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ますますアメリカの醜さが見えてくる。しかしその醜さを理解しながら日本は経済という枠の中で、何とかアメリカのご機嫌を伺いながら生活をしなければならない弱い立場を考えて行動している。
これは「どうしても日本が経済的にアメリカに追随しなければ生きていけない」という思いから起こっている行動に他ならない。 「現実そうじゃないか!」と、経済界はおっしゃるでしょう。 その通りです。ハイ。 アメリカは「上得意先」だからです。最高のお得意さんです。 「上得意先」だと言ったのは、福田官房長官です。 だから機嫌をとらないといけないんですよ。判りましたか? アメリカは上得意先だからこそ、大事にしなければ成らないということになります。 そりゃそうでしょう。 お金を使ってくれるのはアメリカさんが多いんですもの。 それで安い中国で品物を作って、アメリカに買って貰えば、そりゃ儲かりますもの。 しかし「そうしなきゃ日本は飯が食えない?」 本当にそうなんすか? 日本の独自性は何なんだろうか? それを考えてみると、平和ボケか? これが日本の独自性かもしれない。 でもこれもアメリカの戦略だし、まんまと乗せられている構図が浮かんで来るので仕方がない。 第二次世界大戦で日本が連合軍に負けてから、世界は安定を維持してきました。勿論アメリカ主体の安定であることは事実が裏付けています。 日本でパンを普及させたのもアメリカの戦略でしたし、牛乳や肉を普及させたのもそうでした。殆どがアメリカ経済の普及のために、日本を利用しただけです。 今では日本が利用しているのですが。 世界の各国はそれぞれの独自性を持っていますが、もちろん文化的歴史的な意味ですが、経済という世界には、その文化や歴史は関係が無くなってしまいます。 全て数字が支配する世界ですから、今までの歴史は意味が無いからですね。 その為に、のっぺらぼうな世界に成りつつあるのではないでしょうかね。 それぞれの国の独自性が経済の在り方で、平面化されるという事です。 平面化とはのっぺらぼう。のっぺらぼうとは特徴が無い。特徴が無いとは存在感が無い。存在感が無いとは、さて何かな。 物を作ってそしてそれをお金に換算する。 どういう換算の仕方があるのか、考えても、私には全くわからない。 骨董品の価値の付け方と同じで、私の価値観では何の役にも立たないものなのに、骨董品愛好家が必要と考えれば、そこに価値を産ませてしまう。 その価値は、その人達が勝手に付けた金額だ。私がタダだと言っても、彼らが100万円だと言えば、それは100万円になる。 物の価値の付け方は、全く不確実なものなんだが、どうしても欲しいと思う人が高くても買う世界だ。 それがお金の姿かもしれない。 欲しくない物は、幾ら安くても買わないから、そこには価値が生まれない。お金を求められる評価に与えしないという事になる。 だからこそ、価値ある品物を作らなければ、そこにはお金が動かないという当たり前の話。 あくまで欲望の産物がお金に変化したものと言えるだろう。 結局はお金とは、欲望が生み出した、見える価値になる。 だからお金に取り憑かれた人のことを、欲の権化ということにつながる。 あの世に持って帰れないのに、必死になってお金を求める哀れさは、人間の浅はかさに通じるんだろう。 餓死しても、お金にとり憑かれない様にしたいものだ。 亡霊にとり憑かれるのと同じだもんね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2003年12月21日 12時07分34秒
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