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サッカーと野鳥と音楽 Kick!Fly!Sing!

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サッカー

2005年02月24日
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カテゴリ:サッカー
 今日はサッカーの話。

 って、随分久々だな~。
最近は野鳥にドップリだけど、やっぱりキャリアを考えたら
10倍だもの、サッカーは。だから今回は遠慮なく長くなった。



 今年もJリーグ開幕を控え、まずはゼロックス・スーパー・カップが2月26日に
行われる。前年のJリーグ年間覇者の横浜Fマリノス(以下横浜M)と
今年の元旦に天皇杯(全日本サッカー選手権大会)を制した
東京ヴェルディ1969(以下東京V)の一騎打ち。優勝賞金は3000万円。
休みが取れたので、一番安い自由席を確保した。

 またもや昔のことを書く。時は1984年10月。
まだサッカーがプロ化する前のアマチュア時代。
実業団中心の日本リーグは20年目を迎えていた。
 すでにサッカーボールを蹴っていた私は、父に連れられ
国立競技場に向かった。生まれて初めてのサッカー観戦。
この年、事実上の決勝戦といわれた
読売クラブ(現東京V)対日産自動車(現横浜M)だ。

 秋晴れの東京。昼下がりの国立競技場は当時の記録となる
3万5千人の観衆を集めていた。まだ少なかったサッカー・ファンの
誰もが目撃したい試合だったのだ。
 それだけの大観衆の中に足を踏み入れたことが無かったので
自然と頬は紅潮し大興奮。間違いなく、私の人生が動いた日。
 読売クラブの応援は軽快な音を奏でるサンバ隊。
試合が始まり、終わるまで途切れることなく演奏し続ける。
 日産自動車はチア・ガールを使い、応援歌のテープを流して
雰囲気を盛り上げた。

 読売クラブは1969年に創部され、実業団中心の当時では珍しい
クラブ・チームだった。所属する選手は、それぞれ職業を持ち
生活を支えた。日本代表の主将である加藤久は
早稲田大学で教壇に立っていた。いつでも試合会場には
「がんばれ加藤久先生」という横断幕が掲げられていた。
 その他の顔ぶれは日本代表の松木安太郎、都並敏史に加え、
ジョージ与那城(後に帰化し与那城ジョージ)と
ルイ・ゴンサオフィス・ラモス・ソブリーニョ(後に帰化しラモス瑠偉)
のブラジル人がいた。ストライカーの戸塚哲也は、この年の得点王。
さらに新星、上島康夫。

 日産自動車は1972年に日産鶴見工場の同好会を
母体として創部。2年後に加茂周(後に日本代表監督)を監督に迎え
5年後に日本リーグ1部に昇格。1983年に柱谷幸一、水沼貴史らの
将来を嘱望された新人6人を大補強。これで一気に強豪の仲間入り。
すでに活躍して代表入りしていた日本が誇るフリーキックのスペシャリスト
木村和司と独特のフェイントがキンタ・ダンスと名付けられた
金田喜捻が中心選手。アデマール・ペレイラ・マリーニョも渋く貢献する。

 試合は3対0で読売クラブが攻撃サッカーの真髄を見せた。
上島が大活躍し圧倒的な勝利だった。強いチームに憧れる年頃。
サンバのリズムに乗せた華麗な攻撃サッカーは
少年だった私に、この世で一番の魅力となった。
それからは夢中で観戦に行った。
それでも当時の観衆は5千人程度。多くても1万人くらいだった。

 中学に入ると、同じクラスに読売クラブの下部組織である
読売ジュニア・ユースに所属する男が同じクラスにいた。
こんなにサッカーが上手い奴は初めて見た。
ラモスや与那城は練習が終わると一緒にボールを
蹴ってくれるという。友人でありながら雲の上の存在で
読売クラブへの思いは増すばかりであった。

 その後何年か経つと、サッカー人気も少しずつ上がり
カズ(三浦知良)がブラジルから帰国して読売クラブに入団すると
観衆は急に増えた。プロ化してJリーグが始まるとチーム名は
ヴェルディ川崎(以下V川崎)になった。武田修弘、北沢豪らのアイドル選手は
誰もが知る存在になった。
日産自動車も横浜マリノスとなり、記念すべきJリーグ開幕戦は
10年の時を超え、屈指の好カードとなった。
アマチュア時代である1987年の日本リーグでの勝利を最後に
V川崎は長い間横浜Mに勝てなかった。試合は2対1で横浜Mの勝利。
その連敗記録は、その年の11月に武田のVゴールで終止符を打つ。

 Jリーグの人気が絶頂となり、チケットは入手困難に。
私の思いは冷めていく。観たい試合が観られないのだから。
 そして私は浮気をした。アマチュア・リーグのJFLなら満員に
なることは無い。川崎を中心に活動をしていた実業団の東芝の
サポーターとなった。観に行く機会が増えた。
しかし、このチームはコンサドーレ札幌となり
川崎を去ってしまった。さらに彷徨い、東京ガスの試合にも
足を運んだ。このチームはFC東京となりJリーグに昇格した。
するとどうだ、ヴェルディ川崎が東京ヴェルディ1969と名前を変え
東京に移転したのだ。FC東京と東京ヴェルディ1969。
東京を本拠地にする2チームは「東京ダービー」
と呼ばれる一騎打ちをすることになる。

 このカードを始めて観たとき、私は帰るときが来たと感じた。
浮気をしても結果が気になって仕方なかった。
観衆は全盛期と比べ激減。満員になる試合など、ほとんど無い。
ラモスは引退し、カズも移籍した。アイドル選手など、もういない。
低迷。優勝争いどころかJ2降格の危機にさらされる。
もう大人だ。強いチームばかりに憧れる時代は終わった。
苦しくても、悔しくても支えていたい。川崎を飛び出したことで
非難を浴び、東京に移転したら既に強力な先客がいた。
現在の東京Vが以前のように集客し、注目を集めることは
非常に険しい道のりだ。紆余曲折したおかげで、すっかり
浮いた存在になったことは充分承知している。

 横浜Mは横浜フリューゲルスと合併し、横浜Fマリノスとなった。
そして強かった。もはやライバル視などできない存在。
トリコロールのユニフォームを見ただけで勝てない気がした。
 横浜在住だから、横浜Mのファンだと思われていたかもしれない。
しかし寝返ることは絶対にできない。どうしても勝ちたい相手だからだ。

 東京Vは若手が順調に育ち、ベテランとの融合で
少しずつ輝きを取り戻している。知将アルディレス監督のプランが
形になりつつある。今年の元旦、天皇杯決勝でジュビロ磐田を
2対1で下した東京V。試合終了の瞬間、選手達は泣いていた。
「WE ARE BACK!」と書かれた
優勝記念Tシャツを着て観客の前で飛び跳ねた。
本当に強くなって戻って来たのか証明したい。

 横浜Mも岡田監督の下、ケガ人は多いがバック・アップの選手も揃っている。
数ヵ月後、ベスト・メンバーを組んだら間違いなく強い。

 このカードを生で観戦できる喜び。
明後日、21年前の少年に会いに行く。






Last updated  2005年02月24日 21時21分49秒
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2005年02月07日
カテゴリ:サッカー
 今日はサッカーの話。

 今回はこの話題しかないだろう。
2日後に迫った決戦、2006年ドイツW杯最終予選B組
さいたまスタジアムで行われる日本対北朝鮮。
まだまだ先だと思って、この話題も先延ばしにしていた。
しかし、会場では既に行列が出来ている。
明後日の19時半、泣いても笑ってもキックオフ。
試合の予想や、期待の選手のことは他の人が
書いているだろうから、私は20年前の話を書こう。

 手元に1冊の雑誌がある。
サッカーマガジン 1985年6月号
85-4

 20年前にも同じ対戦があった。1985年3月21日(祝)
1986年メキシコW杯予選アジア第4組サブグループB
日本対北朝鮮。

 現在のW杯本大会には32チームが出場できる。
しかし、20年前は24チーム。アジアからは僅か
2チームという狭き門だった。
もちろん、日本は出場したことが無かった。
この試合は、現在の1次予選といっていいだろう。

 小学生の私は贔屓にしていた読売クラブ(現・東京V)
の選手が出ると聞いただけで、観戦を決めていた。
当時は当日券が充分あった。しかし当日は朝から雨。
早春3月の陽気では無く、寒い日だった。
父に行き先と目的を告げると
「ひとりではダメだ。俺も行く」
と厳しい顔でいった。サッカーくらい一人で行ける
年頃である。それなのに父がなぜそんなことをいったのか。
それを理解したのは大人になってからだ。
つまり対戦相手の北朝鮮とは、そういう国なのだ。

 小雨の降りしきる東京・国立競技場。
観衆は日本リーグと比べたら、かなり多い2万5千人。
しかし、この試合に意気盛んに駆けつけたのは
日本人よりも在日朝鮮人の方が多かった。
日の丸より彼等の国旗の方が目立つ観客席。
私達は運良く屋根のあるメイン・スタンドを確保した。
対面するバック・スタンドには雨に打たれながら
同じ言葉を連呼する集団がいた。
当時は何といっているのか解らなかったが
おそらく「イギョラ!イギョラ!」(ハングルで「勝て」)
と叫んでいたのだろう。日本人は全体の僅か
3割程度だったという。

この日の日本代表。率いるのは森孝慈監督。

GK 19 松井清隆(日本鋼管)
DF  2 加藤久(読売クラブ)
    4 石神良訓(ヤマハ発動機)
    5 松木安太郎(読売クラブ)   
    7 都並敏史(読売クラブ)
MF  8 西村昭宏(ヤンマー) 
    10 木村和司(日産自動車)
    13 宮内聡(古河電工)
    12 水沼貴史(日産自動車)
FW 15 柱谷幸一(日産自動車)
    14 原博実(三菱重工)    

交代 75分 20 平川弘(順天堂大)
           ⇔木村

 国立競技場の芝生は薄茶色に枯れていた。
さらに長雨に打たれ無数の水溜りが出来ている。
今では考えられないが、当時は普通だった。
ヨーロッパの選手が来日した際、芝生を見て
「これがナショナル・スタジアムか?
ここでサッカーができるのか?」
と呆れていたらしい。
  
 試合は序盤から北朝鮮が攻勢に出る。
これを懸命に防ぐと、徐々に日本もリズムを作り出す。
そして20分、パスカットした西村が前線にロングフィード。
これが北朝鮮ゴール前に出来た水溜りに落ちボールの
勢いが止まった。普通なら転がってGKがキャッチできる。
DF陣も棒立ちとなっていた。
それを見逃さなかったのは原博実(現・FC東京監督)
だった。ボールを浮かし、慌ててスライディングしてきた
DFをジャンプ一番でかわすとGKと1対1。
倒れこみながら右足でGKの脇をかすめる丁寧なシュート。
日本先制!神が、天気が味方した。
 得意のヘディングでは無く、足で決めた原。
他人のゴールで珍しく喜ぶ、司令塔木村。
どちらも長い間語り草となるシーンだ。

85-3
85-1

 止むことを知らない雨の中、後半戦。
気迫むき出しの北朝鮮が日本ゴールを襲い続ける。
しかし、この試合で守護神の名を欲しいままにした
GK松井の好守で得点を許さない。
日本DFも身体を張って苦しい場面を凌ぐ。
当時の白に青く細い縦縞のユニフォームは
試合が終わる頃、泥だらけになっていた。

85-2

 試合終了。日本勝利。
森監督に駆け寄り抱擁する泥だらけの英雄達。
スタンドに残る少ない日本人に両手を突き上げたのは
このチームの主将、加藤久だった。

85-5

 その後、この予選を勝ち抜き
2次予選で香港を退けた日本は
最終予選で韓国と対戦。結果は2連敗で
夢のメキシコには届かなかった。
(この試合については、いずれ詳しく・・・)
 それでも、この試合の想い出が色褪せることはない。
寒くて震えながら父と観戦した私は
家に帰って何度も試合のビデオを見た。
だから今でもここまで書けるのだ。
そのビデオテープは現在行方不明だが
心のハードディスクに鮮明なまま保存してある。
そして、この試合を特集したサッカーマガジンは
20年経った今、ボロボロになっている。
それでも死ぬまで宝物だ。
 
 拉致国家よ、日本のサッカーをなめるな。
お前らのハートを、へし折ってやるぞ。

 日本よ、勝て、そして力を見せつけろ。
ドイツへの切符は俺達の物だ。渡さない。
 
 明後日、20年前と同じように勝利することを信じて。






Last updated  2005年02月07日 22時24分12秒
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2005年01月23日
カテゴリ:サッカー
 今日はサッカーの話。

 本日はフットサルの大会に出場した。
時折小雪が舞い散る肌寒い気温。
ユニフォームの上にジャンパーを羽織っても
寒がるメンバーをよそに、私は先日の日記で書いた
アンダー・アーマーを着ていたので驚くほど
寒くなかった。

 午前9時30分、横浜市戸塚区にある施設に到着。
すると、隣に芝生のサッカー練習場があった。
これが昨年のJリーグ・チャンピオンである横浜Fマリノスの
練習場である。

 午前10時、大会が開幕し2試合を終えチームは2連勝。
なかなかの好スタートだ。
そして休憩時間、私は自動販売機へ向かっていた。
するとマリノスの練習場の片隅にギャラリーが5人ほどいた。
「やっぱり背が高いなぁ」
そんな声が聞こえてきたので近寄ってみた。
背が高いって中澤は日本代表の合宿中だし
一体誰のことだろうか。

 するとタッチ・ラインの外側をトレーナーとランニングしている選手がいた。
久保だ!国際Aマッチ17試合出場2得点、昨年の上半期は
ジーコ・ジャパンのストライカーとして活躍した“ドラゴン”久保竜彦である。
椎間板ヘルニアのため10月17日の試合以降、長期離脱中の彼は
黙々とランニングをしている。

 チームのみんなに知らせなきゃ!私は小走りで駆けていった。
「久保がいたぞーーー!」
「なにぃぃ??」
子犬のように寒くてブルブルと震えていたメンバー達は全員立ち上がった。
やはり今年も日本代表で期待されている選手だ。
皆、ひと目みようと走り出した。
「おぉ本当だ!」
金網越しだったが、タッチ・ラインの外側を走っているので
かなり至近距離までやって来る。

誰かが何かをいわねば・・・・・。

 そんな空気が流れていた。
もちろん怪我を治すために頑張っているのだから激励である。
皆それぞれ小声で話し出した。
久保との距離はまだ100mほどある。

頼むぞ!とか?」

「もっとひねってよ」

「やっぱりぼくくぼ!でしょ」

「笑ってくれねーぞ」

泥棒!は?」

「怒るって!」

大久保頑張れ!は?」

「それも怒る」

「じゃぁ小久保今年も30本!は?」

「それは笑うかもな」


 
 
 万事がこのような状態である。
久保との距離は30mまで縮まった。
さぁ誰が口火を切るんだ?
私は見た。さぁいうぞ、と静かに意気込む男を。
我がチームのジャック・バウアー(仮名・日本人)君である。
彼は何があっても諦めないし、死なない。
そして無理難題も24時間以内に解決する男だ。
こんなに勝負強い男はいない。
きっとドッカンと盛り上げてくれるだろう。

 来た!もう久保はすぐそこだ。
さぁ、ジャックよ何を出してくるんだ?


「ドラゴン頑張れー」

・・・・・・・・えっ?普通じゃん。

私達を含めたギャラリー全員が凍りついた。
そして久保はどうしたか。

「・・・・・・・・・・・・・」

完全無視。チラリともこちらを見ない。


 久保はインタビューが苦手で有名な寡黙な男である。
そんな掛け声にニコリと笑って手を振ったら逆に気味が悪い。

「なんだよ、久保・・・・・」
ジャックは腑に落ちない様子だった。
早く怪我を完治させ、日本代表を2006年のドイツW杯へ導いてくれれば
ジャック・バウアー君も今日のことは忘れるだろう。


 結局我がチームは全7試合(7分ハーフ)で5勝2敗。
成績は不本意な15チーム中4位で終わった。
ジャック・バウアー君は7試合で6得点と大暴れしたことを
彼の名誉のために書いておこう。

kubo
期待してるんだよ、本当に。






Last updated  2005年01月23日 18時31分14秒
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2005年01月13日
カテゴリ:サッカー
 今日はサッカーの話。

2006年ドイツW杯アジア最終予選を1ヶ月後に控え
メディアではライバル国の分析が熱を帯びる。
 それと同時にJリーグの移籍情報が頻繁になる。
今はネット経由で素早く知ることが出来るが(ガセネタもあるけど)
昔は毎朝届く新聞だけが頼りだった。
まだ少年だった私は言葉を失うくらい驚いたり
開幕が待ち遠しくなるくらい喜んだりしたものだ。
高額な移籍金が発生する移籍
契約を打ち切られた選手が他チームに受け入れられる移籍
移籍といっても様々なケースがある。

 所属チームを解雇されても移籍できる選手は、まだ良い。
目立った実績を残せず、トライアウトでも
アピールできなかった選手は引退という二文字が圧し掛かる。
 少年時代からサッカー漬けで生きてきた人間から
サッカーを奪うということは、どんなことか。
それは一般人に対して
「明日からこの仕事をやめて全く違う職種を探せ」
という通告のようなものだ。むしろそれより厳しいだろう。
蓄積されたものにリセット・ボタンが押される。
アルバイトの経験すら皆無のサッカー選手が
社会の荒波に放り出される。
引退して解説者、指導者になれる人物は
ある程度名前が知られているか
人格が抜群に秀でているかの一握りの存在であり
20代前半の若者には無理な話だ。

 昔、静岡の友人に聞いた話だ。
中学、高校の名門サッカー部で常に脚光を浴び
将来は日本では収まらず世界に出ると期待された選手がいた。でも5年経った今の彼は靴屋の店員をしているという。
王国静岡では珍しい話では無いという。

 プロになることは険しい道のりの連続だ。
やっと飛び込んだプロの世界は、さらに厳しい。
 だからこそ、選ばれた人間は夢を掴めなかった人の分まで
戦い抜かなければならない。思いを背負って。
 
 日本代表。日の丸を着けてプレーできる選手は
1億2千万人の代表。
日本のサッカーが成熟に向かう今
1ヵ月後のピッチに立つ11人に不甲斐無い
戦いぶりは許されない。そんなの当たり前だ。 






Last updated  2005年01月14日 23時46分09秒
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