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カテゴリ:大阪近鉄バファローズ
![]() 同期入団には後に監督を務めた佐々木恭介と梨田昌孝、さらには4番を打った羽田耕一がいてバファローズにとっては豊作のドラフトだった。 ![]() 闘志をむき出しにして相手に向かっていく気迫あふれるプレーぶりから「ガッツマン」とも呼ばれた。 非常に勝負強いバッターだったが、最も印象に残っているプレーは79年6月、大阪球場で前期優勝を決めたホークス戦でのセンターからのバックホームである。 ![]() ![]() 同点で迎えた8回裏にノーバウンドで梨田捕手に返球してランナー定岡を刺し、ホークスの勝越しを防いだプレーにより前期優勝を達成し、さらにはその年のパリーグ制覇につながった。 現役引退後はテレビ解説者を務めたり、ミナミでスナックを経営していたことがありしばしば店へ行って親しくしていたが、閉店してしまい最近は彼の消息も聞かなくなった。 ![]() 近鉄の球団史を語る時には必ず登場する選手である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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平野選手 好きな選手でした。
彼のプレーを見て、ソフトボールや草野球で一番センターにあこがれてました。センターでの美技はすばらしかった。 (February 10, 2007 11:09:32 PM)
元々、前近鉄の平野光泰に限らず、平野がいた近鉄バファローズは球団創設時から廃団まで、パシフィックリーグでの概年での優勝はあったものの、日本シリーズは全てセントラルリーグ側のチャンピオンチーム(巨人・広島・ヤクルト等)に敗れてシリーズ優勝すなわち日本一をパ・リーグのチャンピオンチームの中で唯一経験してないから、当時の関西のパ・リーグ3球軍の中で最も知名度が薄かったのと、それに当時のパ・リーグは本拠地も前文に述べた3軍の他に当時は関東に3軍とそれぞれ東西各3チーム同士でリーグを運営していたのと、あと、パシフィックリーグは読売巨人軍がセントラルリーグに内盟(ないめい)している関係上、レギュラーシーズンゲームによるマッチカードを交流戦の時にしか獲る事が事実上不可能であり、近鉄が在団していた当時のパ・リーグは交流戦を制定していなかったから、正直言って歴代の各パの6チームに内籍していた前選手陣は知名度のある元プレーヤー陣を覗いてはよほどの事が無い限りほとんどが引退後も公場に姿を現さずに隠居している選手陣が数少なくないというのも、平野を含めたパの名プレイヤー陣が消息未明という事実の一つでもある。
(December 27, 2015 02:06:12 PM)
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