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きみちゃんの「名言集」と「写真展」

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2014.04.21
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おはようございます。
皆様お元気ですか。
きみちゃんの「マイ・ラブ・デイズ」
長編朝ドラ日記の愛読されれば幸せです。


Good morning.
How are you, everyone?
Today too "My Love Day's".
Please read "the morning drama diary of a long piece"!


 


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【マイ・ラブ・デイズ】
「計画開進…6」
二十四の瞳
二十四の瞳


 映画のワンカット撮影と選ばれた砂川小学校に、「二十四の瞳」がやってきた。校庭に木造平屋の長屋教室がセットされた。
 この『二十四の瞳』(にじゅうしの ひとみ)は、1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画である。昭和29年度芸術祭参加作品でもあった。
 日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒たちの苦難と悲劇を通して、戦争の悲壮さを描いた作品です。
 1952年(昭和27年)に発表された壺井栄の小説『二十四の瞳』が原作であり、この2年後映画が公開されました。なお、1987年(昭和62年)にも朝間義隆監督により再度映画化されたのです。
 昭和20年代から昭和30年代にかけて、日本の国民の最大の娯楽といえば、映画だったのある。昭和の映画全盛期がやってきたのである。
 日本での最初の映画は、明治時代であり、活動弁士の始まりでもあった。日本で映画が初めて公開されたのは、明治29年(1896年)11月25日の神戸神港倶楽部であった。輸入品のキネトスコープは日本人にとっては全く未知の装置であり、またフィルムもたいへん短いものであったため、映画を興行として成り立たせるためには、機械の説明をして、場を盛り上げる説明者が必要だった。この要求に応じる形で口上を述べ、弁舌を振るったのが活動弁士の元祖、上田布袋軒なる人物であった。
 その後約3ヶ月の間に複数の経路から映画が輸入されるのであるが、どの興行にも説明者が付いていた事実から、日本が「活動弁士」という特異な興行・芸能形態を確立する必然性を見て取ることが可能である。
 無声映画から昭和の戦後になると、映画に音声入力がされた。それでも映画自体は、白黒写真の動画でもある。
 音声が入るトーキーが普及するようになって以後は、活動弁士は不要となった。このため、大半の活動弁士が廃業に追いこまれ、その多くが漫談や講談師、紙芝居、司会者などに転身した。活動弁士には映画の解説を行う際に話術が高く要求されるため、その優れた話術や構成力がそのままタレントなどとなったのである。
 しかも、現在の平成時代では、一部ではあるが、活弁の語り口と浪曲の口調で見直しされ、イベントなどに採用されてもいる。

 私の映画に対する最初の切っ掛けが、小学校時代からであった。


~~~~~朝ドラ日記連載中~~~~~


ブルー・点滅ライン







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最終更新日  2014.04.21 06:02:56
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