2006/11/14(火)10:25
chiro report このままで良いのかね・2
母親による子供殺しや、学校内での いじめ から来る自殺。 被害者として扱うのかどうかは問題としても、最近の殺風景な心情は、人の心の問題点を浮き彫りにさせているとしか言いようが無い。
人の心には、色々な欲望を持っているのが普通だ。 物欲、性欲、出世欲、金銭欲・・・その他諸々の欲望が沢山ある。 そのどれもが、自分の地位や身分、その様な形骸化(けいがいか)する形を求めての欲望が殆どではないだろうか?
形骸化とは、姿 形にしてしまうものの事を指すけれども、宗教なんかもその形骸化が起こっているが、たとえ仏陀やイエス様たちが神への道を説いていても、その後の人間が教えを形に置き換えてしまうケースがその形骸化という意味に通じる。 また仏像やキリスト像などに神の姿を現しているとする心もそうだろう。 モーゼ様は、偉大な方だったが、余りにも目の前に起こる不自然な現象に心を驚かされ、思い余って祭壇を作ったりして祭ってしまったが、それくらい当事の奇跡と呼ばれる現実が不自然さゆえに、モーゼは驚き畏れ、神の力の御わざに畏敬の念を隠し切れずに祭壇を作り祭ってしまった失敗をしている。 イエス様や仏陀様はその様な祭りごとは決してなさらなかった。 歴史上で多くの 神の道を説き、生涯を終えあの世に帰天された 神の子供達が話し残した言葉を、多くの人々は教えを形にしようとして、祭りごとを行なってしまった。 神様は 「決して崇め祭るな」 と言われているのに、人々はその偉大さを表すのに、畏敬の心を表すのに、祭りごとをしてしまった。
「生け贄(にえ)」などは、その最たるものであり、神の心から遠く離れた行為だろう。 また穀物を祭ったり、祭壇を形成したりして、神様に対して礼を尽くしている形にしている。
果たしてそれが正しい行為なのだろうか?
神様とは一体どの様な存在で かつ どの様な心があるのだろうか? 高橋信次氏は、 「あの太陽のように、我々に空気も水も与え、その代償を求めない方」 として、説明して下さったが、まさにその様な心の持ち主であられると、私も賛同した。 賛同したというより、よりハッキリと理解できたと言うべきだろう。 人の心が、この三次元の世界で物質欲に心を奪われ、心をないがしろにしている現実を見るにつけ、心が痛むが、どうして形に表そうとしてしまうのか? それが不思議でならないのだ。 目で見える物が必要という感覚が、その様な形骸化を産んでしまうことになると思うが、あくまでも 生きて心の進化を実践する ということが神様との 「契約」 であるという判断が理解できれば、生きる意味が少しは理解できるのかもしれない。 契約といっても、物質を作るという意味の契約ではなく、この三次元世界で生きる意味を 『果たして行く』 『約束を実行する』 という意味に通じるものだ。 全ての心の段階の魂が寄り集まる所 がこの三次元社会(現社会・物質社会)である故に、様々な価値観が生じてしまうのは仕方がないのだ。 しかしその中でも、共通した心、認識があるのだ。 それが 『慈悲と愛』 なのだが、その慈悲と愛も、様々な段階があるのは仕方がないかもしれない。 どうしてもその人の価値観や考え方、風習等々のしがらみで、捉え方と表現方法が違うからだ。 様々な問題が生じるのも、その問題が全ての人の心に関係しているから、生じている。 誰もが無関係では居れないのが、人間関係の複雑さなのかもしれないね。