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カテゴリ:経済
森下恵一博士の著書・「失われゆく生命」(1964年 美土里書房刊)から引用します。
●薬は攻撃用の尖兵 近代の欧米医学は、病気の原因を、主として外界の微生物に求めている。 「目に見えない小さな病魔が清純純白なわれわれのからだを蝕むために病気になるのだ。 だから私たちはこの外敵を撃滅しなければならない」 最新医学は、こう考え続けてきたのである。 ここ百年ばかりのうちに、西欧医学は、この攻撃的な性格を露骨に現しはじめた。 現在、病院や薬局の棚に並べられている薬剤の多くは、いうなればその攻撃用の尖兵である。 これらの化学物質はーわれわれ人間よりはるかに生命力が強いー微生物を殲滅することのできる毒物だから、それを服用したり注射したりすれば、当然、私たちのからだの細胞にも、大なり小なり障害が与えられるわけだ。 不都合なことに、これらの強力な薬は、いわゆる外敵が健康な細胞と同居していたずらをはじめる、というような状態になってから使用されるものであるから、その攻撃目標は、体外(にある外敵)ではなく、体内であることを、まず銘しなければならない。 それゆえ、試験管の中ですばらしい威力を発揮する薬剤であればあるほど、味方の細胞の被害も甚大であることを、覚悟しなければならないのである。 だから、「敵は殲滅せり。しかれど、味方もまた、いちはやく殲滅せり」ということに、なりかねないわけだ。 ●薬石の効大いにありて よく、新聞の黒枠の欄に、「薬石の効なく、誰々は死亡したー」と書かれているが、この活字をみてときどきこんなことを考える。 薬石ーという言葉が示すように、その昔のクスリは石だった。 もっとも、路傍にころがっているような石ころそのものではなく、特殊な岩石を堅い石の臼でひいて細かな粉末にし、使用したものである。 だから、その頃の医者は、石を商売とする職業、つまりいしや(石屋)でもあったわけだ。 (中略)しかし現代医学では強力な殺菌剤や細胞毒が使用されているのである。 それによって、われわれ自身の体細胞が破壊されることもあるのだから「薬石の効、大いにありてー」というのが本当である場合も少なくはないではないかー。(中略) ●バクテリアを皆殺しにしても病気になる ところで、現在、一般に「清潔とは無菌的の意なり」と解釈され、「不潔な」といえば、バクテリアがうようよとくっついている状態をいう。 そして、バクテリアやその他の微生物を皆殺しにすれば、病気にならないーという衛生思想は、いろいろと不可解なものを発明してきた。 たとえば、動物の無菌飼育というヤツだ。 膨大な予算で、大がかりな設備をし、無菌的に分娩させた動物の子供を、無菌室で、無菌的な空気を吸わせ、無菌的な餌を与えて、無菌的に育てるーという試みである。 大変な苦労をしながら、わかったことであるが、「無菌飼育動物は、さぞ理想的な健康状態にあるだろう」との思惑とは裏腹にーパスツゥールのコンベンの中でなければ、生きていけないようなーひよわな動物だったのである。 もうひとつ、この頃の衛生思想が発明した産物に、消毒、殺菌剤などがある。 これは、外科の手術などに不可欠な薬剤で、それによって数多くの生命が救われた、ということも確かであろう。 しかし、もっと大きな観点から考察して、それには手放しで喜べない問題がはらまれていることに、気が付かねばならないのである。 ●たくましくなるバクテリア われわれの身の回りには、それこそ無数の微生物がうごめいている。 体の外ばかりではなく、からだの中までもーである。 それに比べれば、全く微々たるたる存在の蚊やハエの駆除でさえ、手を焼いている現状であるのに、この微生物どもを一掃しようなどとは、とうてい正気の沙汰ではない。 おなじみのペニシリンやスルファミン剤が登場した頃は「これで病原菌が根絶される」というので、まさに救世主扱いの霊薬だった。 結果は、どうだったであろう。 はじめは劇的な成功を収めたこれらの薬剤も、だんだん効かなくなってきた。 とはいっても、ペニシリンやスルファミン剤の質が悪くなったのではない。 それらの作用を受けつけないアンチ・ペニシリン菌やアンチ・スルファミン菌という新しいタイプのバクテリアが生まれてきたのである。 だいたいバクテリアというものは、非常に根強い生命力あるいは適応力をもっていて、与えられた生活環境に順応し、それに耐え得る性質を次ぎつぎと獲得していく。 いま、地球上には、それこそ何千、何万という種類のバクテリアがいるけれども、それらのすべてがアダムとイヴ以前から存在していたと考えるべきではない。 大半は、その後に至って新しく生まれたものだ。 強力な殺菌剤が出現すれば、バクテリアはそれに抵抗する性質を身につけた新しい種類のバクテリアとして姿を現わす。(中略) バクテリアではないが、2、3年ごとに新型の流感ビールスが猛威をふるっているのも、そのひとつの例だといえるだろう。(中略) ●バクテリアは有益な存在 それに、バクテリアの世界でも、われわれ人間の世界と同様に、悪質ないたずらをするものはごく少数で、大部分は有益な存在である。 たとえば、乳酸菌や大腸菌は、われわれの腸の機能が正常に営まれるために、不可欠である。 とくに小腸に住みついている乳酸菌は、乳酸を産生して腐敗菌やチフス、赤痢、結核などの病原菌や有害なアノイリナーゼ菌の繁殖を抑えているのである。 ビタミンの多くは、腸内細菌によってつくられることも知られてきているし、抗生物質がビタミン欠乏症をおこすのは、抗生物質によって生理的な腸内細菌が死滅してしまうからである。 (中略) また、土壌に住む無数のバクテリアが、文字とおり昼夜兼行の地下工作を続けてくれるために、農作物の豊作が約束されるのである。(中略) このように考えてみると、「バクテリアを一掃しよう」などとの考えは、まことにもって愚かな話で、それは「われわれの生命を全滅しよう」ということにほかならないのである。 ●バクテリアの正体はよくわからない 近代の欧米医学が教えるところによれば、病魔は外界のバクテリアやビールスであるから、彼らをわれわれのからだから遠ざけるととも、それを殲滅してしまえば、われわれは数々の病気から解放されるに違いないというのである。(中略) 実際、われわれ医学者も、まだまだバクテリアというものの素性を知らないでいる。 近代医学が、もしそれを知っていたなら、彼らにケンカを売るようなまねはしなかったであろう。 ある意味では、猛獣以上に凶暴な彼らである。 攻撃をしかけるよりも、むしろ鞭の振りようで獅子さえなびく式の懐柔策を考えるべきではなかったかと思うのである。(中略) また、おなじみの結核菌は、適温の牛乳と卵と肉のスープでできた贅沢な栄養物を与えなければ、生きていけないのであるから、彼らを栄養失調にしてしまう方法も当然考えられるわけである。 ●結核は食事の内容が原因 結核は、わが国特産の病気であるように思われているが、古代の日本においても、特に多かったという病気ではない。 結核が国民病といわれるようになったのは、ごく最近のことだ。 大正時代の終りから、肺結核がとみに増加したということと、文明開化の名のもとに洋式の生活が、急激にわれわれ日本人の衣・食・住に食いこんできたこととの間には、はっきりした関係があるように見受けられる。 それまで、日本人は日本の風土に適した衣・食・住の生活様式を守り続けてきたのだが、いきなりキモノから洋服に、さっぱりした和食からバター臭い洋食に、そして木造の日本家屋からコンクリート造りの洋館へと生活習慣が激変したため、日本人のからだが大いにとまどったことは事実である。 日本の風土にそぐわない生活様式、とくに食事の内容こそ、結核という病気の(そして現代という時代が生んだ数多くの病気の)ほんとうの原因ではなかったかー。 われわれの祖先が伝承してきた独特の生活様式は、日本の気候や風土の中で、長い歳月をかけて培い続けてきたものである。 その生活様式は、日本人にとって、最もふさわしく、また無難な生き方でもあったわけだ。 食事についていえば、穀物や野菜を中心とした食生活でよかったのである。 そこへ前代未聞の油っこい洋食が入り込んできた。 日本人のからだが、それを十分にこなしきれなかったのは、むしろ当然の話で、その処理しきれなかった食物に、結核菌が繁殖しはじめたのであろう。 先ほど述べたように、結核菌はこの贅沢三昧の栄養が与えられなければ、生きてはいけないシロモノなのだ。 そもそも洋食というものは、西洋人が西欧諸国の生活環境において、彼らの生活環境が要求する献立である。(中略) ●なお生きているパストゥールの亡霊 さて、この結核の病巣には、結核菌が検出される。 チフスではチフス菌がみられるし、ガンの組織ではガン・ビールスが認められる。 だからといって、それらの病気で特異的に検出されるバクテリアやビールスが、その病気の原因と決めつけるわけにはいかない。 現代医学は、病的組織で検出されるバクテリアやビールスこそ、その原因なのだと解釈しているが、それらの微生物が、体外から確かに入り込んできたということを証明した学者は、まだ一人もいない。 だから、”その微生物がそこに在る”ということだけが正しいのであって、その由来については、それが外からやってきた場合と、そこに現われてきた場合の二通りの可能性を考慮しなければならない。 それにもかかわらず、その微生物を病原菌と理解するのはパストゥールの亡霊にとりつかれているからだ。 「バクテリアは、バクテリアだけから生ずる。バクテリアは、けっして自然発生しない」ということが、もし正しければ、体内で認められるその微生物はーそこで生まれたものではなくー確かに体外から持ち込まれたものにちがいないといえるであろう。 ●病原菌ではなく病果菌 しかし、私自身が観察したところによれば、からだの細胞は生理的な崩壊に際して、バクテリアやビールスというような、より微細な生活単位に解体していく。 そして、その崩壊過程にある組織細胞が病的な異状状態に置かれれば、その場で生まれてくるバクテリアやビールスなども、それぞれの異状に応じた特殊性をもつようになる。 言いかえれば、そこに在る微生物は、病的な組織細胞が、その場でこしらえた産物なのである。 現代でも、これらは病原菌と呼ばれているが、実は原因をなすものというよりは、結果としての性格を帯びている。 したがって「病原菌」というよりは、むしろ、病気の結果生まれてきたバクテリアであるという意味で「病果菌」とでもいうべきであろう。 もっとも、「病原菌」にせよ「病果菌」にせよ、その病気に対して全く無縁の存在だというのではない。 その場で、結果として生じた微生物は、これに反応する異常な組織細胞に対して、二次的に病原性を発揮する。 が、健康な組織細胞には通用しない。 (中略) ●お釈迦さまの言葉 その昔、お釈迦さまがこういったそうである。 「同じ水でもウシが飲めば牛乳になり、ヘビが飲めば毒になる」と。 なかなか味のある言葉で、要するに「肝心なのはからだである」という意味だ。 これが、東洋医学の背景にある思想であろう。 東洋医学のすぐれている点は、”外敵を攻撃するなんて無意味なことだ。それよりも、まず守りを固めよ!自らのからだを健全にせよ!”と強調する点である。 同じ悪食をしても、風邪がはやっても、病気になる人とならない人がいるのだから、誰が考えてみても、キー・ポイントはからだそのものの健康状態なのである。 (中略) このように、いわゆる病原菌と呼ばれるものの病原性も、けっして絶対的なものではなく、常に、誰にでも発病せしめるというわけにはいかない。 この病的なバクテリアと反応する異常性が、からだが、からだに存在する場合に限って発病する。 それも健康体にとっては非病原菌なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.09 02:13:03
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