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新年度が始まって6週間が終わった。
1学期は10週間制なので、半分以上過ぎたことになる。 私自身はなんせ時間の拘束がほとんどなく、授業なども全くない生活なので、 あまり関係はないのだが、私自身の修士課程時代も思い出して、 新年度最初の学期の6週目あたりに留学生はなにをしているのかを書いてみたい。 (尚、これから書くことは、文系とされる学部の修士課程に関する話であることを最初に断っておきます。) 以前書いたが、3週目あたりまでに「授業の選択」がある。 それが終わると、いよいよ本格的に授業に入る。 授業は講師からのレクチャーではなく、 学生が事前に渡されたリーディング・リストの本を読んできて その内容について議論するセミナー形式がほとんどである。 講師は、セミナーの最初に議論の導入として話すか、 議論の途中で行き詰ったときにサポートするか、 最後にまとめとして話すかしかしない。 いずれにせよ学生中心にセミナーは進む。 だが、この頃のセミナーというのは、 学生にとって意外にしんどいものだ。。。。 なぜなら、文系の学部だとほとんどそうなのだが、 西洋哲学の基礎的理論を勉強するところからコースが始まるからだ。 社会学、政治学、歴史学、人類学、文学。。。 どの学部もそうである。 現代では細分化された学問分野も根本的な理論は同じで、 それを理解しないと全てが始まらない、 という考え方なのだろうか。 しかしこれは例えば、 政治であれば日米外交や北朝鮮問題など、 社会学であれば、女性の人権とか、ホモセクシャルの問題とか、 現代的なテーマに興味がある学生にとっては厳しい。 特に留学生にとっては非常に厳しかったりする。 付け加えると、社会科学では経済学はちょっと違っていて、 こういう哲学的なことはやらない。 しかし、その代わりコースの始めに、 経済学の分析に不可欠の「数学」を嫌になるくらい徹底的にやらされる。 英国の教育では、 「知識(あるいは記憶)より、自分の考えをしっかり持ち、議論できることを重要視する」と日本で一般的に言われていると思うが、実態は少し違うのである。 実際には、英国の教育では議論の基礎となる知識を身に付けさせることにかなりの時間を費やしている。学問というのは、勝手に思いついたことを話したり書いたりするものではないので、当然と言えば当然の考え方である。 また、先ほどセミナーでは講師が「導入部か最後に話す」 と書いたが、このとき、講師が「論文の書き方」を何度も何度も話したりする。 論文は「序論→本論→結論」の構成になってないといけないとか、 序論ではこの論文で書かれる内容が全て要約されて入ってないといけないとか、 結論で本論になかった内容が新たに入ってはいけないとか、 論文にはいろいろな決まり事があるのだけれど、 それを講師は繰り返し繰り返し、しつこいくらい学生に話すのである。 修士課程の最初の課題である小論文で よく「英国人」の学生が落第点を取ることがある。 英語が母国語なのになぜ? と驚くところだが、 これは、「小論文の形式の決まり」を無視して自分の好きなように書いてしまったからである。英語ができるからと言って、スラスラと個性的に書いていても意味がない。 大学で教えた「論文の書き方」通りに論旨を展開できていなければアウトなのである。 英国の教育は基礎を重視する。 基礎が身について、初めて個性を発揮できるという考え方である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2003年11月11日 22時37分30秒
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