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ココ の ブログ

居眠りをするココ(6)

居眠りをするココ(6)

 映画だから、物語り性として殺し屋が猫にミルクをやるシーンを入れれば「殺す事」と「生かす事」との対比性で命の意味を教えているのだろうが、そんな高邁な思想よりも意外性に人間味を見出させるのかも知れない。それよりも、仕事が終われば殺し屋は猫なぞ放っておいて去るのだから矛盾する話である。そこがフィクションの世界なのだ。だからこそ我々は安心して観ていられる訳である。我々は夢の中で人を殺す場合があるが、それは深層心理で解明する以前に、それが何かの象徴である事も我々は知っている。よくボクは裸か下着姿で街を歩いているシーンを観る事がある。勿論、恥ずかしさが先に立つのだが何故そういうスタイルで歩かねばならないのか考えてみた処で答はみつからず、早く消え入りたい気持ちのまま夢から覚めるのだ。

COCO-026
COCO-026(この周辺の藪にゴルフボールが潜んでいる筈なのだが・・・)。

 それは自分が無防備状態である事を意味しているのだろう。武装解除して裸の付き合いをしたいという現れなのかも知れない。それなのに人は分かってくれないという不満が裸や下着姿になって現れる。が、夢から覚めて「ああ、夢で良かった」と現実に引き戻され再び無意識に自分を防備してしまう。何から自分を守ろうとしているのか分らないまま、見栄や虚栄がそうさせるのだろうか。面白い事に、ココを眺めていてペットの世界でも見栄や虚栄がある様に想える事がある。何か失敗した処を目撃されるとココは素知らぬ顔で横を向く。隣家のモモも上手く木に登れずにズルズルと落ちる処を観られると恥ずかしいのか罰が悪いのか観られたくない処を観られたという仕草をするから動物も人間と同じなのだ。モモはココよりも10年以上も古猫だから婆さんになってしまったのだ。

COCO-027
COCO-027(ココは丸く成って爆睡している)。

 中年に成りつつある元気盛りのココは、既にモモなぞ眼中に無く、自分の天下だと想っていて怖いもの無しである。そんなココでも我が家ではボクがボスだからボクの前では大人しくしている。その代わり他の家人は自分の子分のように想っているのか半分舐めてかかる。「ドアを開けろ」「網戸を開けろ」「お八つをくれ」と当然のような態度で啼くそうだ。ボクの前では小さな声で「ニャ」と遠慮気味に啼くレベルも、家人の前では大きな声で「ニャー!ニャー!」と啼く声に変わり、近所の手前恥ずかしくなって直ぐにガラス戸や勝手口を開けてやり、お八つを与えるという。「まるで何も与えていない様に想われるから、嫌な猫だワ」と愚痴る。ココなりに知恵が付いて来ているのだ。だから庭先のゴルフ練習で、パターではなくチップ・インをやっていると、ジッと観ているだけなのだ。

COCO-028
COCO-028(ゴルフボールが消えようが無く成ろうが、私には関係ないワ)。

 何故なら、ボクの失敗したボールがホールを越えて行くとボールの勢いがパターの場合よりも速いから付いては行けないのを知っているのだ。パターのボールはホール手前に飛んで来て止めるくせに、チップ・インの場合はボールが宙を舞うから手が出せないのかも知れない。当たれば痛いのを知っているのだ。たまにチップ・インのボールが煉瓦や庭石に当たって藪に入ってしまうとボールは絶対に見付からない。例の失せモノのように嫌な予感がしてオブジェクト現象が起きたのかと想ってしまう。昨日は1個、今日は2個紛失してしまった。小さな庭だけに直ぐに見付かる筈が、ゴルフ・クラブで藪のシダや雑草をより分けて端から端まで探すのだが消えてしまって無いのだ。イライラして来る。一所懸命探しているのにココは素知らぬ顔で居眠っている。

COCO-029
COCO-029(煉瓦のお蔭でゴルフボールは溝に転げ落ち難く成った)。

 「お前、何処かに隠したのか?」と愚痴りたくなってしまう。ひょっとして時空の割れ目でも生じて其処に入り込んでしまったのかと想う。失せモノが発生する時はそうとしか考えられないのだ。それをココが念波で生じさせるとしたなら大した猫だ。「それなら、ゴルフボールの代わりに小判でも持って来て返してくれないだろうか」と願わずには居られない。人間の慾がペットにまで及んでしまっては世も末だろうが、ボクにとって失せモノは性の悪い時空の悪戯にしか想えないのだ。その原因がココにではなくボク自身にあるなら矢張り心の声を聞くべきなのだろう。ジタバタせずに冷静沈着に考え、考え抜いた揚句に何等かの結論が見出せるのでは無いだろうか。そんな事をココの居眠りの光景を観ていると想えて来て、ふと谷崎潤一郎の小説「猫と庄三と二人の女」を思い出すのである。

COCO-030
COCO-030(煉瓦敷きの通路のお蔭で歩き易く成った)。

 つまり作家と言うものは実に冷静に観察しているものだという事だ。自分が作家という立場である前に一人の人間として自分の置かれている状況を正確に把握しているという事である。それはなかなか出来ない事だ。客観的に冷徹に自分を観察する事で周りが観えて来るものである。単なる一時の感情で思いつくまま記すのは単なる日記に過ぎない。しかし、作家はそれ以上に自分を突き離して第三者の目で観るのである。良いも悪いも噛み砕いて総てを呑みこんだ時に淡々とした状況が観えて来る。自分を売り物にする為に総てを曝け出し恥も外聞も気にせず書き出せるのは並みの人間には出来ない。其処まで自分を追い込むだけの何かが在るのだろうが、一般人には理解出来ないのである。だから作家は一種の露出狂ではあるが、既に自分という個は失われ社会の一部としてしか認識せず、自分や家族を犠牲にしてまで書かねばならない使命感があるのである。だから私小説作家が即ち作家の本質である由縁なのだ。(つづく)

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