四つ目のカブラル
最近、カトリックの総本山バチカンで戦国時代の日本に関する貴重な資料が公開された日本を訪れた宣教師達の記録である記録のはじまりは1549年 まさにスペインのフランシスコ・ザビエルが来日した年にあたる宣教師達は世界をキリスト教の国にする使命を担っていた日本でも極秘の諜報活動をして、各地の日本人キリシタンから政治情勢についても情報を得ていたその情報網を取り仕切っていた宣教師が、フランシスコ・カブラルザビエルから数えて四代目の宣教師の首長日本では、四つ目の伴天連、四つ目のカブラル、とも言われていた当時、メガネをかける人間が日本にはいなかったので、メガネをするカブラルが四つ目に見えたのだとかカブラルは布教の拡大を図るために、各地の戦国武将との接触も試みていたそのなかで、最も有力な候補者と考えたのが織田信長であった信長はもともと弱小国の部署であったが、鋭い判断力と慎重さを持っていた、と記録には記されている1572年、カブラルは初めて織田信長の屋敷を訪れるカブラルが「信長殿に布教活動の後押しをしていただきたい」と言うと信長は「考えておこう」と答えたその3年後に 長篠の戦い が起こった長篠の戦いは、信長の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦い、というふうに言われているが、武田の古文書によれば武田軍も鉄砲を使用していたらしい長篠の戦いは実際には 鉄砲vs鉄砲 の戦いでもあったのであるでは戦の勝敗を分けたのは何だったのか近年、出土した信長軍の鉄砲隊の弾は、科学的分析によりタイ国の鉛でできていたことがわかったつまりは海外産だったのだしかしタイは日本から4000キロも離れているどうやってタイの鉛を日本に持ち込んだのだろうかバチカンの宣教師の記録によると、タイの鉛はカブラルの命によって日本に運ばれていたことがわかったカブラルは布教を後押ししてもらうために、信長への多大な軍事支援を行っていたのだ宣教師たちはなぜそこまでして布教活動をしようとしたのかその背景には、世界の覇権をめぐる争いがあったヨーロッパのキリスト教勢力と、オスマン帝国に代表されるイスラム強の勢力との争いである1571年 レパントの海戦で、キリスト教勢力がイスラム教勢力に勝利したその勢いから、キリスト教勢力は全世界を支配下に置こうとしていたインド・ゴアでは武力で制圧し、国民を強制的にキリスト教に改宗させることもした改宗を徹底させるために拷問まで行われたとか抵抗するものは柱に縛りつけられ鞭で打たれ、手首を切り落とされることもあったらしい日本の宣教師達にとって最大の障壁となるのが仏教勢力であった「日本の坊主たちはキリスト教の最大の敵だ」という記録がバチカン文書に残っている特には石山本願寺がキリスト教の布教にとって大きな弊害であったと同時に、信長にとっても厄介な存在であった石山本願寺の隣にある大阪摂津の領主は、高山右近というキリシタン大名であった宣教師は高山右近に信長側に味方するように働きかけた 1578年それによって戦局は変わる右近を中心に、一万人を超えるキリシタン勢力が石山本願寺に相対することとなったこれにより信長は石山本願寺勢力を制することができた高山右近はスペインの聖イグナシオ洞窟教会の壁画に、キリスト教に身をさ捧げた人物として、フランス国王、スペイン総督の隣に描かれているカブラルは信長をキリシタンに改宗させようともしていたそうすることで日本人は素早くキリスト教に改宗できるだろうと思っていたカブラルは信長に言った「ゼウス様のみが国を支配する力がある 天下統一を望むなら、デウス様に仕えるのです」信長自身は改宗しなかったが、一族や家臣がキリシタンになることは認めた信長の真意とは?バチカン文書にはこんな記録も残っている信長と秀吉との会話秀吉いわく「宣教師たちは秘かに征服計画を進めています」これに対し信長は「案ずるな やつらの野望にはまだ時がかかるであろう」と応じた信長は宣教師の計画を察知しながらも、軍事物資を得るために手を組んでいたと考えられるキリスト教勢力の力の増すことが秩序を乱すリスクではあったが仏教勢力に対抗する駒とみてそのリスクに目をつむっていたのだ続く・・・NHKの番組より要約