きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

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科学・化学・考古学など

2019年08月30日
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3万年前の冒険 台湾→与那国島 丸木舟の45時間③ 残る謎 未来への一歩
台湾から与那国島に到着し、歓喜の瞬間を迎えた丸木舟チーム。
「とりあえず黒潮を横断してたどり着くことができた」と、海部陽介プロジェクト代表は実験航海が成功したと評価。今回は当時の技術として最も優れている丸木舟を採用しましたが、「3万年前の人がもっと原始的な舟を使っていたら、航海はもっとタフになる。それが想像できたという意味で学ぶことが多かった」と話します。
一方、未解明の謎として「ナビゲーション(航海術)の難しさが残る」と海部さん。「航海計画を立てるにあたり、(天気予報や地理的な情報など)現代の知識を入れている。それでも難しい。昔の人はどうやって行ったのだろう…」




航海する丸木舟チーム


こぎ手チームの7人。本番の実験航海に乗船したのは男性4人、女性1人。左から3人目が原康司キャプテン、同4人目が田中道子さん(写真はいずれも3万年前の航海プロジェクト提供)

丸木舟チームの原康司キャプテンは到着後に、GPS(全地球測位システム)で記録した航跡をみて「イメージ通り。ほぼ完壁だ。黒潮が思ったより遅かったが、必ず島が見えてくる確信があった」と話します。
黒潮を越える航海について原さんは「舟ができたことが成功だと思う。今回はコンディションが難しく大変だったが、天候さえ整えばまた行ける」と、自信をのぞかせました。
海部さんは、3万年前に大陸と陸続きだった台湾から琉球列島に渡った旧石器時代人について「丸木舟があったとすれば、日常的に使っていて操作はお手の物。台湾がホームグラウンドで地理感覚もあり、よく知っていたと思う。きょうは流れが速いとか、危ないから帰ろうとか、的確な判断ができたのではないか」と話します。
日本列島人の祖先が危険を冒して海を渡った動機も大きな謎。かじ取りを担当した田中道子さんは「成功したよりも多くの人が海で命を落としたと思う。それを越えてでも、何かを見つけたいという強い意志があったのだろう」。海部さんは「何度も危ない経験をして、行けるという自信があったのではないか」と思いを巡らせます。
もし3万年前にタイムスリップしたら航海するか。原さんは「難しい質問。到達したときの幸福感があるので行くかもしれない」。



大陸から日本列島への移入ルートは、①対馬②沖縄③北海道の三つ。今回は、台湾から島づたいに北上した沖縄ルートの最初の航海を再現したにすぎません。琉球列島では、石垣島、宮古島、沖縄島などで当時の人骨化石が見つかっています。宮古島から沖縄島に渡るには、見えない島に向かって海流に乗らずに200キロメートル以上航海する必要があります。
原さんは次の実験航海へ意欲満々。「ようやく日本列島人の最初のルーツがわかった。この先も深く知りたい。ルーツを知ることは、未来に向かって大事な歩みを始める第一歩。これからが本番。長い旅の始まりだ」
(おわり)

国立科学博物館(東京・上野)は9月8日まで、3万年前の航海プロジェクトの速報展示を開催中です。黒潮を越えた丸木舟「スギメ」の実物や、櫂(かい)、旧石器時代の石斧(せきふ)の複製、短編動画などを公開します。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月26日付掲載


今回の挑戦は、大陸から日本列島への移入ルートのひとつ沖縄ルートの最初の部分にすぎない。
これからが本番。次の実験航海にご期待を!






最終更新日  2019年08月30日 10時38分25秒
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2019年08月29日
3万年前の冒険 台湾→与那国島 丸木舟の45時間② 島の光!? 幻覚を見た
沖縄・与那国島をめざして台湾を7月7日午後2時半すぎに出航した丸木舟チーム。かじ取りを担当した田中道子さんは、台湾の陸地を振り返っては方角を確かめ、東をめざしました。「丸木舟は真っすぐ進まず、いつも振り子のようになっている」。ゆらゆら進む舟で、陸が見えないときは太陽、月、星を頼りに進み、太陽が高いところにあるときにはうねりの方向を参考にしました。
初日の夕方、北風で海が荒れました。三角波が立ち、丸木舟に海水が浸入。原康司キャプテンは「じゃぶじゃぶ入ってきて、これはまずいなと。普段の練習ならこの状態で引き返した」と振り返ります。本番の航海では2回までは転覆しても頑張ると決めていた原さん。「夜に転覆すると危険だ」と不安が頭をよぎりましたが、排水を続けてギリギリのラインでかわしました。




航海する丸木舟チーム(3万年前の航海プロジェクト提供)


※黄色は日中、赤紫色は夜

夜半から凪(な)いだ海で迎えた翌朝、西の雲の間に、台湾の陸地が思ったより近く見えました。原さんは「あまり陸から離れていないのではないか」と感じましたが、このころ黒潮の本流を抜けていたことが後の航路解析で判明します。
黒潮を抜けたころ、伴走船から見守っていた海部陽介プロジェクト代表は、丸木舟が一気に東へ進み始めたことで「いちばんハラハラした」瞬間を迎えます。「与那国島のはるか南側を通過してしまうのではないか…」
しかし午後、丸木舟の動きは、海部さんの心配とは違う展開に。東へ進んだ後、北へ、そして北東へと向かったのです。このとき丸木舟の原さんは、戦略通り与那国島を探す作業に入っていました。伴走船でGPS(全地球測位システム)を確認した海部さんは「いい方向に進み始めた」と一安心です。
午後8時ごろ、日没直後に雲が出て星が見えなくなりました。心配する海部さんをよそに、原さんは「全員休憩」の指示を出しました。このとき、丸木舟では「日中の暑さが半端でなく、こぎ手は疲労困懸(こんぱい)していた」と田中さん。
原さんの判断の裏にはある勘違いもありました。日没間際、島を探していた方角から明かりが見えたのです。このまま流れに乗って島に近づける、と思った原さん。しかし後の航路解析によると、舟は、島が見えるはずのない遠いところにいました。島の明かりは幻覚だったのです。
丸木舟チームにとって幸運なことに、このとき海の弱い流れが島に向かっていました。



3日目の明け方、見張り役が灯台の光を見つけました。与那国島から40キロメートル。舟は、3万年前には存在しない光の方に向かって流れていました。
空が明るくなると、丸木舟チームは島を覆う特徴的な雲をめざしました。そしてついに島影をとらえ、9日正午前に与那国島に到着しました。
海部さんは「航海で多くのことを学べた」と意義を強調しつつ、続けました。「いまだに頭の中では謎の部分が残っている」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月25日付掲載


与那国島はかなり近づかないと見えないけど、台湾の方はだいぶん離れてもまだ見えている。
その分の距離感をつかみづらい問題も。
今回は潮の流れとか幸運に恵まれたこともあったのですね。






最終更新日  2019年08月29日 07時53分27秒
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2019年08月27日
3万年前の冒険 台湾→与那国島 丸木舟の45時間① 黒潮越えへ練った戦略
「3万年前の祖先たちは、のほほんと暮らす“原始人”ではなかった。新しい世界を切り開いた開拓者だということを、プロジェクトを通じて発信できた」。7月、丸木舟で2泊3日かけて台湾から沖縄・与那国島に渡ることに成功した、国立科学博物館「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」の報告会見が日本記者クラブで開かれ、代表の海部陽介・人類史研究グループ長が、こぎ手たちとともに実験航海を振り返りました。冒険でみえてきたこと、そして残された謎とは―。(中村秀生)


与那国島に到着した丸木舟チーム(3万年前の航海プロジェクト提供)

「見事に舟を操って精神力と忍耐力と判断力でここまで来れた」
45時間かけ225キロメートルを走破し島に渡ったこぎ手5人の奮闘を、伴走船で見守った海部さんはたたえました。
実験航海は、3万年前の旧石器時代人が、どうやって大陸から琉球列島に渡ることができたのか、困難をどう克服したのかーという大テーマへの挑戦。遺跡に残らない“失われた人類史”を復元するプロジェクトです。
当時の技術(石斧=せきふ)で丸木舟をつくり、GPS(全地球測位システム)もコンパスも時計ももたず、こぎ手の交代なしという航海に臨みました。



台湾の出航地から与那国島まで直線距離で206キロメートルあります(3万年前の航海プロジェクト提供の図から)



出航地から与那国島までの直線距離は206キロメートル。航海の大半は島影が見えません。太陽や月、星を見て方角を知り、経験と勘を頼りにかじを取ります。
行く手を阻むのが、最大で幅100キロメートル、秒速1~2メートルという世界最大級の海流「黒潮」です。北向きの黒潮に流されながら、うまく北東の島に向かわなくてはなりません。
黒潮に入ったかどうかは、北風が吹いたときに立つ三角波、南からの大きなうねり、深い群青の海の色などで判断しますが、航海を指揮した原康司キャプテン(47)は、舟上で黒潮の流れを感じ取る難しさをこう説明します。「深いところから地面が一緒に動いているようなものなので、陸が見えない状況で流れているのを判断するのはすごく難しい」
どうやって与那国島を目視できる50キロメートル圏内に入るか―。
シーカヤックで世界を航海した冒険家の原さん。黒潮のスピードはわからなくても、舟が沖合にどれくらい進んだかをつかむ自信はありました。そこで最初の24時間は東へ進み、沖合100キロメートルに出たところで北東方面に針路を変えながら島を探すという戦略を立てました。「100キロメートルを超えてさらに東へ行くと、与那国島の南側を通り抜けてしまう可能性があった」



海部陽介さん


原康司さん


田中道子さん



丸木舟チームは6月25日から天候などの条件が整うのを待ちました。沖縄地方は平年より梅雨明けが遅れ、あいにくの天候不順。ようやく出航期限(7月13日)目前の9日牛後に風がやみ、出航を決断しました。
「やっとこぎ出せると、解放感に満ちていた」と、丸木舟チーム唯一の女性で、かじ取り担当の田中道子さん(46)は、そのときの気持ちを話します。出航後にはアホウドリやアジサシなどと遭遇。「イルカ、クジラを見たときは眠気が吹っ飛んだ。感動した」
しかし丸木舟チームを待っていたのは数々の過酷な試練でした。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月24日付掲載


改めて、丸木舟で台湾から与那国島へ渡ったことの実証事件。今でこそ、206キロ先に島があると分かって漕ぎ出すわけだが、3万年前、最初は何もわからずに漕ぎ出した。
その挑戦心はすごいものだと思う。






最終更新日  2019年08月27日 07時39分08秒
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2019年04月16日
テーマ:南極(2)
フェーン現象が南極棚氷壊す?
南極半島の東側の海を覆う巨大な棚氷が山から吹き下ろす暖かな風で崩壊するかもしれないと、米メリーランド大学などの研究グループが地球物理学誌『ジオフィジカル・リサーチ・レターズ』(11日付)に発表しました。
南極半島は南極の最北端に位置し、気候変動にとりわけ脆弱(ぜいじゃく)な場所と考えられています。すでに、南極半島東側の海の最北端にあったラーセンA棚氷が1995年に、その南にあったラーセンB棚氷も2002年に崩壊しました。
ラーセンB棚氷のさらに南にあるラーセンC棚氷も16年に亀裂が走っているのが確認され、17年には一部が氷の塊となって分離したことが確認されています。



人工衛星がとらえた南極半島周辺。青く見えるのはラーセンC棚氷の上にたまった水
©NASA EARTH OBSERVAORY/Lauren Dauphin

研究グループは、1982年から2017年までの35年間にわたって人工衛星の観測データと気象観測データを解析しました。南極半島には山脈が連なっており、南極半島の東側では夏の終わりから初秋にかけて山脈を越えてくる暖かくて乾燥した風が吹くフェーン現象が起こります。
研究グループによると、南極半島の東側でフェーン現象が起こると気温が15度以上も上がり、棚氷の上に積もった雪を解かし、棚氷の上に水がたまり、棚氷の構造を不安定にする可能性があるといいます。
解析の結果、15年から17年にかけての3年間、南極半島の東側のフェーン現象が強まったことがわかりました。研究グループは、今後、ラーセンC棚氷もラーセンA棚氷やラーセンB棚氷と同じ運命にさらされる可能性があるとしています。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年4月14日付掲載


南極でもフェーン現象って起こるんですね。南極の棚氷の崩壊。地球温暖化とは別で、自然現象なので、どうしようもないですね。






最終更新日  2019年04月16日 13時59分35秒
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2019年01月28日
人骨に向き合って 沖縄で研究 四半世紀③ 骨“運”の無さが大逆転
人類学者 土肥直美さんに聞く

―10年あまり先島諸島で先史時代の人骨を探し続けたのに見つからず、日本一骨運がない人類学者と言われた土肥さん。ところが、2007年に石垣島の新空港建設予定地で約2万年前の人骨が見つかったのをきっかけに、日本ではこれまで例のない、多数の旧石器人の人骨と出会うことになりました。
白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴で人骨を最初に発見したのは沖縄鍾乳洞協会理事長の山内平三郎さんたちで、人骨を大学に持って来られました。山内さんとは琉球大学に赴任したころ、以前医学部長だった先生の紹介でお会いしてからの洞窟仲間でした。
「沖縄に来たんだったら洞窟を知らないとだめです」って言われて。探検部だったので、洞窟に潜ったことはありましたが、行くと落差が20メートルもある。高いところは怖いけれど「下に人骨があるから」って言われると行っちゃう。
人骨が見つかると持って来られて、一見古そうなのですが、年代を調べてみると数百年前ぐらいというのが多かった。その時も、古そうでしたが、「年代を調べないと」と言いました。人骨と一緒に見つかったネズミの骨の年代を調べたら約2万年前で、これはたいへんということで頭骨の一部でしたが人骨も調べたら、これも約2万年前でした。
2010年と13~16年に県立埋蔵文化財センターが中心になって、私たち形質人類学者や考古学者だけでなく、DNA人類学などさまざまな分野の研究者が参加する画期的な発掘調査が行われました。合わせて1300点もの人骨が見つかっています。これまでの分析で、少なくとも19人の旧石器人の骨を含んでいることがわかっています。
人骨の出土状況から、調査の最初のころから風葬の墓だと考えていましたが、15年の調査で決定的証拠が見つかりました。一番古い約2万7000年前のもので、最初に復顔できた4号人骨です。骨の位置から、亡くなった後、あおむけで両腕と両足を折り曲げた形で安置されたことを示していました。



頭骨(中央)を発掘する人たち(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)


4号人骨が安置されたときの姿勢を示す想像図(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)

次の地へ
―白保竿根田原洞穴遺跡で見つかった多数の人骨は、現在、土肥さんたちが一つひとつ付着した石や土を取り除くクリーニングという作業や、つなぎ合わせる作業を進めています。
こういう人骨が出てくるような遺跡が今後、いつ見つかるかわからない。そこで発掘ができて、今こうやってクリーニングやクロスワードパズルを解くようにつなぎ合わせる作業を行わせてもらっている。たぶん、日本で一番幸せな人類学者かもしれないですね。
これで若い人類学者が大きくなってもらいたいし、育ってほしい。河野さん(河野礼子・慶応大学准教授)が若い人類学者のチームをつくってくれて頭骨以外の部分の研究も緒についているので、どんな成果が出るか楽しみです。
それと、白保竿根田原遺跡は墓だということがはっきりしたので、では生活の場はどこだったのか。近くにあるはずなので、ぜひ探したいと願っています。(おわり)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月15日付掲載


同じ沖縄でも探す場所を変えるってことで洞窟へ。
すると2万年前、旧石器時代の遺跡がざっくざっくと…
頭骨をつなぎ合わせる、答えの用意されていないジグソーパズル。






最終更新日  2019年01月28日 22時56分05秒
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2019年01月27日
人骨に向き合って 沖縄で研究 四半世紀② 沖縄・アイヌ 骨格似ず
人類学者 土肥直美さんに聞く

王族の顔
―1992年に単身琉球大学に赴任し、沖縄のあちこちの発掘調査に参加。数万年前から沖縄の島々で生きた1000人もの人骨と向き合い、その移り変わりを目の当たりにしてきました。中でも浦添市の王陵(王の墓)「浦添ようどれ」で出会ったある人物の顔が印象に残っているといいます。
浦添ようどれは沖縄が北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三つに分かれていた三山時代の13世紀後半、中山王英祖(えいそ)がつくり、後に琉球王国の第2尚氏7代王尚寧(しょうねい)が改修した墓で、調査の結果、英祖王陵には100人以上が葬られていることがわかりました。英祖とその一族とみられます。
英祖王陵の石棺の一つに納められていた頭骨を来る日も来る日もつなぎ合わせる作業を続けた末、出来上がったものを見たときは本当にびっくりしました。王族ということで想像していた顔つきと異なり、歯が前に突き出していました。突顎(とつがく)といって、本土では鎌倉時代から室町時代によく見られますが、沖縄では初めて見る顔つきでした。
沖縄では、本土の縄文時代にあたるころから狩猟採集生活を中心とした貝塚時代が長く続いていましたが、11世紀ごろ突然、石垣を築いてつくった巨大なグスク(城)が各地に出現します。グスクをどんな人々がつくったか謎でした。英祖王陵に葬られていた突顎の人物は、沖縄の外から人々がやってきたことを示しています。
国立科学博物館の篠田謙一さん(人類研究部長)による尚寧王陵の人骨のDNA解析では中国南部や東南アジアとの関連がみられ、琉球王国の成立にこれらの地域の人々との交流が重要な役割を果たした可能性があると考えられます。



頭骨を観察する土肥直美さん



説明困難
―日本人の成り立ちを考える仮説に、1991年、東京大学の埴原和郎教授(当時)が提唱した「二重構造モデル」があります。
日本人は、古くから日本列島にやってきていた縄文人と弥生時代の初めに大陸からやってきた人々が混血してできあがったとするものです。辺縁部に位置する沖縄や北海道は混血の影響が及びにくく、縄文人の形質が残ったとされています。
土肥さんは、沖縄で見つかる人骨の研究をする中で、それだけでは説明できないと考えるようになったといいます。
1993年から94年にかけて札幌医大の百々(どど)幸雄教授(当時)たちとアイヌ、本土、沖縄の古人骨の比較をしました。その結果、沖縄の古人骨の顔立ちはアイヌの古人骨に比べ平たんで、必ずしも両者がよく似ているとはいえないことが明らかになりました。
沖縄では、骨が残りやすい地質のところが多く、約2万年前の港川人をはじめ非常に古い人骨が日本で唯一と言っていいぐらい発見されていますが、近世とその間をつなぐ先史時代の人骨はあまり見つかっていません。特に、宮古・八重山といった先島(さきしま)諸島の先史時代の古人骨が重要なのですが、この地域ではそれがまったくと言っていいぐらい見つかっていませんでした。
そこで、1997年ごろから先島諸島のあちこちで先史時代の人骨を探す発掘調査に取り組みました。しかし、これがまったく当たらない。2000年ぐらい前からの生活の跡がたくさん見つかっている宮古島の浦底遺跡でもだめでした。何年やっても当たらないので「日本一骨運のない人類学者」と言われたほどです。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月13日付掲載


弥生人との混血が少なかったと言われる沖縄とアイヌだが、その骨格が似ていない。
その違いはどこにあるのかが興味深い。






最終更新日  2019年01月27日 11時15分26秒
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2019年01月26日
人骨に向き合って 沖縄で研究 四半世紀① 生と死の近さに驚いて
人類学者 土肥直美さんに聞く

人類学者の土肥直美さん(73)は、憧れの西表島での調査をきっかけに沖縄に移り住んで四半世紀あまりです。これまで、古くは2万7000年前の旧石器時代から、100年ほど前の近代まで1000人もの人の骨と向き合い、先人たちの声なき声に耳を傾けてきました。
(間宮利夫)

顔を復元
―昨年、東京・上野の国立科学博物館で開かれた「沖縄の旧石器時代が熱い」の展示で、訪れた人の目をひときわ引きつけたものがあります。土肥さんたちが復元した石垣島白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で見つかった2万7000年前の旧石器時代の人の顔です。旧石器時代の人の顔が復元されたのは、日本では沖縄・八重瀬町の港川人(みなとがわじん)以来2例目です。
保存状態がよかった四つの頭骨の一つです。保存状態がよいとはいえ、欠けた部分もありますから完全ではありません。国立科学博物館の河野礼子さん(現慶応大学准教授)と、コンピューターで欠けた部分を補うデジタル復元という新しい技術を使いました。その方法で完成した頭骨に、DNA解析に基づく情報や石垣島の気候などを考慮して肉付けしたり肌の色を決めたりして復顔しました。
通常、骨が完成すればそれでよしということになるのですが、やっぱりどんな顔か見てみたい。かっこいい、きりりとした顔立ちだったので大満足です。まわりからも、沖縄ではけっこう見かける顔だと言っていただき、ほっとしています。



白保竿根田原洞穴遺跡4号人骨の復顔像。左はもとになった頭骨模型(2018年4月、撮影協力:国立科学博物館)


ほぼ全身の骨格が残っていた4号人骨(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)

ある衝撃
―1990年代初め、九州大学医学部で助手として人骨の研究をしていたとき、西表島でダムの建設に伴って古いお墓が沈んでしまうらしいという話を聞いて初めて沖縄へ。そのとき受けたある驚きが、単身沖縄へ移り住み、研究を始めるきっかけになったといいます。
学生時代は理学部で生態学を専攻しました。京都大学の人たちがアフリカで類人猿の研究を始めたというのを聞いて、自分も人類進化の研究をやれたらいいなと思ったのですが、九大理学部にはそういうコースがなく、マイマイ(カタツムリ)にマニキュアを塗って印をつけ、生態を追う日々でした。
学生時代にかなりのエネルギーを注いだのが探検部です。当時、顧問だった医学部解剖学教室の永井昌文教授が私のことを覚えていてくれて、後に助手に採用してもらい、念願だった人類学の研究をスタートすることができました。
探検部のころイリオモテヤマネコが発見され、西表島はみんなの憧れの場所でした。案内してくれた方は「夕方迎えに来るから」って言うので、1人でスケッチしたり、写真を撮ったり、丹念に観察しました。
集落の裏山の岩陰の草むらに人骨がごろごろという状態で、生と死がすごく近い感じでカルチャーショックを受けました。18~19世紀の墓だと思いますけど、これをダムで沈ませていいのだろうかと、怖い物知らずで県の教育委員会へ行き「何とかなりませんか」って言ったら、水位を下げてくれたんです。
その後、ほかの人類学者と何度か調査しましたが、その時は沖縄で職があるとはまったく思っていませんでした。ところが、1年後に琉球大学医学部に赴任することになったのですから、人骨が呼んでくれたのかな。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月12日付掲載


日本本土の様に酸性土壌でない沖縄の地層だから2万年前の旧石器時代の人骨が残っている。
それにしても、人骨の調査のために沖縄に移り住むっていうんですから、すごいですね。






最終更新日  2019年01月26日 12時42分33秒
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2018年06月27日
全国地震動予測地図 北海道東部で大幅上昇 南海トラフ沿い 微増続く
政府の地震調査委員会は26日、2018年版の「全国地震動予測地図」を公表しました。今後30年以内に震度6弱以上の揺れが起きる確率は、昨年12月公表の千島海溝沿い巨大地震の長期評価を受け、北海道東部で大幅に上昇。南海トラフ地震の発生が近づいていると予想され、関東から四国の太平洋側は微増が続きました。

今後30年以内の震度6弱以上の確率



地震調査委公表
都道府県庁所在地の市役所(東京は都庁)や北海道振興局の所在地付近では、今後30年の震度6弱以上確率が釧路総合振興局(釧路市)で昨年の47%から69%に、根室振興局(根室市)で63%から78%に上がりました。
全国トップは千葉市の85%で昨年と変わらず、横浜市の82%、水戸市の81%が続きます。大阪北部地震は地図作成基準日が1月1日のため反映されず、大阪市の確率は昨年と同じ56%。近くの断層帯との関係がはっきりせず、来年以降に公表する近畿などの活断層長期評価で検討します。
地震調査委の平田直委員長(東京大学教授)は、東京都庁の確率が千葉や横浜より大幅に低い48%なのは、たまたま地盤が硬い台地にあるためと説明。大阪北部地震を踏まえ「一般に都市は平野などの揺れやすい場所にある。耐震性の低い家屋の補修や家具の固定など、地震に備えてほしい」と話しています。

三大都市圏 強い揺れ 対策念入りに
2018年版の全国地震動予測地図は、内陸にある活断層などの地震で東京、名古屋、大阪の三大都市圏が強い揺れに襲われる可能性を改めて示しました。專門家は家屋の耐震補強や避難先の確認など、事前の準備が重要と強調します。
広井悠・東京大学准教授(都市防災)は「地震の被害はどれだけ対策が進んだかで変わる」と指摘。「海溝型地震は発生場所がある程度予測でき、長期的に対策が取られるが、海溝型の被害予測が少ない地域は備えが進みにくい」と分析します。
広井准教授は基本的な地震対策として、家具の固定▽耐震補強▽初期消火▽避難準備―の4点を挙げました。都市部では出火件数が消防の能力を上回って延焼する危険性が高く、消火器の使い方などの訓練を勧めています。
NPO法人「耐震総合安全機構」(東京)常務理事で1級建築士の中村茂さんは、耐震補強には筋交いを入れて強度を増す方法や、柱に炭素繊維を巻いて揺れに対して粘り強くする方法があると説明します。
耐震補強には費用がかかりますが、自治体の助成金制度も活用できると呼び掛けています。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年6月27日付掲載


震度6弱の地震は、全国どこで起っても不思議ではないと認識すべきですね。
地震の被害を最小限に抑えるため、対費用効果が大きいのが「家具の固定」「初期消火」
億劫がらずに準備しましょう。






最終更新日  2018年06月27日 17時09分21秒
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2018年06月10日
花しょうぶの隣に白鳳時代の史跡 三ツ塚廃寺跡 【6月9日】

三ツ塚廃寺跡_01
三ツ塚廃寺跡_01 posted by (C)きんちゃん

三ツ塚廃寺跡_02
三ツ塚廃寺跡_02 posted by (C)きんちゃん
建物は再建されていませんが、建物が建っていた跡は発掘されて分かっています。
左から、東塔、金堂、西塔の跡です。


三ツ塚廃寺跡_03
三ツ塚廃寺跡_03 posted by (C)きんちゃん
金堂の跡。金堂としては最小規模だそうです。

三ツ塚廃寺跡_04
三ツ塚廃寺跡_04 posted by (C)きんちゃん
東塔の跡から、金堂、西塔の跡を望む。

三ツ塚廃寺跡_05
三ツ塚廃寺跡_05 posted by (C)きんちゃん
金堂の跡。

三ツ塚史跡公園_01
三ツ塚史跡公園_01 posted by (C)きんちゃん
花しょうぶ園と三ツ塚廃寺跡が合わせて史跡公園です。

三ツ塚史跡公園_02
三ツ塚史跡公園_02 posted by (C)きんちゃん
児童公園もありました。






最終更新日  2018年06月10日 11時09分52秒
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2018年02月25日
ネアンデルタール人も洞窟壁画描いてた?

国際研究グループ
ネアンデルタール人も洞窟壁画を描いていたことがわかったと、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの国際研究グループが、23日発表しました。今回の発見は、ネアンデルタール人が現生人類(ホモ・サピエンス)と同じような芸術的能力をもっていたことを示すものだといいます。研究成果は、科学誌『サイエンス』電子版(22日付)に掲載されました。





ラ・パシエガ洞窟壁画 ©C.dStandish,A.W.G.PikeandD.L.Hoffmann


ラ・パシエガ洞窟壁画の模写 ©Breuiletal

研究グループは、洞窟壁画が描かれていることで知られているスペインの三つの洞窟で壁画をおおう非常に薄い炭酸塩(炭酸カルシウム)の膜の一部を採取し、年代を測定しました。含まれている放射性のウランとトリウムの比率をもとに測定するもので、これまで洞窟壁画の年代を調べるのに使われていた放射性の炭素より古い時代を正確に出すことができるとされています。
測定の結果、これらの壁画は少なくとも6万数千年前に描かれたものであることがわかったといいます。
30万~20万年前ごろアフリカで誕生したと考えられる現生人類がヨーロッパに進出したのは4万数千年前で、壁画が描かれた当時、スペインに住んでいたのはネアンデルタール人だけでした。研究グループは、このため、今回調べた三つの洞窟の壁画を描いたのはネアンデルタール人だったとしています。

洗練された能力を示す
研究グループが調べたのは、スペイン北部のラ・パシエガ洞窟と、スペイン西部のマルトラビエソ洞窟、スペイン南西部のアルダレス洞窟。これらの洞窟の壁には、主に赤い色の顔料で動物や点、幾何学模様、さらには手形などが描かれています。
壁画を描くには、場所の選択、光源の計画、顔料の混合などの洗練された行動が必要とされています。今回の測定年代が正しければ、ネアンデルタール人がこうした能力を備えていたことになります。
研究グループのメンバーで英サウサンプトン大学のクリス・スタンディッシュ博士は「ネアンデルタール人が一般に信じられているより洗練されていたことを示すすばらしい発見だ」と説明しています。
三つの洞窟は互いに数百キロ離れています。英ダラム大学のポール・ペティット教授は「西ヨーロッパ各地のほかの洞窟で見つかっている洞窟壁画もネアンデルタール人が描いた可能性が高い」と指摘しています。(間宮利夫)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年2月24日付掲載


放射性のウランとトリウムの比率を用いた新しい年代測定法で、より古い遺跡の年代測定ができるようになった。
意外にも、ネアンデルタール人に美的感覚があったなんて、親近感を感じますネ。






最終更新日  2018年02月25日 15時12分10秒
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