カテゴリ:主義??
【作り帯でもうそつきでもいい】
いや~作り帯とか、うそつき襦袢の存在を知って、 私は感動した。 舞台の早変わりとかで、着替えを早くするために細工するとか、 そういうことはありだとしても、 日常の生活で、うそついちまおう、という感覚に♪ これでも説明が足りないな。 楽をする。 ということだけではないのだ。私の感動の源は。 そうまでして?? お太鼓ならお太鼓の形を維持する。 振りからちらりと襦袢の袖が見えなくてはいけない。 ということに感動したのデス。 半幅帯の方が、むしろわかりやすいじゃない? (どうせ折るんなら、最初から半分の幅でいいじゃん。という発想?) でも、外人に「ランドセルしょってるのか?」と聞かれたとか聞かれないとかいうあのお太鼓を。 ただ、帯が長くてじゃまっけなので、折り紙みたいに折りたたんじゃおう、 と思って始まったんじゃないかと私には思える、あの形を。 それよりか、めんどくさいなら、ベルトでいいじゃん、という方に、 なぜ行かなかったのか? うそつきの袖なんかなくても、筒袖のまんまでいいんじゃないの? (おうちの中だったら、それに近い着方をしてる人もいるみたいだけど。) 見た目、ですよね。 普通にしてるみたいに見えれば、楽してもいいんじゃない? と、すましてる感じ。 その、したたかさ? というか、生活の知恵というのか。 最初に考えた人はどんな人だったんだろう~? と想像がふくらんじゃって。 それに作り帯にもいろんな方式があって。 それもまた、いろんな人が、独自に手を抜く方法をこっそり考えていた、 そういう場面が目に浮かぶようで。 それからたとえば比翼。 重ね衿なんていうのも。 着物を重ねているように見せる。 なんでそう見せなきゃいけないのだ? その美意識。 それには、十二単につながる歴史があるわけで、 楽をする、手抜きをする、ということにも、 なんか深~い文化を感じてしまったりするわけだ。 すみません。なんだかつまらないことをくだくだと。 最後を「い」で終わらせたくて、書いただけだったんだけどね。 本当は。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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