|
カテゴリ:カテゴリ未分類
さて、今日からは2回連続、前・後編で、
「教育改革とはなんなのか」 に挑戦したいと思う。 「日本の学力が世界で何番目に落ちた」とか 「教育基本法改正」とかね、 これもいろいろあるからね。 最初にこの方のこのエントリーを紹介したい。 「マーケットの馬車馬」さんの 「今週のThe Economist:イギリスの教育問題「選ばれるのは一握り」 というエントリー。 このエントリーで馬車馬さんは、 この記事のスポーツに関する記述が、 日本の小学校で順位をつけないために手をつないで 徒競走をやらせるという発想を連想させるなど、 驚くほどの日本との類似性が感じられると指摘しながらも、 英国では教育改革に関して 「エリート教育VS反エリート教育」 の対立が常に存在しており、 それに対して 『日本の教育問題にあったせめぎあいは、 実はエリート主義とそれに対する反感、 またはもっと極端に言ってしまえば「エリート」 (日本にイギリス的な意味での エリートがいるとは思えないのだが) とそれに対する反感に過ぎなかったのではないだろうか。 これでは議論にならないのは当たり前だ。 ぶつかっていたのは主義主張ではなく、 感情だったんだから。』 とまとめている。 なるほどね。。。 今日は「教育改革」を論じるにあたり、 このへんを議論の出発点にしたい。 私は馬車馬さんの言う、 「英国の教育改革における エリート教育VS反エリート教育」 に関しては、 実際に英国の教育機関に 属している者としては その通りだと思う。 しかし、日本の教育改革に関して、 感情の対立ばかりで 議論が成立していなかったという 結論についてもその通りだと思うのだけど、 今日はそれにもう少し 私なりに付け加えてみたいと思っている。 日本にだって教育改革の議論は 感情論だけではなく それはそれで一定の議論の方向性が これまであったのだと思うからだ。 じゃあ、それは何かということを、 英国との比較を交えながら論じて、 「教育改革とはなんなのか」の前編としたい。 まず英国についてなのだけれど、 「英国のエリート教育VS反エリート教育」 の背景にあるのは当然のことながら 英国の階級社会の存在である。 階級社会を極めてシンプルにまとめてしまうと、 同じ英国人の中で所得の格差だけでなく 習慣、文化、考え方、言葉まで 階級によって全く違うという社会である。 そういう元々歴史的に貴族階級が存在していて、 そこで行われていたエリート教育と、 中流から労働者階級で行われていた反エリート的な教育の 2つの教育制度が英国には存在していたということだ。 そして英国が教育改革の方向性を考える際には、 この階級社会の存在を背景にした 「エリート教育VS反エリート教育」の 2つの教育制度の対立が、 常に存在しているということだ。 これに対して、 日本はどうなのだろうか。 日本は国民が日常的に 階級差を意識することが少ない社会である。 実際に貧富の格差はあったとしても、 それを日常的に意識することが少なく、 いわゆる「中流意識」を持つ国民が多い社会。 ここでは教育をめぐる 「エリートVS反エリート」 の対立は確かに存在しないし、 第二次世界大戦後、日本の教育制度は常に 「平等性」 を志向していたのではないだろうか。 そしてこの日本の「平等性」を志向した教育の 議論の争点となる対立とは、端的に言えば 「子供たちをどのレベルに平等させるか」 ということであったのだろう。 つまり、例えば戦後から高度成長期であれば、 欧米に追いつき追い越せということで、 かなり高いレベルで一律の詰め込み教育を行った。 逆に、高度成長期が終焉して、 その詰め込み教育からの落伍者の存在が 顕著になった頃には、 その落伍者をなくそうという観点から、 「ゆとり教育」を志向した教育改革を行った。 ここで非常に重要なことは、 どの期間において、 教育のレベルどこに設定しようとも、 「平等であることは大前提」 であったことである。 このように書いてくると、 「平等ってなんだ?」 と疑問に思う人もいるだろう。 正直、これは難しくて 「漠然とした平等という感じ」 というのが正しいのかもしれない。 実際には「結果の平等」という意味では、 例えば大学の格差なんてあるわけだし、 「機会の平等」という意味だって、 誰もが同じだったわけでもあるまい。 でも、そんな漠然としたものとはいえ、 「教育の平等は大前提」とされていて、 それに疑問を差し挟むことすら、 許されてなかったという感覚は、 日本人であれば、 誰もが持っているものではないだろうか。 要するに日英比較も交えながら 日本の教育改革とはなんなのかをまとめると、 英国ではそもそも 「エリート教育」と「反エリート教育」 2つの教育制度が存在し、 その間のどこで均衡させるのが よい教育制度なのかということが 教育改革の際の争点であった。 これに対して日本では 「教育は平等である」 という大前提が存在し、 どの教育レベルで平等を確保するかということが 教育改革の争点になっているのである。 その大前提は現在でも 日本の教育改革の議論の上に、 漠然とながらも 重くのしかかっているようだ。 冒頭に書いた 「日本の子供の学力が世界で何番目に落ちた」 というような話だが、 (別に何番目になろうとガタガタ慌てる必要などないと 私は思うので、正確な順番は忘れたけどあえて調べません。) 政治家やら評論家やらがすぐに、 「ゆとり教育」の弊害を論じて 教育カリキュラムのレベルを上げる 必要性を論じ始めているようだ。 しかし、「ゆとり教育」をやめた際に 必ず生じるであろう落伍者の存在について どう考えるのかについて 論じたものは見かけない。 「教育の多様性を」 みたいな言い方をしている人は いるようには思われるが。。。。 教育行政の大御所・森喜朗前首相も 「ゆとり教育をやめればいいというものではない」 というような意味の発言をしたみたいだけど、 じゃあ具体的にどうするの、 となると特に発言はない。 私は思うのだけど、 もうそろそろみんな はっきりと認めてはどうだろうか。 「教育に格差は生じるものだ」 ということを。 実際にはみんなわかっているのに、 なにか曖昧なままにしてごまかすのは、 もうやめたらどうだろう。 じゃないと、教育改革について真剣な議論など できないんじゃないかと思うのだ。 ただ、政府・文科省は国民には黙ったまま 実は着々と「将来の教育」について 手を打ってきているんじゃないかと 思えなくもないのだ。 それについては、 「後編」で書いてみたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年03月03日 08時28分45秒
|