2006/03/24(金)12:32
生命をいただく「全体食」を!
あらゆる生命は、他の生命をいただいて、自分の生命を健全に維持することが出来ます。
自分の生命を真っ当するために、他の生命を犠牲にすると言いますと、一見、残酷な仕打ちに見えますが、この食物連鎖でしか生態系をバランス良く維持することが出来ません。
見方を変えますと、それだけ「あらゆる生命は、一つ一つが完成されたもの」であるということです。
「生命を育むのは生命です」
これこそ「自然の摂理」です。
大自然の、生命の一つに過ぎない人間も、この「自然の摂理」に従順である限り、生かされています。
つまり、人間の食性は草食ですから「植物の生命」をいただいて初めて、健康な心身を保つことが出来ます。
しかし、残念ながら、人間は(ここでは現代の日本人ですが)「植物の生命」をいただいておりません。
古来、日本人は、木の実などの植物を主食としていましたが、その後、アワ・ヒエに移行し、縄文時代の末期には「稲作」が伝えられ、「米」を主食にするようになりました。
「米」は稲の種子であり、「生命」そのものです。
米という「生命」が、「日本人の生命」を健全に保ってくれました。
ですから、日本人は、食事の前に、
(大切な貴方様の生命を、私の命のため、奉げていただき、ありがとうございます。ありがたく)「いただきます」と感謝の念を声を出して表明いたします。
そして、食事が終わりますと、
(大切な貴方様の生命を、確かにいただきました。お蔭様にて私の生命は、大変喜んでおります)「ご馳走様でした」と改めて感謝の意を表します。
ここで言う生命とは「稲の種子」です。
この種子を土に蒔くと「次の米の生命」が誕生します。
この「生命力」が、人間の栄養となり、心身の健康を維持してくれます。
残念ながら、現代の日本人は「生命力」をいただいておりません。
つまり、「種子という生命である米」を破壊すなわち精米し、真っ白にした「白米」を食べています。
「米」を「白」くしますと、「粕」(カス)です。
粕である白米を土に蒔いても「次の米の生命」は誕生しません。
白米は「生命力」がありませんから、もはや「生命」ではありません。
日本人は、このように「生命」をいただいていないのですから、心身の健康を維持することなど不可能です。
破壊する前、精米する前の「玄米」は土に蒔きますと、「次の米の生命」を誕生させます。
生命力がある「生命」だからです。
「生命力ある生命」全体をいただくのが、あらゆる食事の大原則です。
しかしながら、現代の日本人は、徹底して、生命力のない「部分食」になってしまいました。
例えば、パンというと、麦(生命)を精麦して真っ白にした小麦粉から製造された「白パン」を食べ、
魚というと、魚(生命)の美味しい筋肉だけを切り裂いた「刺身」、「切り身」魚を食べ、
麺類も、小麦粉から製造されたラーメン・うどん・スパゲッティなどを食べています。
勿論、白米食は、もはや生命でないものを摂取する「部分食」です。
健全なる心身に必要なのは、生命全体をいただく「全体食」です。
パンであれば、小麦を精麦していない「全粒粉」や「ライ麦」から作られた「黒パン」を、
魚であれば、頭から尻尾まで食べることができるメザシ・シシャモなどの小魚を、
麺類であれば、そば粉を原料とした蕎麦(そば)を、
米であれば、米の生命である「玄米」を、
これらを、いただいて初めて「生命力」豊かな食事となります。
生命力のない「部分食」は、もはや「食事」ではありません。
「空腹」を一時的に解決させるだけで、栄養失調を招き、自然治癒力を低下させ、がんなどの生活習慣の原因となる「蛮行」です。
生かされている「生命」を愛しいと思うのは、あらゆる生物共通です。
その生命は自然です。
私たちの心身も自然の一部に過ぎません。
自然に蛮行を働くと、「天に吐いたツバ」のごとく、自分に降りかかってきます。
自然に従順に生活しましょう。
自分という「内なる自然」に優しい「全体食」を心がけましょう。
あらゆる生命は、それ全体で「バランスが良い」状態にあります。
この全体を「いただく」ことが「バランス良い」食事になります。
食は命なり。