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            九鬼光志の部屋

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全8件 (8件中 1-8件目)

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2008.01.07
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たじひ野

古事記下巻 冒頭にある記述

 大雀命難波の高津宮に座しまして天下治しめしき。

此の天皇、葛城の曽都毘古の女、石之日賣命に娶ひまして生みませる御子

大江之伊邪本和気命、次に墨江之中津王、次に蝮之水歯別命、次に男浅津間若子宿禰命。・・・云々・・

当時、生駒山の奈良側の山麓に豪族 葛城のテリトリーがあって、河内の大部分が未だ湿地帯であり、水稲による米作があったとしても小規模だっただろうと思います。

歴史の、先生の意見では、応神天皇が北九州、あるいは宮崎県辺りに起こり、その子・仁徳が河内に来て、仁徳の河内と葛城の大和・奈良が婚姻によって合流し、その事により・大和の古豪族を配下に治め、河内王朝が成立したのではないか? と。、

神武の東征は仁徳の一連の行動を示唆しているのでは?

と言う説もるが、僕自身は、神武が実在していた事も併せて考え続けています。

また 神武が初代の天皇であって、一方、祟神天皇も初代と言うことになっている。

歴史は複雑で難解で諸説あって・・・・、

おそらく今後もその事は未解決のまま、新しい歴史が どんどん生まれるでしょう。

次に生まれる歴史は日本人による歴史とは限らない。日本人そのものが変わるだろう。

日本の民族の 諸々の条件・学力や道徳の常識、国の意識、・・・が

戦後の大人達の無責任な怠惰、自己本位な事なかれ主義、教育の現場の荒廃、

学歴、年齢尊重によって為されてきた種々の判断が、このまま続くならば

 現在、歴史の判断は各人それぞれ、いろんな見解があったとしても、

古事記が江戸時代に見直される様になって、明治維新後の長州中心の富国強兵策、

日露戦、・・・対中国戦・・第二次世界大戦・・・そして無条件降伏・・米国の上陸・進駐

その結果・皇国としての軍閥・官庁主導の帝国主義が事実上解体された。

1946年1月1日に昭和天皇の人間宣言があり、天皇家が神の子と言う事を暗に否定されてから、

天皇のルーツを遡って考え、その事が間接的に国民が民族の歴史に興味を持ち、調べ、学ぶ事が許されている。

調べる とは 言っても 素人の僕等は学者の説を聞き、本を読む行為にしか

ならないが・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仁徳の三番目の皇子は 反正天皇となっている。

反正天皇 名は 蝮瑞歯別命( たじひ の みずは わけ の みこと

つまり、たじひ=蝮の様に素早く強く 瑞々しく綺麗な歯をした 皇子だったと言う。

この天皇の時代前後は、日本以外の第三者、外国の文献に記録が残っているから、実在した天皇となっていて

所謂、倭の五王と記載された王 

讃・ 珍・ 済・ 興・ 武 が それそれ

仁徳・反正・允恭・安康・雄略 であろう と言うのが一般的な説であって、

堺市北部 百舌古墳群に集中しています。

なかでも 僕自身が好きな場所は 反正陵付近の静かな場所。

南海電鉄 高野線 堺東駅 東改札口を出ると すぐ その静かな場所がある。

堺東駅の西側は 百貨店や銀行を中心とした近代的なビル街で、東側とは正反対、その差は まさに 現代と仁徳や反正の時代差を感じさせる。

touri.jpg

syoumenn.jpg

tatehuda.jpg 

 この反正天皇 タジヒ の ミズ ハ ワケの ミコト

が 父 仁徳天皇から与えられた 部 職能集団の管理権と物納税対象の土地は、

タジヒ野 と なっているが、タジヒ=蝮=丹比と変化して 羽曳野市 西部 郡戸(こうず)と言う地名の付近にある小学校、図書館に僅かに残っています。

又 当時・丹比野は 羽曳野市に隣接する堺市の東部にまで広がっていたらしい。

現在の堺市 美原町の北 多治井(たじい)は 水源があった名残かもしれません。

反正テリトリ.jpg 

また、仁徳の河内王朝が成り立つ以前 縄文後期から弥生時代には

三輪王朝の先住民が すでに居て、三輪神社などの話に出てくる

オオタタネコ や 土師の集団があったらしい。近くに土師の里の地名があります。

 

もっとも、その頃は 茅沼県 水草の茅(チガヤ)が生い茂る沼地で

あって チヌノアガタと呼ばれていて、オオタタネコは神話では女性ですが

ひょっと すれば 茅沼県の須恵邑(土師師・土器の製作集団の集落)の集団の事を示唆しているのかも 知れません。

堺市を南へ走る南海高野線 その北野田駅 東に菅生神社(すごう・神社)があります

神社名から 菅原道真を祀る事を想像するのは当然ですが 道真以前は 農耕の神 雷神であって、近辺には中臣の傘下の渡来人集団が住んでいたらしい。

中臣氏から 藤原鎌足が出て、それ以降は鎌足の祖先と言われる天児屋根命、出世した鎌足を認める皇族が 天照を合祀するように変化していったと言います。

その後・平安時代には道真が大宰府に流され、天変地変が続き やがて道真を雷神として祀る様になるのですが、時代と共に 為政者の力の象徴が神となって祀られるのは 当然過ぎる程 判りやすい結果でしょう。

神が人間を作るのではなく、人間が神を創るのでしょう。

ですから 神社は 歴史を探る上で 大切な鍵となっています。

歴史は学問ですが、素人の僕にとっては ロマンに満ちた ストーリー、ミステリーの一種であって、まったく個人的な幻想ですので、本格的に研究されている方の ご批判などは勿論無く 無視されて、全く相手にされないでしょう し

若い方は プロの先生方の説を当然・優先されるべきでしょうが、僕の様な歴史に趣味があって、一緒に意見を交換しあおうと 言う人は コメント下さい。

ま 日記の様な 感じたまま の 記録 ブログ ですから・・・気軽に書き込み

お願いします。

 







Last updated  2008.01.07 08:05:02
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2007.12.22


古渡りの足跡

   小橋(おばせ)


 小橋と言う町の場所は、大阪環状線、JR鶴橋駅の北側に降りて、西、千日前方面に歩くと、すぐに、道路が交差している。この道路の交差点から、西側を見ると、すぐに、道路の北側に緑の樹木が見える。
そこが、小橋公園。

小橋の地名は、古く、仁徳天皇(第十六代天皇)の頃、・・・と言っても、正式な時代は記載されていない謎の時代。


仁徳が誰か? と言う事も、歴史ではなく、伝説と歴史の中間程度にしか、正確には判っては居ない。


しかし、日本人は殆ど全ての人が、仁徳の名を知っている。

「日本書紀」に応神天皇の子となっているが、歴史的には、四百十三年、中国の史料に登場する、倭王 讃ではないか? と言われていて、プロの先生方の間でさへ、色んな説が、議論されている。

JR阪和線・百舌駅近くの、仁徳天皇陵と言っても、 伝・仁徳天皇陵と言うのが正しい。


その、応神・仁徳の時代に、天小屋根命の子孫で雷大臣と言う人が存在していて、その、雷大臣の子が、生まれた時、産湯の為の水を汲んだ井戸が、小橋公園の裏、北側に有ります。

この、雷大臣の子の名を、乎波勢命 (おばせのみこと)と呼んだところから、現在の、{小橋}の地名になったと言われています。


小橋の地の、乎波勢命の産湯を汲んだとされる井戸は、現在「産湯稲荷」と呼ばれて、僕が訪ねた日は、桜が見事に咲いていました。

産湯稲荷拝殿765.jpg

 鳥居と桜630t471.jpg

 

 

  産湯稲荷付近の地図 画面上方向は西、大阪湾方向、千日前に至ります。

流通地図.jpg 



乎波勢命から、十代下ると、その子孫は、中臣鎌子(=中臣釜足、後の、藤原鎌足)となって、六四五年、(大化元年)六月十二日、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ=後の天智天皇)に協力し、蘇我入鹿(そがのいるか)を倒し、大化の改新へと歴史の流れを変えていったと言います。
   

  蛇足(だそく=余計なコトでスミマセン)
鎌足の遠い祖先は、古事記では、天小屋根命(あめのこやねのみこと)となってお       り、天 照 が岩戸隠れ、(実際には、日食の最初の記録か 又は 卑弥呼と養女 イヨの時代の世代交代の譬えと思われます。)の時、神話では 祝詞をあげた神様です。

また、天智天皇(てんじ)は、中国から、水時計を輸入? して、時をしらせ、時間の感覚
を 広く認識させ、統一した天皇です。




鶴橋(つるはし)


 鶴橋の町は、近年、コーリャ・タウンとして、栄えています。

この地の名は 韓国ブームが 起きる度に 過去 何度もマスコミに取り上げられてきて今では、もう 全国的に地名が知られています。


コーリャ タウン は韓国、北朝鮮から、帰化した人々によって作られてきたと言っても、過言ではないでしょう。

ここで、帰化したと言うのは、近代の2世~4世の人々を便宜上、通例的に呼んでいるだけで、
帰化といっても、
祖先を問えば、日本人の多くの人々が、韓国、北朝鮮、中国、台湾、ベトナム、カンボジヤ、モンゴル、その他の国々の人の子孫であろうと僕自身は思っています。
そこで、
純粋に日本という国、日本人を他国の人々と遺伝的にも独立した人種である。
と主張する人々が、熱望しているのは、
日本原人の足跡と、その家の家系と言う事に帰着しますが、
それは、そう言う事が 実際にあれば・・・その家の家系は皇室よりも、日本人として古い・・と言う事になります。

そうなると、何よりも、多くの国民から、否定され異端視されるでしょうし、
真実を証明する根拠を問われるでしょう。
たとえ・・葛城、物部や 大伴といった古代名族が その後 純粋に 継続していた としても、その祖先の古代人は、氷期が終わる以前に 大陸から移住してきたと 現在ではなっています。

日本原人は 現在では 幻だから です。
この愛すべき国、日本に
古くから、来た人々を、古渡り(こわたり、ふるわたり)、新しく来た人々を今来(いまき)
と呼んでいたのは、奈良時代から始まっていて、歌(短歌)にも読まれています。

そして、多くの日本人の祖先は、古渡りか、それらの人々の姻族でしょう。
そして、その事は、皇室も同じです。
今上天皇の、ゆかり発言 縁発言はその事を認められたご発言です。

では、鶴橋と言う町はいつ頃から栄えたのかと調べてみると、
聖徳太子の時代、六百年ごろまで、
今来(イマキ)、つまり、その時代の新しい帰化人達の中でも、
日本人、つまり、古渡り(フルワタリ、コワタリ)の権威ある階級の人々の中では、知識のある人には、教えを請い、尊敬もし、帝の近くで古渡り、今来の別無く厚遇したが
反面、作業に携わる技能集団の人々も居て
それらの職能集団、特殊技術を持って、国の為に働いた、あるいは、働かされた人々は、品部(しなべ)とよんでいたが、その中の一つに、猪飼部(いかいべ)と言う集団が有った。

猪飼とは、
猪、つまり、イノシシに近い豚、「西遊記」孫悟空の話に出てくる、猪八戒(チョ・ハッカイ)というイノブタが出てきますが、その様に、原始的な家畜のイノシシを飼い、肉や、皮等を、宮廷に献上していた。

猪飼をする人々の住む岸辺、野原、入り江、等を、猪飼の津、猪飼野と呼び、転音したり、転字したりして、
猪甘津川が流れていて、その、猪甘津川に、仁徳天皇が、橋をかけよ と命じられ、人々が橋をかけたのが、日本の橋の初めと言われています。

猪飼橋には、川の岸辺、湿地帯には、ドジョウ等の餌が豊富に居たので、鶴が沢山集まる様になり、人々は、「鶴の橋」と呼ぶようになったと言う。
 

ちなみに 鶴は 韓国語の ツルミ で 古代の日本でも ツルミ と 発音していただろう と 僕は考えています。

時代が下って 鶴になってはいますが、現在でも ツルミは 鶴見という土地・地名は残っています。

鶴の橋 の 碑

史跡碑.jpg


橋解説.jpg



 







Last updated  2007.12.22 12:23:00
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九鬼光志 詩集      
             瓶の中

       孑孑 ( げっきょう )
         今は
         鈍色の独り児の
         抱えた定めの哀しみも
         時が来れば全てが解け
         そして全てが
         鎮まるだろう





プロローグ 
        僕の詩のテーマが暗い理由

    来るべき死  消滅の美学

 科学者の推論によれば、
宇宙の拡張が、やがて停止する・・・と。
それから、
縮小が始まり、終わりには巨大なブラックホールに消えるだろう・・・と。
正と反とは、神の存在をも左右しかねない。
はたして、そうだろうか?
少なくとも、聖書に書かれてある様に、天地を創造した神は、
宇宙の消滅するのを正視出来るだろうか?
そして、又、実体の無い神は、
彼の溺愛する偉人達、各国の天才達が、この議論に没頭するのを止める事も
しない。
 新聞の報道によれば、二〇〇一年一月半ば。
先進五ヶ国が、同時に証明実験に入った。・・・と、ある。
今、原子の自然崩壊を、時間を等価的に短縮し、
つまり、物理的、化学的条件を、高速に変化させて試みているが、
立証が終われば、それは、究極、宇宙の消滅理論が決定される事を意味する。
精神は、神と人間の絆。
哲人デカルトの説を基とすれば、人が死ぬ時、神との絆、精神は、
言葉として残り得る。

凡夫と言えど、あくまで、個人周辺の次元では・・

全人類の死滅の時は、人が核の過ちを起こさなくても必ず来る。
科学による太陽の推定寿命。
仏教による弥勒の俗界出現の予言が、それだろう。
また、宇宙そのものが消滅すれば、
そこに残る物は、無形の闇と、自由に歪む時の他は何も無い。
アルベルト・アインシュタイン。『一つの石』と言う名の偉人。
彼は予言し、今。世界の定説となっている。

 さらに、僕は思う。
現存する宇宙、その壁の向こうに、もう一つの世界があり、
そこも又、茫々たる闇で、再び、宇宙が生まれないとしても、
それは、滅びの闇ではなく、
むしろ、完成された姿では、ないだろうか?
僕はこの事を、真の涅槃寂静だと信じている。
一般に、生を賛美すれば死は暗い。
しかし、死をも肯定すれば、闇も又、負の発想ではなく、生も死も連続した命脈であろう。
回天の夢は、無想の極、生死を越えたところに、なに人においても約束されているのだろう。
生との別れの死は、全ての感情を包含し、悲しみであると同時に、憧れに似た期待をも感じさせはしないだろうか?
僕が、悲しみと、期待とを交互に感じるまま、明日も拙劣な詩を書く行為、
それは、本能であるとさえ、思えてくるのです。
                        
                             九鬼光志







瓶の中

上に出て災禍を継ぐか
下に沈み腐渣となるか
孵ってしまった孑孑が戸惑う汚世

橡色の醜い虫と
瓶に歪んだ少年の日が還る
あれは予兆だったのか

あしたに目覚め 夕べに眠る
朝が来ない様に祈り
明日こそ奇跡がおきる事を祈り

同じ幻が濁る老朽の日々
この硝子瓶を覗くのは
巨大な泣き顔が空間に歪むのは
依然 俺に出きる事は
今日も 唯 くねくね


信者の習わし

俺が不思議に思うのは
過去 二千年の間
像の前に 跪く奴は大勢いたが
お前達 信者の中で
祭壇に登り
釘を打たれた あの像を
十字架から降ろし
せめて 涼しい木蔭に運び
痛々しい傷口を
洗った奴が居たか
いつまでも
指を組んで祈るだけか

苦悩の表情を
微笑みに変えたいと
願う奴が居たか
誰か 一人でも


立命への返書

初めに
与えられた石の名は 懐疑
この終末
未だ 石を抱いている
結実は努力と称え
生きる足掻きを 哄う群
汚れとの 共存を
試練と忍ぶべきか

だが 俺も
掠め取られた弱者
その獲物を食らう 鬼の酒宴に
盃を勧めて廻る卑屈
無駄を積み上げ 恐々と登る
未練を断つ雄気も持たず
唯 営々 人糞を作り続けた消光

意のまま

人の姿で繋がれ 解かれた瞬間
下へと駆けて行く 本質の狗
この鬼界の記憶を刻む

小さな拳は再び握らず と
それは愚行
所詮 夢は一瞬に醒め
石は 依然 石のまま

悲しき誇り
血と苦しみを絶つ大役
やがて石すら離す時
列魂の最後を舞うだろう
むしろ 息らぎ
分相応の立命 と


砂 安らぐ季

風 吹くたび
住処を追われ
踏まれ続け 泣き続け
砂は身を軋ませて傷つき
欠けて 割れて

渚に残る 夏の亡骸
涙と 秋が枯れた後

影をつれて陽が沈み
やがて寡黙な冬が座る

もう 泣くことは無い
 誰にでも来る冬だから
 誰にも厳しい冬だから
むしろ冬は
砂には 優しく思われて
帰って来た 母の様に
雪が小さく歌いながら
白い小粒で胸を叩き
   とんとん と たたき
お前は眠ることだろう
  歌声が聞こえるのは
  泣き砂 お前 ひとり

風が 固まり
風の音が 固まり
空が 固まり
 鈍色に かたまり
 浜が 絵の様に止まる時
雪 それだけが 舞いながら

 白くお前を抱くだろう
下は
ひっそりと夢も動かず
ただ 砂の寝息


再びの夢

希いは さながら水月
神を求めて 命 棒に振る
仮借なき時に 人は老い
失望という 完成を見る
死の瞬間 欲がどろどろと溢れ
生への未練は 醜い尾となって
震えながら 存在をまさぐり
涙を忘れた悲しみは
屍を離れて鈍色にゆらめく

疲れ切った魂が 宙に融合する時
初めて 神の声は言った
もう一度 生まれてみるか と
魂は礼を言った後
願わくば 屍を焼かないように と
誰にも 気付かれず
蛆虫の巣になりますように と
時が経ち 蛆虫が湧き
白く泡立ち 蠢く屍
水に溶け 海へ帰れ
土に融け 地底へ帰れ
そして 最早
私は固体ではなく 暗黒の上へと昇る
 再び 無意識の幼子となり
  母の乳房に抱かれ
 再び 恋と出会い
  爽やかな風に座して
  貴女の髪に触れる ときめき

輝いた光の春は往き
茫漠と拡がる空間
闇 魂を包むもの
それ自身 無音の爆発
膨張の続く中
私の精神は飛びつづける
だから それ故に
煌く 涅槃は遠く
再びの夢は 更に遠い


無用の木

初めから 曲った摺子木
引っ越す度 いつもついて来た
引出しの暗い隅に寝て
時に起こされ山芋を摺る この手と

九つの頃 薪のお前を
肥後守で削った
お前の仲間は
火吹き竹で膨らむ頬を
赤々と熱く照らし微かに音をたてた
役目は終わったよ と

あれは確かブリキの煙突
見上げれば天井は黒く煤けて
ゆらゆらと昇った火の粉
一生かけて一瞬 燃えて終わった薪
それで良かったのか 焚かれる為に生まれた命
無用の木と 人に呼ばれて

夕陽よ 貴女は赤く
見事に終わりを告げるのに
それ故に生まれた陰は
あの冬と同じ やがて闇に消えるだろう
もし 母が生きていたら
もう 許してくれるだろうか
望まぬ 鬼子の誕生を

歯を噛め もっと強く
定めの神意を測るより
湯の沸く音を聞きながら
黙って山芋を摺ろう
遠い昔の 土間とかまど
滲んで来るのを くるくる回す
生まれながらに 少し曲った 橡の
摺子木と
俺と


蛍になる日

片付けよう
頼まれもしない雑用
延々と続けた茶番劇
貧乏な振りして
病人の振りして 後すこし

人の命は永すぎる
今度は 蛍に生まれよう
 木が鳴って 幕が下りる
 その日がきたら
 どうせ無駄だから 誰にも話さず
 妹が手をとれば 唯 頷いて
みんな 消える筈
 思い出しても 泣かず
朝が もう 来なくても
俺が 俺の肩をたたき
ただ 頷いて

苦しんでいる振りして
 意識を逃れ
 冷めた終わりに触れた後
言葉の無い 蛍の言葉
 それが 黄になり 青になり
 俺を 迎えに来るだろう

それから 後は
六つの時の
背の高い 葦の河原へ
空を歩いて帰るだろう








Last updated  2007.12.22 13:05:26
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2007.12.19
カテゴリ:カテゴリ未分類
エッセイ・「時の片隅」

歴史を訪ねて・・歌と写真の紀行

篭りかね 

曼陀羅池の温む日に

      訪ねど花は 微睡みいたり





曼陀羅池
現・万代池 大阪市住吉区 阪堺電軌上町線・手塚山三丁目下車・東徒歩五分。
天王寺近鉄デパート西側から乗車。

昔、この池に魔物が住み阿倍野街道を往来する人々を悩ませ恐れられた。
ある時、聖徳太子の御遣いが曼陀羅経をあげ以来、魔物は消えたと言う。
そこで、この池を曼陀羅池と呼び、後、万代池となった。


この池が桜で有名になったのは、近年、ここ、二十年程。
大阪市北部、周辺の府民には未だ知られていないが、
桜の季節には、大勢の人々が集まります。





延べし手の 

届かぬ先を 舞い落つる

      桜ひとひら  夢のひとひら

 
                   


万葉の昔、花と言えば梅のこと、でした。
桜が歌われる様になったのは、西行以降でしょう。
三日見ぬ間の 桜かな・・・・と言われる様に、花の盛りは短く、儚い。
古来、散リ際の見事さに、大和魂を重ね、かつて、軍歌や、特攻隊隊員の詠んだ歌にも、桜は、見事に表現されている。

 

万朶の桜か 襟の色 

   花は 吉野に 嵐吹く

   大和男児と 生まれなば

 散兵線の 花と散れ



と、散り際の潔さを称えた。

又、特攻隊員の辞世の句に
     
 

散る桜 残る桜も 散る桜



 とある。

これらの秀作に比べるべくも無いのですが
僕としては潔さとは逆の、未練、夢と命、非力の悲しさ を 歌ったつもりです。
勿論、正反、二つの心を持つのが人間、普段とは逆の心が出たに過ぎません。






芥抱く

 朽舟ひとりをはたはたと

 岸に打たせて 遊山船行く





写真は、大阪・南天満公園、 大阪城北の天神橋から河川敷に降り、JR環状線、桜の宮駅まで歩く、観桜のコース。

豪華な遊山船、観光を楽しむ船に比べ、岸に繋がれたままの、小船は朽ちて、中に水が溜まり、枯葉を浮かべながら、観光の人々を乗せた遊山船の余波、あおりを受け、岸に、ガタ、ゴトと 打ち付けられていました。
人の世の幸不幸、明暗は、万物にもいえるのでしょう。


明治の文学青年、 藤村操の言を借りば、

「万物の真相 ただ、一言にて尽くす 

曰く、不可解」



と。







かくあれと

 濡れつ紫陽花歌うなり

     凡夫夏安居 傘に逃れて



 

仏教では、旧暦・四月十六日(結夏=けつげ・・・=煩悩の束縛のはじまり)から、七月十五日(結解=けつげ=解夏=げげ・・・煩悩の束縛を脱する悟りの得る日)までの間、僧は静かに修行しますが、その期間を、夏安居=げあんごと言うらしいです。

別に、僧にかぎらず、勿論、凡人である僕は、悩みから抜け出る事はありません。
多分、死ぬまで、あれ、これ、くだらない事を考え、欲望の虜のまま、でしょう。

 紫陽花は、雨の中でも、たとえ 濡れようと、余計な事を望まず、精一杯、咲いています。








恋しさに 

桂弄る凌霄の

     蔓に付けたる 朱き愛染

 



「勝鬘院 愛染堂」 通称 愛染さん は 各地にありますが、大阪市内では、夕陽丘の「愛染さん」が有名です。
場所は、地下鉄谷町線 西、上町台地にあり坂道を上った所。
大阪の夏祭り、最初は、この「愛染さん」から、始ります。
桂と凌霄(ノウゼン)のペアを「愛染かずら」と呼び、男女の愛の姿の象徴としています。
小説家、川口松太郎により、一躍有名に・・・。
流行歌「旅の夜風」にもなりました。
小説の舞台の方は、長野県上田市別所温泉近くの愛染堂ですが、何度も映画化され、
ここ、夕陽丘の「愛染さん」も、俳優、吉田輝夫氏が訪れています。

夏祭りには、若い人が恋愛成就の祈願に坂を上ります。
「愛染坂」には屋台が並び、大阪に夏がきます。
朱色の花 凌霄蔓を観るには、六月二十日頃が良いでしょう。
その頃には人通りも少なく、閑静な寺院の庭には 桂が、そして何故か、離されて、
凌霄蔓(ノウゼンカズラ)が咲いています。
それ故に
尚、一層、想いがつのるのか、朱く咲き蔓を延べ、桂を弄っているかの様です。







夏祭り

本宮近き夫婦楠

     見上げし老婆一人動かず





大阪市住吉区の元官幣大社・住吉神社は、皇室ゆかりの社です。

祭神は、四座、
第一本宮 底筒男命
第二本宮 中筒男命
第三本宮 上筒男命  
第四本宮 神功皇后

 いずれの神も、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命を連れ戻そうとした伊邪那岐命が逆に汚れてしまい海に入って禊祓いをした時、産まれた神々です。
第十四代仲哀天皇の妻、(応神天皇の母、仁徳天皇の祖母)である神功皇后が百済救済の際に、住吉の三神の助けを得て国の安定を築くことが出来たので住吉の地に祭られる様になり、後、神功皇后(息長足媛命)が、第四本宮に祀られる様になったと書物は伝えていますが、記紀の説を基にしたものでしょう。歴史家によっては、別の見解があるようです。
本宮の配置は魚鱗の備え、鶴翼の構えを持っています。

この住吉大社の夏祭りの日
大勢の賑わいから離れて、本宮裏の「夫婦楠」を見上げる老婆がいて、今は亡き夫を偲ぶかの様に、一人、楠の木を見上げている姿に、老婆の万感の思いを感じました。











鳴く声は 

はや蜩に変りたり

     暗き小部屋に仮寝せし間に





写真は明星派の歌人で詩人の石上露子(杉山タカ)の居室の窓を映したものです。
露子は家業を継ぐ入り婿の言葉に逆らえず、その才能を仲間の与謝野晶子に惜しまれながら、去っていった露子は、この部屋から、遠い東京の空、遥かな夢を秘めた芸術の世界を、一人、眺め続けたのかも知れません。
旧・杉山邸は、大阪府富田林市寺内町に残され、現在、一般に開放されています。

才能が開花するにも、時があります。また、人それぞれに、宿命があります。
家業を継がねば成らない立場と夢のはざまに、露子は、無為にこの時の過ぎる様子を
茫然と定めのままに、受け止めねば成らなかったのでしょう。古い封建的な時代に流された、
歌人・露子でした。

蜩の鳴くころ、・・・日暮れ。
過ぎ去った若い時間は、凡夫の僕にさへ、未練に思えてくるのです。 
定め、運の実態を知る人は、滅多に居ません。人それぞれの道があり、その人だけ知り得た人生があります。いたわり、思いやる心は、露子の反戦歌の中にもあります。








石川の 

佳人訪ねし公園に

     同じ想いか竹の音流る





石上露子の反戦歌の歌碑は、近鉄長野線・富田林駅近くの、本町公園に立っています。朝、十時頃、歌碑を撮ろうとカメラを構えると、丁度、多分、近くの人でしょう、一人の男性が尺八を持って椅子に座りました。歌碑だけでも良かったのですが、好機と思いシャッターを押しました。反戦歌は、日露戦争の時代に露子が詠んだものです。碑文は次の様に読めました。

みいくさに

こよひ誰が死ぬ

さみしみと

髪ふく風の行方 見まもる 

         

石上露子


        


 尺八の調べは、露子の歌に併せるように朝の公園に流れ、季節は確実に晩秋にむかい明治の明星派の時が辺りに満ちていました。








古き善き

世を懐かしむ朽土塀

     老いの繰言聞くは風のみ





大阪市住吉区、JR阪和線 我孫子駅下車、東へ歩くと、南側に厄除けで有名な「我孫子観音」があり、毎年、節分には賑わいます。
我孫子(アビコ)は「網引く子」漁猟の網を引く事を家業としていた人々の土地の呼び名。
南の堺市付近には、依羅(ヨサミ)、寄せる網、寄せる海、家業を網に依る 人々、
依羅物部一族が住んでいました。
したがって、依羅池、我孫子の名が残っています。


写真の土塀は、おそらく、昭和初期に築かれたものでしょう。
我孫子観音の裏門、駐車場の前に建っていました。





苔の路

廻りて出会う家隆の

     時に包まれただ佇ちつくす





藤原家隆は鎌倉初期の歌人、新古今集の撰者の一人で、俊成の門下に学び、定家と並び賞される歌人です。
俊成、定家、宗良親王、顕昭の四歌人の歌碑は、住吉区南住吉町の細江川に建っていますが、
この家隆の墓地は、夕陽ヶ丘、勝鬘院の裏、北側にあります。
愛染祭りの日、早朝、寺の門が開く時間まで、付近を歩いていて、偶然、見つけました。

墓地は、直径 十五メートル、高さ二メートル程の土が盛られ、脇に階段があり、一周できます。
人の近づかぬ墓地、木が繁り、暗い場所です。
女の人なら、少し、ためらうかも知れません。

西側まで、丁度、半周すると、家隆の墓に出会います。
霊気が満ち、町の中に居るとは、とても、思えません。
でも、考え様では、大阪で一番、安全で静かな場所です。
僕は、ここで、時間にして、十分間程、夢中で写真を撮り続けていました。


撮影場所
大阪市住吉区    古名 曼荼羅池 現 万代池
大阪市天王寺区   夕日ヶ丘 勝髪院
大阪市住吉区    住吉大社
大阪府富田林市   本町公園
大阪市富田林市   杉山邸 明星派女流佳人 石上露子 生家
大阪市住吉区     我孫子観音 裏
大阪市天王寺区   夕陽丘 勝髪院裏 藤原家隆 墓地

短歌
拙吟 歌集 「石の種子」 「季の塔」 より

これ等の作品は、過去、インターネット、短歌ファクトリー 他 ホームページ、及び、
堺市、福祉活動団体「堺ハートの会」機関新聞(タブロイド紙)に発表済みの作品で、
過去のブログ、 九鬼光志の宇宙 「瓶の中」に既に発表したものですが、現在 そのブログは見ることは出来ません。  
    

   平成19年12月      九鬼光志



 









Last updated  2007.12.19 09:50:59
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2007.12.18
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杭全(クマタ)

 古代。・・・と言っても、割に新しい時代、大和民族は、継体天皇以降、聖徳太子の時代から、河内=西( =カワチと読みました )に進出し、さらに大和=東( =ヤマトと読みました )へ、勢力圏、都を移した頃。


北に大道(ダイドウ)、大津道(オオツミチ=長尾街道)、南に丹比道(タジヒミチ=竹内街道)が、大和に向って 東へ延びていました。

 仁徳の時代、大王の陵を作る資材を運んだ道は、灘波宮から、奈良の板葺宮、平城へと、都が変わる度に、発達していました。


 この、大道、大津道に倣い、東を目指して、現在 JR大和路線(関西線)が走っています。

大阪南部の繁華街、天王寺駅を出た電車は、途中、貨物駅の百済を通過して、平野区に入ります。


この、平野区は、平安時代の征夷大将軍、坂上田村磨(サカノウエ・タムラマロ)の話に、深い繋がりがあると云われています。

この、場合の夷敵とは、弥生人である新興勢力の神武・大和民族が、先住民の縄文人の東北・鬼門の敵を征伐すると言う意味で使われてきました。

戦争も、他の全ての事柄も、運良く勝った方が、正義です。
そして、勝利者の祖先は神として祀られ、敗者は、鬼と呼ばれます。
これが、歴史上の神と、鬼です。


神と鬼は勝敗の結果なのです。
歴史上の鬼は、悪者ではありません。運悪く、負けた側の祖先の人達です。



さて、杭全神社(クマタジンジャ)の由緒によると、東北の戦いに運良く勝った将軍、坂之上田村磨は、恩賞として、天皇から、土地を与えられました。

杭全神社

鳥居前



この時点から、敗軍の将は、「鬼」と呼ばれる様になりましたが、実に勇敢な人々であったと伝えられています。僕自身、未だ確認していませんが、京都の清水寺の近くに、

鬼とばれた、東北の勇者達、その、将軍二名の墓がるとか。将軍の名は、

阿弖利為(アテルイ)、母礼(モレ)と言いました。


写真は 阿弖利為、母礼の首塚 と 伝えられる墓地
この墓は 枚方市の小さな公園に、あります

 

アテルイの墓

敗者 阿弖流為 ( アテルイ )の墓。 何と悲しく 哀れな光景でしょう。

勝者 田村麿は 神として 神社に祀られ、 敗者の墓は まるで 犬の墓とみまがうばかり、これが歴史の残酷さでしょう。

これら 今日では 忘れられた英雄の犠牲によって、国は成り立っているのを思えば、得られた平和の時間、僕らの人生に感謝する念が、自然に湧いて来るのです。

東北と言えば・・平泉・・
平泉と言えば、兄、頼朝の追撃を逃れ、義経が頼った奥州・藤原の地でもあります。

 時代は前後しますが、大化の改新後、中臣鎌子が、鎌足と名を変え、さらに、中大兄皇子から、賜った姓・藤原と 東北の藤原とは別の系です。

藤原は、在来の古代名族から、一歩、下った位置にあって、実力を認められた者が、統治外の奥州・藤原、・・・

(あの、縄文の古代の阿蘇辺族の子孫と僕自身は考えています)  に当てはまる格式を認められた結果、藤原の様にと、意識的に、他の名族に気をつかい、同列とはせず、当時は付けられたと考えますが、時代が下るにつれて、名族に並び、真の実力を発揮する様になります。

さて、
それ程の勇者、阿弖利為(アテルイ)、母礼(モレ)の二人を、破り都へ連れ帰った初代・征夷大将軍・坂上田村麿の功績を認め、恩賞として与えられた土地に、

坂上田村麿の子、坂上広野麿(サカノウエ・ヒロノマロ)が、この、地に荘園を造り、屋敷を構えました。

広野麿の名をとって、現在、この辺りを、平野区と呼んでいます。この屋敷を建てた跡の土地は、枕全(クマタ)と呼ばれていました。 注:枕です。杭ではありません。

この辺りから、「杭全」(クマタ)の名付けについて、雑誌や、ホーム・ページに目を通しましたが、決め手はなく、たとえ、杭全の名付けについて、記述があっても、その理由については書かれていません。理由が無ければ、結果だけ書かれていても、100%信じ込んでしまうのは危険です。

そこに、百家争鳴、各論が雨後の筍の様に出てくる訳です。僕が出会った情報の中で、印象深かったものは、

「曲多」(クマタ)です。河川が曲がりくねってながれ、川に隈(クマ=スミ)が多く出来た。と言う説。

一見、頷けるのですが、当の神社のホーム・ページの由来、由緒を見ると、「枕全」とあります。

枕(マクラ)の文字が、杭(クイ)に変ったのでしょうか? ありえる事です。

しかし、マクラとは、眠る時に頭を載せる物、そう言う事は判っていても、思い込みと言う事がある念の為、マクラの文字について漢和辞典で調べて見ました。


たしかに、マクラの文字はクイと言う意味があったらしい。

と、すれば、後の世になって、クイに置き換えられても、不思議はないのですが、それでは、全の文字との関連が説明し難い。これは、多分、マクラ=始めの意味で、全の文字の組み合わせから、「全ての物事の、始め」となって、意味が通じ、すっきりするのでは無いだろうか?

また、以前の僕は、クイと言う文字が、

船と言う意味だった時代がある事を知って、「全て渡来の人々」の意味だろうか?

 と思った時期がありました。しかし、杭全と言う場所に限らず、平野と言う場所に限らず、

古代は、今来(イマキ=新渡来人)が居住した地域があまりにも多すぎて、百済(ペクジュ=クダラ=クンナラ=大いなる国)の場合と違い、わざわざ渡来人とことわるのは、あまりにも、差別意識がつよすぎる。古渡(コワタリ=古い渡来人)も、今来(イマキ=新しい渡来人)も、差別意識の薄れた、平安時代のこと、その全て渡来人=クイ=船、全=すべて、の意味ととるのは、不自然と思い、長い間、疑問のまま、保留していました。

ここで、神社の由緒にある様に、の文字に出会い、

さらに、調べた結果、つまり、マクラ=クイと読むとすれば、

杭全(クマタ)とは、「全ての物事の始め、新しい門出」 と言う、意味合いが強いので、荘園を与えられた、田村麿の子、広野麿が、当時は比較的新しい当地に来て、街づくりに励む意気込みを込め、「枕全」(マクラ・マタシ=マク・マタ=ク・マタと読ませた)としたのだろう。
この僕の妄想? が本線ではないでしょうか? 勿論 各人 諸説あって当然ですが・・・



この結論に至るまで、の発音から、熊野神宮の熊、八坂神社の、牛頭天王から、韓国のクマナリ、熊津、熊斎などにさかのぼって考えざるを得なかったのは、

須佐之男尊(スサノオの尊)が、ソシ(牛の韓国語)モリ(頭の韓国語)=牛頭天王と、

スサ=韓国語の牡牛、の線の考え方もるので色々考えたのですが、たとえ、それが正しいとしても、

神社の由緒の記載を重視すれば、枕=杭と変ったとみるのが、正しいと確信する様になりました。


歴史の専門家、神職(神主さん)のグループである全国清々会という団体があって、会長は、京都八坂神社の禰宜、(神主)の真弓忠氏 は八坂神社宮司であり、プロの中のプロですが、その清々会の創立五十周年の平成十三年九月、韓国へ牛頭天王のルーツを訪ねて「曾尸茂梨(ソシモリ)ツアー」を行い、希望者だけでも、一〇〇名を越える団体で、現地を調査されています。

それをも含めて、現在の常識では、

牛頭天王は、ソシモリ(牛の頭)であり、
須佐之男は、スサノ男 (スサ、スソの間のSO、又は、SUの発音で韓国語の雄牛です。
また、
熊律は、ウンジン、熊斎はコムナルで日本の発音では、クマナリ。
韓国の神話「檀君神話」を読むと、熊は韓国人の祖先で、神の意味があり、熊野の意味も、その辺りに、起因しているのかも知れません。

これ等の説は、歴史学者の諸先生方の説でもあり、多くの、古事記以前の日本の神話、起源の中にも、韓国、中国の渡来人であるらしい事が、書かれてあります。

牛頭天王は、もっと、古くは、天竺(インド)の神で、唐(中国)、百済(ペッチュ=ペクジュ=クンナラ=クダラ)、高麗(コクリョ=コウライ)を経て、日本に伝わったらしいのです。


祇園(ギオン)のは、インドの長者の名で、
お金持ちの、この人が、荘園としての祇園を、釈迦や、その弟子の修行の場として、寄贈されたところから、祇園と名付けられていたが、京都の祇園はこれに倣って、真似て、建てられたとされています。


以上の事から、日本人の内、モンゴル、ロシア系の縄文人は別としても、、少なくとも、弥生人は、中国、韓国、南洋諸島の人々が渡来し、イマキ(今来)となり、縄文人は、蒙古、ロシア系の渡来人であり、コワタリ(古渡り)と言える。


縄文人の一部には、旧アイヌの人々、伝説といわれる「葺の下人」(コロボックル)も
含めば、もっと、ロマンが拡がって面白いので、日本人自体が混血だといって、落ち込んだり、落胆したりするより、ずっと、楽しいとは思いませんか?

杭全神社の写真を掲載しておきます。

参道

参堂

環濠跡

環濠跡A4修.jpg


拝殿裏 本宮

本宮

回廊

回廊

 
回廊裏

回廊裏 

田村社

田村社                                      


           平成 十七年 五月         小路千兵衛

 







Last updated  2007.12.19 00:18:58
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2007.12.17

 

 先の依羅(よさみ)・このブログの過去・下のページに続き、放出(はなてん)について、書いてみます。

 放出 (はなてん)

 JR西日本、大阪環状線の京橋から、学園都市線(旧・片町線)に乗り換えて、東に向かう。
鴫野の次・放出は二つ目の駅です。
住所で言えば、大阪市鶴見区放出東3丁目、放出は(ハナテン)と読む。
地名では、難しい方です。大阪に永く住んでいても、何故、ハナテンと読むのか? 謎のまま、歳をとってしまう人が大部分です。

 興味が無ければ、誰も、真剣に調べる気さへ、起きません。
当然です。

日々 生活におわれて、ストレスの充満した町で、有名な史跡で、観光の名所なら、兎も角、普通の場合は見向きもしません。
そんな 忘れ去られた場所を訪ねるのが、僕自身に似合っているのです。

 その中の一つ。放出について書いてみます。
まず、パソコンを持っていて、インターネットで検索しても、詳しい事は出て来ません。
第一、 放出中古車センター、不動産屋・・など、すでに地名としての放出関連が、ゴマンと出てきます。 放出の検索では 難しいでしょう。

僕は、パソコンが普及する以前、昭和60年頃、
仕事の関係で、放出にある町工場を訪ね、その途中で、偶然、放出の神社に行き着きました。

阿遅速雄神社(あじはやお・じんじゃ)=つまり、放出の地名の由来が、そこに、ありました。

阿遅速雄神社拝殿

その時の神社の由緒書きを見ると、次の様になっています。

御祭神 阿遅鋤高日子根神  (迦毛大神)
      草薙御神剣御神霊  (八剣大神)

御祭神祀の御由緒
  阿遅鋤高日子根神は本地に降臨せられ給ひ 土地を拓き民に耕耘の業をさずけ 恩沢を たれ給ひ
  父神 大国主命の神業を補翼し給ふ 郷民その御神徳を忍び 摂津 河内の国造神として
  御神恩を お慕ひ申上げ 神いませし此の地の守護神として斎ひまつる云ひ伝へたるものにして・・・・
云々  (・・・といろいろ、書いてあります)

古語めいた言葉では、判り辛いと思うので、簡単に書いてみます。

 この地(現在、放出とよばれる場所)に、昔、阿遅鋤高日子根神が降りてこられ、開拓し農業の技術を教え 大変、民衆の尊敬を集めていました。
そこで、農民達は、摂津、(大阪府北部)河内(大阪府中南部)の守り神として、お祭りする様になりました。

第三十八代、天智天皇(テンジテンノウ)の七年十一月、
つまり、西暦六六八年十一月、蘇我入鹿(ソガノイルカ)を、中臣鎌子(中臣鎌足=ナカトミノカマタリ)と共に、討った中大兄皇子(ナカノオオエノオウジ)が、即位して七年目。
丁度、絶世の美女 歌人で 神のお使いであったと いわれる 額田女王(ぬかたのひめみこ)の時代

新羅(シラギ=シルラ=今の韓国南東部)の、道行(ドウギョウ)と言う名の僧が、尾張国熱田宮に、大切にしまってお祭りしていた皇室の印・象徴の宝剣(天叢雲剣=草薙御剣)を盗み出し、船に乗って本国の新羅へ帰る途中、
難波の津(今の土佐堀川、堂島川あたり大阪城北部にあった海)、に入りこむ大和川川口(当時、大和川は大阪城北部が川口だった。)で大嵐に遭い、押し流され、雷がなり、稲光が剣を直撃しそうになったので、
慌てて、剣を川に、放り出した。(放り出す・・原文は、放ちて、となっています。)この事が、後、放出(はなてん)となった、とあります。

現在、放出と呼ばれる土地に住んでいた百姓、農家の人が、見つけて拾いあげ、
阿遅鋤高日子根神(アジスキタカヒコネノカミ=大国主=オオクニヌシ)の子をお祭りしてある、この神社に、収めました。


それから、
五,六年たって、時代が変わり、天智天皇の弟、<b>天武天皇(テンムテンノウ=大海人皇子=オオアマノミコ)が、六西暦七二年の壬申の乱(大友皇子=オオトモノミコ=天智天皇の子との戦い)に勝ち、 皇居を飛鳥浄見原=アスカキヨミガハラ)を建てた時、剣を、その宮に移しました。そして、
朱鳥元年(アカミドリガンネン)六月=西暦六八六年六月、皇居も浄見原宮から、剣を熱田神宮にお返しした。


それから、
第百十四代・中御門天皇(ナカミカドテンノウ)の享保(キョウホ)八年=西暦一七二三年=徳川時代、将軍(は徳川吉宗の時代。赤穂浪士討ち入り千七百二年の二十一年後にあたります。)中御門天皇から、由緒ある、この神社に八剣大明神(ヤツルギダイミョウジン)として、正一位を与えられました。
と、なっています。


放出(ハナテン)の名が付いた理由は判ったのですが、ここで、神様について、整理してみると、神様は

A 個人の心の、精神向上の目標 としての、象徴
B 各、宗教上の、信心の対象
C 天地の自然現象を恐れ、敬う意味でお祭りしたもの
D かつて、実在した人物で、その偉業、長所を尊敬する意味でお祭りしたもの。

があります。
ここでDの問題が、歴史上に大きく関わってくる場合の神様です。

日本では、その時代を象徴する偉大な人物をまつる習慣があります。

例えば、豊臣秀吉も神様、徳川家康も神様として、祭られています。
この例は、政治的な意図、思惑、方針があります。
広く、多くの国民を統治する為に、昔は、神を、人間が創る場合がありました。

これ等の神は、他のAB、Cと少し意味合いが違います。
日本の歴史は、一貫して、何時も天皇が居られました。
天皇が即位される前の時代にも、多くの地方の部族の先祖が、神として存在しました。
これ等の神は、神武天皇の部下になっています。
これは、各部族が、神武と言う、神、つまり大和民族に統一された事を意味します。
例えば、出雲の神様です。

出雲の神、民族の祖先の象徴は、記紀(古事記、日本書紀=日本の歴史を皇室
なりに、まとめた物、一部は神話)で言う建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)で、八代下の子孫は、大国主命(オオクニヌシノミコト)ですが、この神が国譲り(天照大御神=アマテラスオオミノカミ=須佐之男命の姉=神武天皇(ジンムテンノウ=天照の子孫)に、戦争を避け、国を譲りました。

 このこと以外に、九州、岡山、島根、滋賀、福井、愛知、近くでは、
奈良、和歌山、兵庫、三重と、各地に古代の豪族が居ました。
各豪族の祖先は、神であり、その神も、大和民族の神武(個人の名か、団体の名かは不明ですが、神話では個人のなっています)に同盟し、統一され、同化しました。

一九四五年以降、言論の自由と、天皇の意味が大きく変わり、
神武の子孫は、これらの歴史的な、分類の研究が自由になされ、学者により、発表され、その内、文部省に認定された事項が、公式な歴史となっています。

現在、世界に対して、批判や議論の対象になっている事実関係は、全て、先の第二次世界大戦の、韓国、中国・台湾、東南アジアの国々に対しての、侵略行為の事実関係の認否論についてであって、

皇室批判が、もし、あっても、昭和天皇に対する事柄で、皇室の歴史、成り立ちについては、世界の関知する事でなく、日本の国民、年配の人、若者、学歴、に関係なく、多くの人が知りません。

皇室の歴史は、日本の歴史の芯になっていますから、この事が皇室以外の部族の歴史を知る上で、もっとも、近道だと思います。

神社の歴史は、神の歴史、つまり、部族の興亡の歴史です。
今、有名な神社は、ほとんど、皇室の関係した神社です。(旧・官幣社)
それも、
皇室、つまり、継体天皇以降の歴史は、京都、近畿に集中しています。
京都は、平安時代から、明治維新まで、永く都が置かれ、首都でした。

近畿は、天皇の居住された地、灘波の宮(大阪城近辺)から、五百里四方が目安で、当時は四畿内、つまり、
河内、摂津、大和、山城でした。
奈良時代以降は、河内の南部が和泉として分置されて、五畿内となり、

河内、摂津、和泉、大和、山城

現代では、
京都、滋賀、奈良、兵庫、大阪、三重、和歌山 の二府五県となっています。
天皇の居られる東京は、首都ではありますが、これは、東の京都と考えて、京都御所を天皇の実の? 皇居
と考えているのですが、国の考え方、あるいは、近畿の定義に無理があるかも知れません。

したがって、

大和民族(天照・神武系)の神が集中する、大和民族が永く勢力を誇っていた、この近畿地方に集中し、古い神社が多いのです。

その中でも、最も、近い時代、平安時代の京都の神社が有名ですが、そんな神社の中でも、歴史的には、その神社の本家は、奈良であったり、大阪であったりします。

大阪の、今宮戎は全国的のも有名ですが、本家は西宮市の神社です。

同じ歴史の神社でも、大昔は、大和民族に同化された、旧、古代名族の神が、大和の神として、神話が創られた可能性は、各、専門家の説が多く本として出されています。

奈良時代以降は、安定していた皇室の大和民族も、第二十七代、継体天皇の頃は、各部族の力が平衡していて、不安定なものでした。
今の、近畿に相当する土地の主な豪族を、リストにすると

物部(モノノベ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河内中央
肩野物部(カタノモノノベ)・・・・・・・・・・・・・・河内北部
物部依羅連(モノノベ・ヨサミノムラジ)・・・・河内南部
平群(ヘグリ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・信貴山西部
葛城(カツラギ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城山北部・二上山西部
蘇我(ソガ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・畝傍山東部
巨勢(コセ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蘇我圏南部
額田部(ヌカタベ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平群圏西部
石上物部(イソノカミ・モノノベ)・・・・・・・・・・・天理市付近
三輪君(ミワノキミ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三輪山東部
阿部(アベ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・耳成山西部
大伴(オオトモ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鳥見山北部
茨田(マンタ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・樟葉南部
大伴(オオトモ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大阪市住吉区周辺

その他、凡河内(オオシカワチ)・倭直(ヤマトノアタイ)・息長(オキナガ)氏等。
吉備(岡山)氏等の地方には、大きな勢力の部族が、独立圏を持って居たらしいのです。

006-01-22 05:37 | 歴史エッセイ | Trackback | Comments(0)

 

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Last updated  2007.12.18 01:14:20
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2007.12.16
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依羅( よさみ ) 

依羅 ( よさみ )と言う土地、場所は、現在の大阪市南部に地名として残っています。

もともと、堺市の北部、JR百舌(モズ)駅の西に、面積世界最大の伝仁徳天皇陵がありますが、この陵、
ミササギは、天皇及び、豪族の関係者のお墓の事です。
仁徳天皇のお墓かどうかは、決定している訳でなく、昔から、そう言われていると言う事で、伝・仁徳天皇陵と正確には伝の文字、言葉をそえます。

仁徳天皇の詳しい物証は発見されていません。
お墓、陵の発掘が許可されていないからです。
この、伝仁徳天皇は、歴史の言い伝え、「古事記」等、古い本に載っているらしく、各、神社や、国会図書館、大学の図書室等に、元の本が大切に保管されています。

一般の人、僕の様な人間には、色んな手続きが必要で、まず、直接見る機会は無いのですが、
それでも、そんな本の複製、解説書は、一般の本屋さんで売っています。

もっと、値段の安いものは、古本屋さんで、見つける事ができます。
そんな、資料しか僕の手元にはありませんが、それ等をまとめて書いている訳で、僕の説、僕の独特な研究の発表ではありません。

おおよそ、高校生、大学生の方が詳しい人は、世の中に沢山います。
年が上だから、とか 学歴・年齢等、にも一切、関係なく、若い人も
、現在、先生と呼ばれている人に、すぐに追いつき、追い越すでしょう。

日本人は 日本人 韓国とは 関係 無い !そう 言う 人も居ます。そういった人の為に

「日本原人が居た」 と言う話もついでに、載せておきます。

僕の手元にある新人物往来社出版の歴史読本、昭和六〇年新春号の巻末に、
歴史ニュースのコーナーがあり、各地の新聞のニュースを転載していますが、その中に、「読売新聞」の記事として、宮城県教育委員会が発表した記事ですが、昭和五十八年九月に発見された石器類を調べた結果、十四万年~三十七万年前のものと判ったとあります。

今まで、日本の人類の紀元が十万年前、つまり、渡来人が地続きの北海道へ来た時代を想定していましたが、
十四万年~三十七万年だとすると、北京原人と同時代という事になります。
 つまり、日本にも、原人が居た。と言う記事が載っています。
場所は、仙台の北北東、石巻の西あたり、中峰遺跡です。

読売新聞の記事になったのは、昭和五十九年十一月二十日です。

この事実について、調べたところ、宮城県と奈良県ぐらいしか、認められておらず、国として、文部科学省としては、認知されていません。

歴史に限らず、何事も、事実は、現実に負けるのです。

多数決が正しいとは、必ずしも限りませんが、
現在では、北の渡来人が日本の縄文人の大部分を占めていただろうと言う事になっています。ですから、信念は大切ですが、今のところ、信念だけで、事実である確証にまで至っていません。

  注:その後 上記の発見 日本原人らしき人骨等の遺物の発見は、捏造で、まったく

    の嘘で在った事が、当事者によって自白されました。

    この事件が 藤村事件です。

 


北海道のアイヌの人々、
それ以前の 「蕗の下人」 (コロボックルの人々)の伝説も、辿れば面白いでしょう。

歴史として、認定されなくても、ロマンとして、充分、楽しい勉強になると思います。
つまり、日本原人が居たとしても、多くは、血液型O型の、蒙古(モンゴル)人の一部が、北から、血液型A型
の中国、朝鮮半島の人々、B型、AB型人々は中国南部、南洋諸島から北上して、南部、及び、太平洋沿岸
に渡来して来たのが大部分だと思います。



この、依羅(ヨサミ)と呼ばれた人たちは、部族で言えば、古代名族の物部(モノノベ)氏の一部です。
物部氏と同じ頃、大伴、平群、葛城、息長、蘇我、凡河内氏等、現在の近畿地方にあたる地域に多くの部族が、ある時は争い、又、ある時は和解し、連合し、同盟しあっていましたが、これ等の人々の多くは、歴史的には、弥生人で、皇族の一部に組み込まれたりしています。

しかし、本当のところ、部族のもっと、先祖は、縄文人の部族と血縁があっても、当然だと思います。
先に述べた、阿蘇(岩木山)辺りの、阿蘇辺(アソベ)族が、安倍、安部、阿部となったのはごく、自然の成り行きだと考えます。

依羅の一族が住んでいた頃、下部の民族、枝葉的な親族かも知れませんが、我孫子族も住んでいました。

我孫子(アビコ)とは、網の引き手、引き子で、網にかかった魚を引き上げる仕事をしていた人々でしょう。
我孫子の地名は、JR阪和線、我孫子駅周辺に残っています。

時代は、古く、仁徳天皇の時代、おそらく、その父、応神天皇の頃からと、思われます。
ルーツは、我孫子観音、依羅神社の寺社に残っていて、もっと、古い時代からとなっていますが、全盛期は仁徳天皇の時代以降、継体天皇の頃でしょう。
                                 ( 継体天皇 以前の話は 別として)

依羅池は、涸れてしまい、今はありません。理由は、大和川の付け替え工事にあります。




昔、中、南部の河内は、奈良県の長谷(ナガタニ)を流れる初瀬川、生駒近辺の、生駒川、竜田川、それに、南部から北へ流れている石川が主な川で、支流は無数にありました。

石川が、初瀬川、竜田川と合流し、北西に流れ、現在の放出(ハナテン)付近を流れ、大阪城辺りにあった川口にそそぎ、同じ場所に、淀川が流れていた為、氾濫し、洪水があり、困っていましたが、
江戸時代初期、約三〇〇年前、八ヶ月の短期間で工事が施工されたといいます。

工事を成し遂げた人は、中河内の庄屋、中甚兵衛と言う人らしい。

その為、洪水は無くなり、綿産業が盛んになったのですが、依羅池の水は、大和川に流れ込んで、干上がり、

明治以降、一度は、ポンプで復活させようとしたのですが、無くなりました。

最後の池の一部は、二十年前、昭和五十六年ごろまで、残っていたと言います。
干上がった部分、堺の三宝 等は、三人の人が私財を投げ出して、開拓し、地名として残っています。
それから、
新しい土地が出来ると、利権を巡って土地争いが起きたりしました。

大阪の河川は、工事をした人の名がつけられていますが、中甚兵衛の名は忘れられています。


木津川の木津勘助の銅像は、地下鉄大黒町近くの大国神社にあります。

木津勘助像



 道頓堀を造った、安居道頓の碑も、道頓堀の東に残っていますが、
繁華街を歩く若い人には、気付かれず、寂しそうですが、
思い出したら、近くに行った時、地方の友達が來阪した時など案内してあげたら
大阪の、印象、記念になると思います。


依羅一族の神社、大依羅神社は、継体天皇が即位する以前、紀元二〇〇年頃に出来たと言われて
います。

依羅神社拝殿

   


写真の拝殿前を南へ通り抜けると、大和川の右岸北側の堤防に出ますが、途中、川に向かって右、西側に、写真の依羅(網)池の址の碑があります。

依羅池跡碑





この、ちょっと、気付かない場所が歴史に名高い物部の根拠地でした。
この碑の前の通路は、幅約二メートルで、碑の向かい側は、城南高校のテニスコートです。



しかし、一説では、神宮皇后(ジングウコウゴウ、応神天皇の母、仁徳天皇のお婆さん)が、朝鮮南東部の新羅(シラギ、本当はシルラが正しい)に出兵(侵略かも知れません。)した時、無事を祈って、依羅吾彦男垂見(ヨサミノアビコオタルミ)と言う人が先祖を祭ったのが始まりと言うことです。

依羅吾彦男垂見の祖先は第九代、開化天皇(カイカテンノウ)の四番目の皇子、崇神天皇(スジンテンノウ)の弟で、建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケノキミ)と言う人の御霊をお祭りしたのが最初とか。
依羅も吾彦も、同じ祖先から出ています。

吾彦の名から、我孫子と転字して、地名として残っていますが、我孫子観音は厄除けで有名なお寺です。

我孫子観音拝殿







Last updated  2007.12.17 09:28:21
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歴史エッセイ・
     大阪の地名

 地名の読み方には、歴史が込められています。
したがって、地名を読める人は、その地方の人に多く、逆に他の地方の人にとっては難しいのが普通です。

大阪にも、難字地名は 多いのですが、それは、大和民族としての歴史、に関連しています。
大和民族が 何時頃から・・と言う、明確な事は謎です。
もっとも、皇室の歴史が学実的に、確定・証明されれば、別ですが・・・

現在では、歴史としての皇室は、継体天皇以降で、それ以前の事は、神話、伝説であって、
神武以降とする歴史は、歴史的には藪の中です。

ただし、現在、国民の多くが信じ、支持している説は、神武以降 延々と続いている皇室の歴史です。

どちらが正しいかは、後世、機会があれば、解明されるかも知れません。
とにかく、神武以降 大和民族が、現在の近畿地方と呼ばれている。大阪、奈良に集中しています。

奈良、京都は 最早 新しい時代であって、確定的でしょう。
豪族の歴史、勢力分布の入り組んだ時代は、 次第に勝者 皇室によって統合されて来ました。

この頃を 漠然と、大和民族の発祥と 僕自身は 考えています。
もっとも、伝説と歴史の間にあった、神武東征をもって 大和の初めとする人も、
卑弥呼の時代を言う人も 様々です。

誰もが 夢を持って 想像し 歴史家の話を興味深く聞き、歴史小説を読める自由な時代だからこそ、諸説が出現する理由でしょう。

その大和民族と想定される頃から、大阪には 地名がありましたが、
それは あくまで、文献の記録であり、記録が正確とは限りません。
これもまた、論点の一つでしょう。

地名は音として記録され、文字は 借字し、転音し、転字していますから、元の音とは違うのかも知れません。
古代史を代表する地名の歴史は 迷路の中にあります。

現在、正しいとされている記録による地名の歴史。
その中でも 代表的な大阪の地名を 三つ あげて、紹介します。

その三つの地名とは

 
依羅  (よさみ)

放出 (はなてん)

杭全 (くまた)

     
です。

               小路千兵衛の私的な考え








Last updated  2007.12.17 01:15:33
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