間だけが未来を創造・想像し、現実的に作っていることが当たり前のように見えますが、一体これはどういうことを意味するのでしょうか?

そして、神様が現実に居られるならば、私達はその神様にとってどのような存在に成るのでしょうか?

こういった問題提起を考えて行く、この行為が「哲学」というジャンルの世界です。

今まで哲学的に学んできた中で、神様への愛(アガペー)を学んできましたが、その神様への愛をすりかえてしまって、神様に奇跡を懇願する思い・願いにする人々が多く居られます。

また、この人生は「冒険」だという人もいます。

確かに私も「人生は冒険だ」と思うようになりました。

それは明日をも知れず毎日を生きて行くのが現実だから、一瞬先どの様になるか分からないゆえに、だから冒険だということが言えます。一寸先に何が起こるか分かりませんね。

好きなように自分の未来が判ってしまうのなら、こんな無茶苦茶な世界に生まれてくる事などありはしないなんて思ってしまいますが、これが判っていて生まれて来ているのが、私たちの本心だということが理解できないために、愚痴を言ったり批判したり、敵前逃亡したりして逃げようとしているだけなのでしょう。



人間は肉体的にも精神的にも、本当に弱い存在です。

自分を救うためには、他の人間をも殺すことが出来ます。

動物で言えば、「共食い」と言う事と同じです。

しかし共食いには、それなりの「種のルール」が存在しています。

しかし人間は、「自分に都合の悪い他の人間」に対して行われます。

そして殺した人間の肉体を食べる事は、ほとんどの場合しません。

共食いという行為とは、少し違ったものかも知れません。

ただその存在を「抹消したい」というだけの事かもしれません。

生かしておくと、自分が後で困るから、殺してその存在を抹消させたいという判断と思いが、行為となって起こるのが殺人だと思います。

未開民族の中では、人間を食べる習慣がありましたが、それはほとんどがその民族の宗教的習慣から来るものでした。

ニューギニアでは過去においてその習慣は残っていました。



また人間は、矛盾に満ちた魂であるということが言えるでしょう。

その矛盾とは、善や悪という捉え方(二面的な捉え方)でもあり、曖昧なものの捉え方しかできない存在でもあるということでしょう。

だからこそ自分の心をたくましく成長させる為に、このあらゆる魂が集うことが出来る三次元社会で、魂を成長させて行かなければならないのでしょう。



躁鬱病という精神的病があります。

この病は気持ちの起伏が、極端に浮き上がったり沈み込んだりして、自分の気持ちを抑制・制御できない精神的病にされています。

躁病は明るくて問題は少ないようですが、問題がない訳ではありません。

理解しないまま、自分に苦しみを感じないまま、騒々しく危害を加えることがあるからです。

鬱病は「自殺」という問題を引き起こす引き金になるということで、重要に考えなければならない問題です。

精神的病は今でこそ薬で何とか出来ると思っていますが、決してそんなものではなく、あくまでも「心の病」であるということを理解しなければならないと思います。

しかしながら現代社会の大きな矛盾点は、精神的な病を「心の病」と理解するまでには至っていないということが言えるでしょう。

その為に、人々は自分という心や魂を究極的に理解することなく、それまでの社会的な思考(常識)の下で、自分・社会・世界全体を判断しています。


社会的な思考、常識の下で自分や世界のことを理解しようとすると、どうしても大きな矛盾が生じて来ます。

それには社会が考える、または社会が思っている「常識という考え方の枠」が、大きな問題の原因になって来ます。

社会が持っているまた思っている「常識」という考えは、必ずその人の思考を規制することから始まったりもします。

「自分が成功しなければならない」という考えを持っている人に、成功できない現実が現われたならば、その人は、何とか成功しなければならないが為に、精一杯、成功しようと努力をします。

でもその人に色々な限界が訪れて、その人が本当に成功しなかった場合、その人は焦燥感に捕らわれたり脱力感に捕らわれたりして、心悩む時が訪れるかも知れません。

この時に「出来ない自分」が見えて来て、心の中に鬱蒼とした気持ちが現れて来るかも知れません。

この鬱蒼とした気持ちが大きくなって極限に達した時、人は鬱病として、心の表面にその精神状態を現してしまう事になるかも知れません。

そして最後に「自分は何も出来ない人間だ」という判断が主体になった時、その人は「人生に生きて行く価値が見出せない」という判断が起こり、自分を「抹消させる」ことで満足を得ようとします。

「抹消させること」がその人にとっては「出来る事」になってしまい、命を大切にする普通の人であれば出来ない「自殺」を、「出来ること」として考えるのかも知れません。

そしてその目的を達成するため、その死に場所を探すか、一人で死に切れない時は他の人(同類・同じ穴のムジナ)を探そうとしてしまいます。

結局、自分一人で死ねない場合、誰かを道連れにして自分の目的である「自殺」に追い込んで行くようです。

今流行りの集団自殺は、この様な同じ波動を持った人達が集まった結果、起こってしまっているとも考えれるのです。 またインターネットを利用して、同じ気持ちの人を探し、一緒に死んでくれと頼むのも同じことです。


これは本当に悲しい話です。

自分から死を選ぶということは、「自らの心の光を打ち消す」ことに通ずるからです。 そして、それは誰もがつなげている、神様と自分との光の糸を切ってしまうという行為に他成りません。

「自らの心の光を打ち消す」ということは、自分が「神様の子供」であるということを、打ち消す行為に他なりません。

でも殆んどの人々は、自分が「神様の子供」であるという自覚は少ないと思います。

「そんな馬鹿な」「そんな世迷い事を言うようじゃ、気が変だよ」とか、私は言われてしまうかも知れませんね。

しかし本当のことをこの様に言って、気違い的だと言われても、私は全く気にしません。大学時代に、既に言われ済みだからです。

ところで、死を選ぶことは、強いて言うならば、自分が「神様の子供」であるということを理解していないということです。

それだけにまた、この世界に「生まれて来ている理由」が判っていないからです。


誰もがこの理由を理解することは可能ですし、出来ます。

自分からこの大切な命を粗末にすることは許されません。

しかし人は往々にして自分の命を粗末に扱う傾向があります。

最近ではメールを使って一人では死に切れないから、自殺願望者を探して一緒に死んでしまおうとする人達が出て来ています。

本当に馬鹿としか言いようがありません。大馬鹿者です。

しかしまたそれもその弱い魂の修行には違いありません。

その魂は転生輪廻の中で同じことを繰り返しているに過ぎません。

すなわち、過去から続いている自分の弱さを解消するには至っていない、ということになります。

もっと端的に言えば、自分への問題提起が解決できず、同じ問題に対して答えを見いだせないまま、繰り返し人生を生き続けて居るということです。



「類は類を持って集まる」という言葉があります。それは「同じ心の波動」を持った魂が寄り集まるということから始まる言葉です。

だからこそ、同じ波動の者達が集まる訳ですが、そこで集まった者達はよく考え、またよく判断し、把握することが出来るように成る必要があります。

それは、本当に自分が正しく判断しているかどうか、を見極める必要性があるからです。

見極めるためには、自分の心の内側を見つめなければならないのです。

それを正しく教え導かれている方が、高橋 佳子という日本人です。

この方は現在40歳代で、エネルギッシュに多くの人々に対して、

「心の在り方」を、実践を通じて説かれています。

詳しくはGLAという団体を尋ねれば解ると思います。

この方は一人一人の存在が偉大な魂であるとして捉えられ、その魂・心を救うために、多くの迷える人達に、また迷っていない人達に、無私の心で導いて行かれておられます。

私達は本当に素晴しいときに生まれて来ました。
誰もが偉大な悟りへの道を聞くことができ、誰もが到達できる心の世界に向かって行けることが可能であることを、多くの人々の実践とともに証明されています。

この稀有な時を共に過ごせることは、願っても止まないことです。

しかし幾ら素晴らしいお話を聞いても、誰も実践できない話であるならば、その素晴らしい話は絵に描いた餅にしか過ぎないものです。

しかし高橋 佳子さんは、全ての人が実践できることを証明され、多くの人々が救われて行かれている事実を、我々の目の前で証明されておられます。

心の世界は死んだ時に、誰もが解ることでしょう。

しかしこの肉体を持っている時にこそ、それが理解出来るのならば、これほど素晴らしいことはありません。

なぜならば、生きている、この肉体を持っているこの時でなければ、この3次元での「心の修正」は出来ないからです。

あの世に帰ってからでは遅い訳ですし、あの世では心の修正はとても難しいからです。

だからこそ、今生きているこの時を大切にして欲しいのです。


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