◎【末次流】 4-13 巌流島の決闘と 英語のhave と 珍しい恵比須像の木版画
◎【末次流】 4-13 巌流島の決闘と 英語のhave~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~末次通訳事務所です。いつも御世話になります。一日遅れましたが、昨日は、4月13日ですこの日は、宮本武蔵と巌流小次郎が船島で決闘した日ですねこれは、史実の戦いですが、実は、この決闘は、細川藩が仕組んだ一種のリンチ暗殺事件です彦山の山伏、佐々木巌流ら一派は、細川藩剣術指南役に抜擢されてより一層、威を嵩にきて、のさばる様になりました。今で言うところの、ギャング集団の様に、ギャンギャン、行政などに文句をつけたり妨害をしたりと手に余る行為を始めました。ですから、細川藩は、豊前(福岡県)に移転する前に治めていた播州で、藩士に対して、剣道の先生をしていた新免無二斎先生に依頼をして佐々木巌流と試合をして欲しいと打診をしましたが、無二斎先生は、養子の武蔵を、その相手として細川藩に推薦しました。無二斎先生は十手術の達人です。強かったのでしょう。無二斎先生であれば試合の形式とはいえ、佐々木巌流をグチャンとやっつけてくれると思ったのでしょう。この試合は、細川藩が仕組んだ、佐々木巌流への暗殺行為です。無二斎先生は、おそらくは、このときはご高齢なので、養子の武蔵を派遣したと思います。当時、このお父さん(無二斎先生)は、杵築(いまの杵築、中津の近く)に滞在をしておりました。試合は、当然、武蔵の勝利でしたが、止めを刺したのは、検分役(つまり、細川藩藩士ら)と推定されます。そして、武蔵は、巌流の門下や仲間らの報復を恐れて、巌流島から、門司を経由して、お父さんの滞在する杵築まで、護衛をされて、送られました。武蔵からすれば、普通の試合のつもりであったのに実は、それは、暗殺の企てに関わっていた事になります。それを知らずに試合に挑んだので、事実を知ったときはショックであったと思いますですから、巌流の魂に回向を手向けるかの様に、門司の風師山の山頂付近にある、武蔵の顕彰碑(=武蔵師の養子で、後の細川藩家老の宮本伊織が立てました)、巌流島の方を向いております。そして、歴史の流れの中で、船島という名前だったこの島を、巌流島と名づけました。4月13日は巌流島の決闘の日ですが、これは旧暦の日付ですから、実際は、5月末ごろにあたります上記内容は、史実です。==========================武蔵は、船島で、巌流と決闘しました。⇒ Musashi had a duel with Ganryu on Funashima Island (now, GanryujimaIsland)小説や映画では、武蔵はかなり遅刻したとの事ですが、Novels and movies about Musashi say that he had a big delayin coming to the island,ですが、それは本当かどうか分かりません。but I have a strong doubt whether it is true.武蔵は、60回ほど試合をして、一度も敗北をしなかったと云われています。Legends say that Muashi had 60 duels in his life andhe never lost any of them.ご参考下さいませ。どうも誠に有難う御座います=末次商店=<兵法・通翻訳二刀一流>末次通訳事務所:末次賢治拝~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さて、武蔵師は、地元の伝承によりますと、船島の決戦の後に、福岡の糟屋郡にあります、菅山という山に入り、約3か月ほど、山籠もりの修行をします。その山籠もりの後に、お世話になった菅山の管理者に御礼として恵比須像を手ずから彫り、それを管理者に差し上げております。その恵比須の版木絵は下記の通りですこの版木絵の 恵比須像を手ずから彫ったそうです。この絵図は、滅多に拝見できないモノですので、貴重です。ご参考くださいませ。弊社は、史実の宮本武蔵師を顕彰しつつ、武蔵師関連の観光経路(全国に点在する拠点をつないで)を開発して参りたいと思っておりまして、取り組んでおります。末次通訳事務所・偉人顕彰部