河内王朝・たじひ野
たじひ野古事記下巻 冒頭にある記述 大雀命難波の高津宮に座しまして天下治しめしき。此の天皇、葛城の曽都毘古の女、石之日賣命に娶ひまして生みませる御子大江之伊邪本和気命、次に墨江之中津王、次に蝮之水歯別命、次に男浅津間若子宿禰命。・・・云々・・当時、生駒山の奈良側の山麓に豪族 葛城のテリトリーがあって、河内の大部分が未だ湿地帯であり、水稲による米作があったとしても小規模だっただろうと思います。歴史の、先生の意見では、応神天皇が北九州、あるいは宮崎県辺りに起こり、その子・仁徳が河内に来て、仁徳の河内と葛城の大和・奈良が婚姻によって合流し、その事により・大和の古豪族を配下に治め、河内王朝が成立したのではないか? と。、神武の東征は仁徳の一連の行動を示唆しているのでは?と言う説もるが、僕自身は、神武が実在していた事も併せて考え続けています。また 神武が初代の天皇であって、一方、祟神天皇も初代と言うことになっている。歴史は複雑で難解で諸説あって・・・・、おそらく今後もその事は未解決のまま、新しい歴史が どんどん生まれるでしょう。次に生まれる歴史は日本人による歴史とは限らない。日本人そのものが変わるだろう。日本の民族の 諸々の条件・学力や道徳の常識、国の意識、・・・が戦後の大人達の無責任な怠惰、自己本位な事なかれ主義、教育の現場の荒廃、学歴、年齢尊重によって為されてきた種々の判断が、このまま続くならば。 現在、歴史の判断は各人それぞれ、いろんな見解があったとしても、古事記が江戸時代に見直される様になって、明治維新後の長州中心の富国強兵策、日露戦、・・・対中国戦・・第二次世界大戦・・・そして無条件降伏・・米国の上陸・進駐その結果・皇国としての軍閥・官庁主導の帝国主義が事実上解体された。1946年1月1日に昭和天皇の人間宣言があり、天皇家が神の子と言う事を暗に否定されてから、天皇のルーツを遡って考え、その事が間接的に国民が民族の歴史に興味を持ち、調べ、学ぶ事が許されている。調べる とは 言っても 素人の僕等は学者の説を聞き、本を読む行為にしかならないが・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仁徳の三番目の皇子は 反正天皇となっている。反正天皇 名は 蝮瑞歯別命( たじひ の みずは わけ の みこと)つまり、たじひ=蝮の様に素早く強く 瑞々しく綺麗な歯をした 皇子だったと言う。この天皇の時代前後は、日本以外の第三者、外国の文献に記録が残っているから、実在した天皇となっていて所謂、倭の五王と記載された王 讃・ 珍・ 済・ 興・ 武 が それそれ仁徳・反正・允恭・安康・雄略 であろう と言うのが一般的な説であって、堺市北部 百舌古墳群に集中しています。なかでも 僕自身が好きな場所は 反正陵付近の静かな場所。南海電鉄 高野線 堺東駅 東改札口を出ると すぐ その静かな場所がある。堺東駅の西側は 百貨店や銀行を中心とした近代的なビル街で、東側とは正反対、その差は まさに 現代と仁徳や反正の時代差を感じさせる。 この反正天皇 タジヒ の ミズ ハ ワケの ミコトが 父 仁徳天皇から与えられた 部 職能集団の管理権と物納税対象の土地は、タジヒ野 と なっているが、タジヒ=蝮=丹比と変化して 羽曳野市 西部 郡戸(こうず)と言う地名の付近にある小学校、図書館に僅かに残っています。又 当時・丹比野は 羽曳野市に隣接する堺市の東部にまで広がっていたらしい。現在の堺市 美原町の北 多治井(たじい)は 水源があった名残かもしれません。 また、仁徳の河内王朝が成り立つ以前 縄文後期から弥生時代には三輪王朝の先住民が すでに居て、三輪神社などの話に出てくるオオタタネコ や 土師の集団があったらしい。近くに土師の里の地名があります。 もっとも、その頃は 茅沼県 水草の茅(チガヤ)が生い茂る沼地であって チヌノアガタと呼ばれていて、オオタタネコは神話では女性ですがひょっと すれば 茅沼県の須恵邑(土師師・土器の製作集団の集落)の集団の事を示唆しているのかも 知れません。堺市を南へ走る南海高野線 その北野田駅 東に菅生神社(すごう・神社)があります神社名から 菅原道真を祀る事を想像するのは当然ですが 道真以前は 農耕の神 雷神であって、近辺には中臣の傘下の渡来人集団が住んでいたらしい。中臣氏から 藤原鎌足が出て、それ以降は鎌足の祖先と言われる天児屋根命、出世した鎌足を認める皇族が 天照を合祀するように変化していったと言います。その後・平安時代には道真が大宰府に流され、天変地変が続き やがて道真を雷神として祀る様になるのですが、時代と共に 為政者の力の象徴が神となって祀られるのは 当然過ぎる程 判りやすい結果でしょう。神が人間を作るのではなく、人間が神を創るのでしょう。ですから 神社は 歴史を探る上で 大切な鍵となっています。歴史は学問ですが、素人の僕にとっては ロマンに満ちた ストーリー、ミステリーの一種であって、まったく個人的な幻想ですので、本格的に研究されている方の ご批判などは勿論無く 無視されて、全く相手にされないでしょう し若い方は プロの先生方の説を当然・優先されるべきでしょうが、僕の様な歴史に趣味があって、一緒に意見を交換しあおうと 言う人は コメント下さい。ま 日記の様な 感じたまま の 記録 ブログ ですから・・・気軽に書き込みお願いします。