田口ランディ「坐禅ガール」
坐禅ガール [ 田口 ランディ ]<内容紹介より>薄幸の美女りん子に救いを求められた四〇代の作家よう子。心を閉ざしたままのりん子をもてあましていた時、アメリカからやって来た女性の禅マスターに導かれて坐禅をすることに。二人の内面が交差し、失われた恋や、家族の死、コンプレックス、若さへの執着…女の悩みが露呈していく。心には煩悩が渦巻くばかり。足の痺れの先に、光は見えるのか。この著者の作品は初めて読みました。表紙は大事ですね、人間でいう顔と同じで第一印象。少し前に流行った(今も?)〇〇ガールという言い方若い子がふとしたきっかけで坐禅にのめりこむ。坐禅ってね、実はこういうものでね・・・といった話を想像していました。坐禅は堅苦しそうだけれど、活字も大きくてサラッと読めちゃいそう。すらすら読めるのは違いなかったけれど、思ったよりも重い話でした。30代前半のりん子と40代半ばのよう子。コンプレックス、深い後悔、受け入れがたい自分。りん子が利用したテレビ番組、よく覚えています。興味深くも他人事で自分だったらここではやらない。他人の目が気になるのなら、ここでは出来ないよと出演する女性たちの気持ちが理解できなかったな。理解できないといえば、よう子の気持ち。心も身体もまだ若い、40代で結婚する女性も増えている。だから結婚していても疑似恋愛とかときめいていたい、女性として認められたい。そういう気持ちはわかるけれど、結婚していながらいわゆるデートをしたり、男性と抱擁とか肉体関係がなくても、なんか後ろめたくない?その男性が若い女性と再婚すると知ってショックを受けたりなんて理解しがたいのだなーーー身体が固い私には坐禅は足を組むことすらできず縁がありません。煩悩を捨て心を無にする。身体が動くとピシッと僧に尺でたたかれる。テレビで観光客がお寺で坐禅をして「すっきりしました。無になれました!」なんていうのを聞くと、本当かしら?と思ってしまいます。本書の中で坐禅を指導するアイリーンはアメリカ育ち、日本人とのハーフで元キャリアウーマン。坐禅は僧や男性だけのものではない。もっと大らかで坐禅に対するイメージが和らぎます。身体が固くて足を組めなければ片方だけでも足を伸ばしたままでもよい。考えることをやめなくてよい、あるがままでよい。坐禅中に何か考えてしまったら、何を考えているのか観察して。自分はこんなことをいつも考えているのかと観察者になればよい。昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分は違う。これは坐禅に対する見方が変わり少しハードルが下がりました。でも、私が挑戦することはなさそうだなーー