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さて、「稲本潤一はご近所様♪最終回」の中編です。
日本代表に関して 思いつくままに つらつらと書いているのだけど、 中編に書きたいのは このことかな。 「『規律』と『自由』は 対立概念ではない」 まあ、改めて言うまでもなくね、 トルシエさんが監督の時に 選手を規律でがんじがらめにしたけど それじゃ限界だってことで 次は選手に自由にやらせてみたが やっぱり日本人には 自由はムリだっていうことになって 今度は「走れ走れ」の人を 監督にもってきたと。。。(苦笑) オシムさんが代表監督として どういう選手選考をして どういうサッカーをするのか よくわからないけれども、 まあ「規律」の方向を 日本の世論が望んでいるのは 間違いないだろうね。 ただ、私が1つ思うのは、 自由はダメで規律だとか 規律はダメで自由だとか これはちょっと違ってると 思うんだよね。 もっと端的に言えば、 ジーコは自由を与えることで 選手を大人扱いしたと 言われてるんだけど、 それは違ったたんじゃないかと 思うんだよね。 実はジーコほど 「代表選手を子ども扱いした」監督は いなかったんじゃないかと 私には思えるんだよね。 どうしてそう思うかなんだけどね。 みんな考えてみてほしいんだけど、 例えばアーセナルとかバルセロナとかね いいサッカーをしてるって 言われてるチームには 「規律」がないんだろうか? 「規律」という言い方があれだったら、 「決まり事」でいいかもしれないけど、 アーセナルでもバルサでも、 試合に臨むにあたって、 チームに決まり事が ないわけじゃないよね。 じゃあ、決まり事があるからといって ロナウジーニョやアンリは 自由がないんだろうか? いや、自由にやってるよね。 あるいは、勝つために合理的なことを シンプルに行うことで知られ それゆえに選手を型にはめることが 多いといわれている モウリーニョ監督率いる チェルシーでもね、 ランパードがボールを持ったら すぐドカンと蹴るけど、 ジョー・コールがボールを持ったら ドリブルで駆け上がろうとするでしょ。 決め事が多いチームでも それくらいの選手の個性は出る。 彼らは決まり事があっても、 それはそれとして、 試合のいろんな局面では 自分の判断で決まり事にないことでも できるってことでしょ。 そういえば日本代表でも こんなことがあったね。 選手同士が試合のとき どの位置で相手からボールを奪うか 激しく議論していたと。 その時、中田ヒデさんが一言、 「そんなの監督が決めることだろう?」 宮本君や福西君などの 国内組がこう言うならわかるけど そうではなくて言ったのは 海外でずっとやってきた 中田ヒデさんであったことが重要だ。 つまり、自由がいくら大事だとしても、 ボールをどの位置で奪うかみたいな 基本的な決め事というものは 監督が指示するものだというのが 世界のサッカーでは あたりまえだということだ。 そして、その決め事があった上で、 実際の試合ではここぞの場面では 自分の判断で 「味方も取れないキラーパス!」(苦笑) を出してみたりする。 それが「自由」なプレーと いうものだろう。 つまり、繰り返すけど、 「規律」と「自由」とは 対極に位置するものではないのであって、 「規律」があった上で、 実際の試合では 「規律」を超えて ベターなプレーを考えて 自分の判断でそれを実行するというのが ピッチ上での「自由」というものだろうと 私は思うんだよね。 そんなことを神様ジーコが わかっていないはずはない。 それではなんでジーコは 監督が決めればいいはずの 試合での最低限の決め事まで 選手に決めさせるようなことを したのだろう。 私が思うに、 それは日本代表の選手たちを 成熟した選手たちだと 信頼したからではないのだろう。 だって、信頼しているならば 試合の決め事を選手に的確に話し、 あとは臨機応変にやってくれって やればよかったんだから。 ちなみにジーコが 試合の決め事すら決められなかったほど 無能だったという人もいるけれども それは違うと思うね。 ジーコは鹿島の面倒を見ていた頃は 本当に手取り足取りやってたそうだよね。 試合の決め事ぐらい選手に 指示できないはずがない。 その指示が正しいかどうかは別にして。。。(苦笑) しかし実際には、 W杯の直前の合宿でさえ 中田ヒデさんと宮本君は ディフェンスラインを 上げるか下げるかで 激しく議論をしていて ジーコは議論がまとまるまで 待ってたっていうんでしょう?(苦笑) なんでジーコがこんなことをしたのかは、 おそらくだけど10年以上になる 日本での指導歴から ジーコなりの日本人観が あったからだと思われる。それは、 「日本人は少しでも指示を与えると、 それを守ることだけに汲々となり、 状況に応じて自らの判断で 臨機応変に行動することができない」 「日本人が自分で判断できるようにするには 指示を与えず全て自分で判断する習慣を 植えつけないといけない」 こんな感じだったんじゃないかと思う。 だから、一切指示を与えず 全部選手に自分たちで考えさせるという 一見むちゃくちゃとも思える 荒療治を日本代表に課そうとしたのだろう。 なんだかマッカーサー元帥が 「日本人の精神年齢は12歳」 と言ったのを思い出しちゃうね。(苦笑) 私はこのジーコの日本人観ってのは 必ずしも的を得たものとは 言えないと思っている。 的を得てないと思うんだけど、 残念ながらジーコは こういう日本人観を抱いてしまった。 それを日本人自身が 否定しようともしなかった。 いずれにせよ、 「ジーコ時代の4年間」で ジーコが何を考えていたのか、 ジーコが何をやろうとしたのかを 正確に理解しないと 次には進めないだろう。 ジーコはまるで 規律と自由が対立概念であるかのように 日本代表を指導したけど、 繰り返すけど、本当は 「規律と自由は実は対立概念ではない」 のであって、 ジーコももちろん そのことはわかっていたはずだ。 「ジーコ時代」を理解する鍵は 「なぜジーコは規律と自由を 対立概念にしたのか」 ということなのだと 私は思うし、 そこを突き詰めて考えないと 長期的な観点から 日本サッカーは今、 世界と比べてどの位置にいるのか、 今後どういう方向性で 強化をしていったらいいのか 正しく見極められないと思う。 少なくとも今後の日本代表には 「強豪相手にディフェンスラインを下げたら 押し込まれて大変なことになる」 という、誰でもわかる常識がないことを 「自由な発想」だと考えるような選手を 必要としないということは しっかり確認して 前に進まないといけないだろうしね。(苦笑) 「規律と自由」に関連して 昔、こんなエントリーを書いたことがあるんで もしよろしければご参考にどうぞ。 (2003年11月10日 「英国の教育は基礎を重視する」) ということで、 後編に移りたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月17日 09時02分16秒
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