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生畑皿山通信










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こんにちは、京都にあるやきもの工房生畑皿山窯の陶工 前野直史です。
やきもの暮らしの様々を綴っています。


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2009.07.31
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カテゴリ:かんがえごと
 かつては地方固有の多種多様なやきものの技術体系が存在していたことは今に残された当時の品物を見ればはっきりしたことですが、今では地域間の交流が進みまた大学や専門校で学び、あるいは雑誌やネットなどから学んで独学でやきものに取り組む人も増えてくるなかでだんだんとそれは公約数的なものへと収斂していっているように感じます。つまりはこういうある意味自由な時代に個人個人が自由な立場でやきものに取り組んでいるようでいて、現実には一見色やかたちは違うもののその陶磁器としての骨格のところに目をやればそれを支えている技術の基盤はあんがい劃一的で似たようなものであり、かえって無個性なものになりつつあるようにも思うのです。
 問題は作り手の側だけではないのでしょう。あるいは別の視点から言うならば、特にこういう事情の中でものが作られている現代では作り手というのもただ普通の意味での作家だけではなく使い手やそれを扱うお店や情報を紹介する雑誌などのメディアも含めてそういう全体で作っているのだと言ってもよいでしょう。使い手にとってもまた情報の共有は国さえ越えていますし、長距離輸送があたりまえである現代にあっては地域差よりもむしろ時々の流行に左右されて同じようなものを求めるきらいがあるようにも思われます。
 画一的な工業製品の中でそのアンチテーゼとして出て来たのでしょうあの嫌みなくらいに手作り感を強調した桃山風のでこぼこ趣味の穴窯焼き締めのものがようやく流行らなくなったと思えば、次には白磁が流行ってうつわのお店は白磁だらけ、白デルフトが脚光を浴びればああいう白無地の作家が増えて、スリップウェアが流行れば今度はそんなものばかりが脚光を浴びるというようなことです。そんなふうに流行が消費されているのはうつわの世界も他の多くの商品と変わりはないのです。
 土地に固有の陶脈を受けていない立場の作陶家は外とのつながりが遮断されていない限りはそういう流行の中に在らざるを得ないのです。流行に乗らないで自分の好きなものを求めるという姿勢もまた非常に現代的で、そういう在り方自体がひとつの大きな潮流であることは言うまでもありません。流行というのはそこに時代の必然性はあっても根っこが無い。
 ぼく自身はそういう中でさえ何百人にひとりの窯からでもいつか良いものが生まれてくることを信じていますし、自分自身も少しでも良いものをとは願っています。

 しかし一方だからこそ土地固有の古い技術を受け継ぎえる立場にある人たちはぜひそれを大切に守って次代へと受け継いでいって欲しいのです。自分の仕事が一万年も前からの縄文以来の伝統を未来へと繋ぐ大切な過程なのだという歓びを自覚してほしいのです。やきものの作り手も現代にこれを痩せ細らせてしまってはいけないという責任を感じてほしいのです。
 もっとはっきりと具体的に言うならば最初から簡単に京都の学校に行って轆轤を学んではいけないと、そういうふうなことです。自分が知る限りはあれは洗練されたひとつのやり方ではあってもその洗練の過程で抜け落ちあるいは切り捨てたことの中にはうつくしいものの誕生にとっては代えがたい必然性のある技術体系が多々含まれており、また将来の日本の陶磁器をより豊かで多彩なものにするはずの無限の可能性があるのです。それなのにそこを出発点にするということは、すなはち先祖伝来の財産を最初っから捨てさるということなのです。
 他から新しいことを学ぶことも、より合理的なほうへと進むのももちろんただ批判すべきことではないとは思うのですが、他からの知識や技術を受け入れる前に身につけた確たる自我を持ち得ないならばそれらを相対化して理解し受容することは出来ません。
 今までの非常に豊かなやきもの文化を支えていた多種多様な技術体系が洗練されてはいても痩せっぽっちなものへと一本化されてゆくことに大いに疑問があるのです。新庄、楢岡、小久慈、信楽、丹波、母里、小鹿田、多々良、小代、薩摩、壺屋、などなどほかにもまだまだいくらでも日本各地にはそれぞれほんとうに素晴らしいやきものをこしらえてきた土地があります。こういうところのやきものを支えた技術は現代の学校で教わるような陶芸課程からは既に失われたものなのです。それはしばしば時代遅れなものになりつつあるでしょうが、同時にまだまだ将来に受け継いで活かすべき内容があると思うのです。情報の中核であるマスコミの方も、優れたものを選び出し使い手へと紹介するうつわ屋さんの方も、うつくしいものに出会いたいと願う使い手の方も、もちろん作り手の方も、どうか今にも失われようとしているそういうものにもっともっと目を向けて下さい。そして気が付けば何か行動を起こしてほしいのです。こんなことは一介の作り手である自分のような立場のものが言うようなことでもないという批判もあるでしょうが、こういう危機的な状況である以上は言っておかねばならない責任があります。
 また同時に、これはぼく自身もそうですが伝統工芸の受け継ぎ手ではない立場で何かうつくしいものに魅かれて仕事をする人はぜひそのものが生れてきた背景にも注目して失われようとする技術を再評価し、またすでに失われた技術を掘り起こして新しい時代に甦らせて欲しいのです。民族の歴史や土地の暮らしとそれぞれの製陶技法や固有の原料を両親としてやきものは産まれてきました。そういうことを抜きにしていったん失われたものをそのまま取り返すのはなかなか困難なことですが、個人個人が陶芸というようなものに打ち込める現代であればこそ、それも同じかたちではないにせよ決して不可能なことではありません。作陶家というのは過去の作品をなぞることによってその生産過程を追体験することが出来ます。そしてそこから歴史や暮らしぶりや技法の陶脈や原料の種類まで想いを馳せることは出来るはずです。それは必ずしも完全なものではないにしても、さらにそれを修正しながらより確実なものへと仕上げてゆくことが出来るのです。
 過去の技術は価値の無いものではないし、またそれを守り伝えることはやりがいのある仕事です。工芸は偶然の所産ではなく長い歴史を積み重ねた技術の上にこそ成り立っています。

 例えば日本には朝鮮時代のやきものを愛する人は少なくないのですが、明治政府の朝鮮総督府による朝鮮半島統治に端を発していまなおひとつの民族がふたつの国に分断されているという不幸な現実や、日本との間にある政治的あるいは人道的な様々な問題についてまるでこころを痛めることも無く無関心でいる愛陶家や作陶家を自分は信頼しません。朝鮮のやきものがうつくしいと感じたならば、それがどのようにして産まれて来たのかということは考えられなければならない問題です。それを産みだした土地や民族に対する敬念が無いならばそれは想像力の欠如と言わざるを得ないでしょう。
 またぼく自身がそうであるようにスリップウェアを学ぼうとするならば、美術館や個人の所蔵するスリップウェア自体はいうまでもなく、陶片や出版物などの資料、何人かの情報を交換しあえる研究者や作陶家や愛陶家の先達や友人たち、それにまた未だ出会ってはいない未知の友人たちもきっと少なくないことと思います。スリップウェアの縁で繋がる人たちはあの美の世界を知っている以上はそれを将来に繋げたくないわけは無いのです。どこでどういう人たちによってどのように産みだされそれがどのように使われていたのかということに想いを巡らせることは出来ないわけが無いのです。
 そういうことの積み重ねはきっとやきものの成立をより立体的に実感させてくれることでしょう。そこで見えてきたことをただそのまま再現するかどうかというのはまた別の話しです。当たり前のように言われることですが、伝統というのは絶えず新しく作り続けられるものなのです。いったん受け取ったものは捨てようとしても捨て切れない、忘れようとしても忘れることは出来ない、そういう身体にしっかりと入り込むものなのです。
 朝鮮の?と同じものを焼く、英国のスリップウェアと見分けがつかないものを作る、それは確かにうつくしいでしょうし技術者である作陶家にとってはなんとも魅力的なことには違いないのですが、それが成立するだけの必然性も存在意義もすでに当時の彼の地とは全く違うものなのです。そこでやきものの色つやかたちだけが同じものを作ると、仮にもしそういうことができるとしてもそんなことに果たしてどれだけ意味があるのでしょうか。現代の状況の中でただ精一杯誤摩化しの無い仕事をすることが大切なことではないかとただそのように想うのです。
 別にこれはやきもの作りに限ったことではないのですがどのような言動や行為であれ自分自身をよりよく成長させないならば価値はありません。さらには他者を認め尊敬し多様な価値を受容したら他我の境を越えてすべてを清浄なものにして返さないのならば生きている意味が無い。真面目に一生懸命取り組むということそれ自体が個人の人生で、個人の生涯が民族の歴史の欠かせないひと駒で、民族の歴史が人類の宝物であるというようなことを自分は信じています。日々両手で抱きくちづけしているその御飯茶?がうつくしいものであるということにはただそれだけにとどまらない意味があるはずだと想っています。だからこそこの釉薬が美しい、というようなほんのちょっとしたことが大切なのだとも想うのです。




・・・・・



 先日別のところに書いた文章を受けて現代の個人と土地固有の伝統の関わりについて作陶家の立場でもう少し考えてみました。それは簡単な問題ではないようにも思うしまた逆にわかりきった答えであるようにも思えるのです。











Last updated  2009.08.01 02:21:21

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