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さて、「英国留学回想録」です。
今日は「人生で一番楽しい時」第8回、 「かみぽこカー購入と官僚N子さんの帰国」。 (2001年7月中旬) 前回は、修士論文に取り組んだ時期の、 勉強以外の日常を書いた。 今回はもう1回、 勉強から離れた話を書こう。 皆さんお馴染みの私の愛車、 「かみぽこカー」 は、元々官僚N子さん夫妻の所有であったことは、 すでに何度かこの「留学回想録」に書いている。 まだプレセッショナル・コースの頃、 颯爽と「白い車」で学校に現れた N子さんに驚いたことや、 N子さん夫妻宅での新年会で、 道に迷って、旦那さんに「白い車で」 迎えにきてもらったことなど、 懐かしい話である。 私がPhDに進む意思があると知って、 その車を「買わない?」とN子さんが 言ってきたことも既に書いた。 N子さん夫妻は、 2人ともキャリア官僚であり、 旦那さんは2年間の留学で(今、2年目) N子さんは1年間の留学で それぞれ官庁からうちの学校に 派遣されてきていた。(2人の官庁は別) ご存知の通り、 霞ヶ関の人事異動は7月なので、 彼らは7月中に日本に帰国しなければならなかった。 修士論文を書き上げる前の帰国であった。 これは何もこの2人に限った話ではなく、 官庁あるいは企業からの派遣の留学生は ほとんどが7月または8月に 修士論文をやりかけたまま帰国してしまう。 彼らは日本に帰ってから業務の合間に 修士論文を書くわけだが、 かなりしんどい作業であり、 時には学位を取ることを 放棄してしまう例もあることは、 かつてのエントリーで書いたことがある。 また、かつて大きな話題になった、 国会議員等の海外留学の学歴詐称問題に関しても、 留学の全てのスケジュールが修了する前に 帰国しなければならなくなって、 自分が無事に学位を得たのかどうか 未確認のままになってしまったりすることが 遠因の1つであることが指摘されていた。 こういう問題が起こる理由は、 彼ら派遣留学生が組織から与えられた 留学期間が「1年」(または「2年」)と きっちり決められているからである。つまり、 「8月から留学をスタートすると翌年7月まで」 という留学期間となるからだ。修士課程は 「10月にスタートして9月に修士論文提出」 であるから、10月に学校に来ればいいのだが、 やっぱりこっちにきていきなり本コーススタートでは 準備不足のリスクがあることもあって、 7-8月に来てプレセッショナルコースに参加することになる。 そうすると、派遣留学生は修士論文の締切の前に 日本に帰国せねばならないことになる。 まあ、今日はこの問題について いいとか悪いとか論じるつもりはないのだけど、 要するに官僚N子さん夫妻は、 7月中旬に我々より先に 日本に帰国することになったのである。 ということで、このN子さん夫妻の 車を引き取ることになったのが、 そもそも私はPhDをやるに当たって、 車の必要性を最初から感じていたわけではない。 官僚らしからぬ 人をその気にさせるのが上手な N子さんの言葉、 「ね、ね、車必要よね。 いろんなところいけるしね~。」 に、「そうだな。。。」と 思っちゃっただけだった。(苦笑) ただ、私は単なる お人よしだったわけでもなくて、 この話が来る前から、 翌年度から学校の外に住むことになる時に、 いかにして学校内の寮と同じ環境を整えるべきか いろいろ考えてはいた。 (朝6時に起きて、 図書館や芸術会館のカフェで勉強して 食事の時だけちょっと寮に帰って、 夜12時までがんばる。) この1日のパターンをPhDになっても 続けられるかということだった。 学校の外の街に住むと バスで学校に通わないといけない。 バスの本数はそんなに多いわけじゃないし、 家で勉強をしていて、 思い立った時にすぐ図書館に行く、 みたいなことは無理だ。 まあ、学校の寮のように 快適な環境は普通ありえないわけで、 不便をなんとかやりくりすること自体が 勉強であったりはする。 しかしながら、 最低3年以上の博士課程、 博士論文に求められるものは 学術的に鑑賞に堪えられる プロフェッショナルなレベルのもの。 外国のなれない環境とかに対処することを 勉強なんてしてる場合じゃ ないんじゃないかと思った。 そういうものは全て完璧に整えた上で、 研究に集中するものだと考えたのだ。 だから、N子さんから 車を売りたいという話が来た時、 話を聞きながらこう思った。 車を購入するのは、 24時間いつでも思い立った時に 学校に行けるという体制を作る、 それは研究に必要な 環境を作ることだと、 そのための必要経費は ケチる必要はないのだと。 「そうだね。買わせていただきたいと思うんで。」 ほとんど即決でN子さんに返事した。 それから数日後、 N子さんと旦那と3人で、 正式に車の譲渡について話をした。 値段の話になった。 私は率直に、 「あの車は、4000ポンド(約80万円)くらいで 買ったのかな?」 と夫妻に聞いた。 「そうです。」 と言いながら、旦那さんが 中古車ディーラーから車を購入した時の 領収書を出して私に見せた。 4250ポンドだった。 私がなぜこの値段を予想できたかというと、 これまでおらが街を歩いていた時に 何度か中古車ディーラーを何軒かちらちら見ていて、 日産マイクラ(欧州版マーチ)が これくらいの値段で売られているのを 覚えていたからだ。 旦那さんは続けていった。 「1800ポンド(約36万円)でいかがですか? 私らこの車売って儲けようとかありませんので。」 「いいですよ。」 私は答えた。 夫妻が購入してからまだ1年半くらいだったし、 走行距離が当時4万マイル(約6万キロ)くらいだったし、 市中で買えばやっぱり4000ポンドくらいする車、 これはかなり安く買えると思ったからだ。 値段の交渉が簡単に終わると、 後は細かい詰めだった。 まず保険に入ること。 学校内に保険会社の代理店があるので そこに行ってくれという話だった。 次に車の登録。 これは夫妻から所定の用紙に 私の住所氏名を記入して郵送したら、 それだけで登録は完了とのことだった。 あと、車検や修理をやってくれる 街のガレージも紹介してもらった。 そして、2001年7月19日。 官僚N子さん夫妻が日本に帰国する当日。 午後10時頃、学校の芸術会館のカフェの前で 待ち合わせた。 夫妻が白い車に乗ってやってきた。 「じゃあ、キーをお渡しします。 これでお譲りしたということで。」 旦那さんが言った。 「小さい車だけどさ。 よく走るいい子ちゃんだから、 かわいがってやってね!」 N子さんが言う。 「もちろん。大事にしますよ。 長い間、お疲れ様でした。 いろいろお世話になりました。 仕事もがんばってくださいね。」 私は答えた。 「かみぽこさんもがんばってね。 PhD、無事に進めるといいね。 日本に帰ってくるときは連絡してね。」 そんな会話をしている時に、 黒いタクシーがやってきて、 我々の前に止まった。 「じゃあ、私たちはこれで ヒースローに行くから。 さようなら。」 N子さん夫妻はタクシーに乗って 去って行った。。。。 私の前に「白い日産マイクラ」が残った。 「それじゃ、いくか?」 私は初めてその車に語りかけて 乗り込んだ。 エンジンをかけた。 ぷすぷすぷすぷす。。。 なんだか調子悪そうだった。(苦笑) その車が、普段は調子悪いくせに 女性を助手席に乗せると ついてもいないターボエンジンが 回転を始めて絶好調になるということを 私はまだ知る由もない。 車を学校の駐車場に移動させた。 「かみぽこカー」誕生の瞬間だった。 それでは、また。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年04月12日 20時13分44秒
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