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カテゴリ:寺社
東海七福神を制覇しようと出かけた1月31日……
石造烏居……慶安元年(1648年)三代将軍徳川家光公の側近・堀田正盛公の奉納。この鳥居は都内では上野東照宮に次いで二番目に古いものだと。(品川区指定有形文化財) 参勤交代の仕組みを作った徳川家光。武器、衣装、食事や宿泊など、かかる現在の億単位の行列費用は、ぜんぶ諸大名の自己負担。大金を使わされる大名たちは謀反どころではなかったらしい。抑えつけて全国支配を固めていったのが家光でした。家光が武家諸法度で参勤交代を定めた1635年は、こう覚えるんだって……「重労働(16)だ! 参勤交代(35)」 石造烏居の左に……背後の木との関係は不明だけど…… 品川ネギとカブ…… 『品川は江戸湾に面し、中世以来の港町、宿場町として栄え、町をささえる漁業や農業も盛んでした。とくに、農業は、目黒川、立会川流域の低湿田地帯と荏原台地に広がった畑地で、年貢のための稲作を中心に麦や雑穀を作る粗放的農業が行われていましたが、野菜は荏原郡の中でも最も早く産地として発展しました。 江戸にネギが入ったのは天正年間(1573〜92年)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。 また、文化元年(1804年)に著された『成形図説』には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、戸越のタケノコが名産として記されています。 その後、江戸市中へ出荷する野菜の生産地は江戸市街地の発展により、大井、大崎地区を中心に移っていきました。』JA東京グループが、農業協同組合法施行50周年記念事業として、平成9年(1997年)に東京都神社庁などの協力によって、農業にゆかりのある神社などに「江戸・東京の農業野外説明板」を都内50ヶ所に設置したとのこと。 「居留木橋カボチャ」の説明版が先日行った居木神社にありました。駒繋神社の「陸稲(おかぼ)の藤蔵糯(とうぞうもち)」も見つけたけど、明治神宮の「代々木野と周辺の村落」ってのは気付かなかった……トホホ 神楽殿……当神社では、慶長5年、徳川家康が関が原の戦いに出陣の際に勝利を祈願して奉納したと伝えられている神楽「太太神楽(だいだいかぐら)」が有名だと。もともと二十座あった舞を、現在は十二座を「品川神社太太神楽保存会」が継承しているらしい。古くは、品川神社の宮司家に相伝として受け継がれてきたもので、大正初年までは神職によって奉納されてきましたそうです。神楽殿ではなく拝殿で舞うようです。《東京都無形民俗文化財(民俗芸能)》 祖霊社……3月下旬には「祖霊社・忠魂碑慰霊祭」が行われます。『祖国日本の国の為に尊い命を捧げた英霊の御魂を慰め永遠の平和を祈り、祖先に感謝をします。(同社HPより)』 砲弾型には「忠魂碑」と彫ってあり、乃木希典の書のようです。日清・日露戦争の戦没者慰霊のため、明治四十三年(1910年)四月に品川町在郷軍人会が東海小学校校内に建立したが移転を繰り返し、最終的に終戦五十周年記念事業(平成7年・1995年)として品川神社が引き取って慰霊を行っているそうです。私が歩いたどこの神社の鎮魂碑も、ほとんどが乃木将軍の銘が入っていました。 祖霊社扁額…… 1月31日だったのに、紅梅がきれいだった。 社殿前から右方向…… 阿形で子供を抱える右の狛犬……明治7年3月奉納 左は吽形で背中に子供を乗せながらもう一匹抱えていました。 訪問した際は多くの参拝者がおいでだったので「社殿全景は後でいいや」と思ったのが大間違え。忘れてしまい、結局、今日のトップの写真しかありません。こんなアングル撮っても仕方ないのにね~ 『今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187年)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。(同社HPより)』古いですね~ 昭和39年(1964年)に現在の社殿が再建され、令和2年(2020年)に天皇陛下の御即位を奉祝して「御大典記念事業」として社殿の修復が行われたと。 社殿扁額…… 御祭神は「天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)」 「宇賀之売命(うがのめのみこと)」 「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」 創始以降、『鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478年)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。』とのことだから、一度にお迎えしたのではありません。 「太太神楽(だいだいかぐら)」は、こちらで舞われるのでしょう。 社殿の左方向……提灯には葵紋。徳川家から贈られたものでしょう。 『寛永14年(1637年)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694年)・嘉永3年(1850年)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる。』徳川将軍家の多大な庇護を受けたのでした。 手水舎水舟(水盤)も鳥居と同時に奉納されたもの。 手水舎の上の大きな絵馬……やっぱり葵の御紋 品川拍子は「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と、篠笛によって奏されるんだと。 神輿が描かれているってことは、慶長5年(1600年)に徳川家康公がお神輿を奉納された時のものでしょう。 水盤の角に坐禅するカッパ…… 足元には物欲しげな亀……「誰だ、五円玉置いたの」そんなの食べたら死んじゃうよ~ 宝物殿……徳川家康公が関ヶ原の合戦の後、勝利の御礼として奉納した「天下一嘗の面(国常立尊面・赤面さま)」が納められていると。室町時代中期に作られた、舞楽の演目の「二の舞」に用いられる面だそう。手水舎脇の絵馬掛けに掛けられた絵馬には、この赤面が描かれていました。 「天下一嘗の面」と同時に奉納され、明治時代に勝海舟が「葵神輿」と名付けた江戸時代初期の特徴が残る都内でも数少ない貴重な神輿も納められていると。太っ腹な徳川家康公…… 社務所……向こうに手水舎と宝物殿 社務所わきで一服させていただきました……ありがたやありがたや と言うことで今日はここまで……「いつになったら富士塚出てくるの?」って連れ合いに言われそうです。「一粒萬倍のご神水・阿那稲荷神社」の次だよ~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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