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キラキラ☆の部屋

キラキラ☆の部屋

日本キリシタンの歴史

■ ■ ■  日本キリシタンの簡単歴史  ■ ■ ■

歴史年表   作成感想  疲れた・・・((((*ToT*)†~~~アーメン

1549ポルトガルの船が鹿児島に上陸 フランシスコ=ザビエルによるキリスト教伝来↓興味のない人は読まないほうがいいです。
(;´Д`A ```しんどかった~
1569織田信長が宣教師フロイスと謁見なし
1573織田信長室町幕府を滅ぼす

※織田信長はキリスト教に深い興味を示し、キリスト教布教を公認し、 京都に「南蛮寺」(教会)の建立を認め安土城内には セミナリオ(神学校)を建設した。 信長は「南蛮文化」を愛し、珍奇な物品を求め、同時に鉄砲、 大砲を最大利用して天下統一をめざしたのであった。
 
イエズス会はそのような信長をキリシタン大名にしようとしたが信長は即座に断っている。宣教師の持つモノを得て利用する為だけのイエズス会との交流であった。
1582九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る 本能寺で織田信長が殺される(本能寺の変)
1587豊臣秀吉がキリシタン禁止令を出すこれは、キリスト教が予想以上に世に普及していて、キリシタン及びキリスト教そのものに圧力をかけて世をまとめようとしたことから出された。しかし秀吉は貿易を重視していたので、見てみぬふりをし続けききめはそれほど強くなかったようである。
1590秀吉が全国を統一するサン・フェリペ号事件
1569(慶長元)年にイスパニアの商船サン・フェリペ号が土佐に漂着したとき、乗組員が世界地図をひろげその領土の広大さをほこり、それは宣教師の教化活動のあとに軍隊をおくりこんで征服した結果だと語ったといわれています。かねてから旧教国の領土的野心を心配していた秀吉は、再度禁教に踏み切ったのは、これがきっかけだと言われてる。
1597長崎において26聖人殉教

 ~1598年、秀吉病死
日本26聖人殉教地は豊臣秀吉の禁教令により京都や大阪で捕らえられた外国人宣教師6名、子供を含む 日本人20名は長崎に送られ、1597年2月5日、この刑場で殉教した。それからおよそ250年後、ローマ法王から 聖人に列せられた。この地は今、日本の殉教の丘、国際的巡礼地となっている。
1600関ヶ原の戦いで徳川方の東軍が西軍に勝つなし
1603徳川家康が江戸に幕府を開くなし
1610デウス号事件大村純忠・大友宗麟らと共に少年使節をローマに派遣した島原藩主、有馬晴信が1608年、チャンパに派遣した船がマカオに寄航した際、乗組員がポルトガル人と紛争を起こし、処刑を受ける。この報復として翌年長崎に入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号を撃沈した。
1612江戸幕府が直轄地のキリスト教を禁止,翌年全国におよぶ理由として
・キリスト教徒がしだいに増加すると、幕府はキリスト教徒が団結して一揆を起こすのを恐れた。  
・キリスト教は、人間の平等や生命の尊重を説き、封建社会の考えに合わない面が多く、幕府は警戒した。  
・新教国のオランダは、旧教国のスペインやポルトガルが布教によって領土を奪う野心があるなどと幕府に告げた。
1614高山右近らのキリシタンを国外追放。 (1552~1614)安土桃山時代の武将。キリシタン大名。洗礼名(キリスト教徒としての名前)ジュスト。▽摂津国(大阪府)に生まれる。豊臣秀吉に仕えて明石城の城主となったが,秀吉の禁教令にしたがわなかったため追放され,加賀国(石川県)の前田家に身をよせた。1614年,江戸幕府のキリシタン追放令によってマニラ(フィリピン)に追われ,その地で死んだ。◇千利休の弟子として茶の湯にもすぐれていた。
1615大阪夏の陣がおこり豊臣家が滅ぶなし
1622キリシタン55人を長崎で処刑する。 「耶蘇教大追放例」が発令され、宣教師追放、教会の破壊、キリシタンの処刑など大迫害が始まった
1629長崎で絵踏みが始められる1635年ころには全国的に実施されたと言われる。
1630キリスト教関係の本の輸入を禁止するなし
1637島原・天草の農民がキリシタンと結合した大一揆おこる(島原の乱)。 1637~1638年,天草(熊本県)・島原(長崎県)地方の農民がキリシタン信仰を支えとしておこした一揆。領主のキリシタン弾圧ときびしい年貢の取り立てにたえかねた3万8000の農民が,天草(益田)四郎時貞を首領として島原の原の古城にたてこもり,半年間たたかった。幕府は12万の大軍を送ってようやく鎮圧した。
1654キリシタン禁制の高札を建てる日本は長きにわたる鎖国時代に
1853ペリーが浦賀に来航嘉永6年(1853)、米国提督ペリーが
浦賀へ来航し、日本は開国への
道を歩みだした。
幕府は「国家の一大事」に
慣例を破って挙国一致体制で臨み、
幕臣の人材登用をはかった。
しかし、この国政の混乱は、
朝廷や諸藩の中央政治進出を招き、
幕府独裁という従来の政治体制の解体を促して、
「幕末」という時代の
始まりをもたらすことになった。
1854ペリー再び来航し、日米和親条約が調印される米、英、露 ペリーは条約内に領事派遣の項目を入れることで、これ以上の無理強いを避けた。
日本の閉鎖的封建体制は、くずれはじめたのである。
1857長崎での絵踏み廃止なし
1858米、蘭、露、英、仏との間に修好通商条約が締結された。 同じくして締結された日仏通商条約には、第四条に、居留地内に、フランス人のための礼拝堂建立を認める条文が規定された。
1865大浦天主堂が建立される
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鎖国の時代が終わり、日本で外国人の居留が認められていた長崎で、
日本でのキリスト教の布教をしようとしていたフランス人のプチジャン神父が建設した天主堂。
正式には日本二十六聖殉教者天主堂という。
1865年2月19日落成。日本最古のゴシック様式の建築物。
 ここは、完成の5ヶ月後に大浦から6キロほど離れた浦上から、250年の弾圧を経て伝えられてきたキリスト教を信仰するキリシタンの子孫ら15名ほどが自分達はキリスト教信者であることを告白しにきた「信徒発見」があったところで有名。
 昭和8年には国宝に指定され、昭和28年再指定される。
また隣接するラテン神学校跡は昭和47年に重要文化財に指定されている。
1865浦上、五島での最後の迫害大浦天主堂での「信徒発見」が発端となって、最後の大迫害が起こった。  

「浦上四番崩れ」  
大浦天主堂が建ってから、キリシタンたちの信仰が再び加速し、
外国人神父らも信徒を発見し、布教をひそかに行っていた。
そのようなときにキリシタンたちが死者を寺にも庄屋にも届けず自葬するということがつぎつぎと起こり、
寺との関係を切ることを希望する村民が多数出てきた。
ここから、江戸幕府、明治政府の迫害がはじまった。
浦上村のキリシタン拠点を根絶することを目的とした迫害は、
「一村総流罪」で、全国各地に流され、過酷な生活を強いられ、転ぶことを要求された。  また、五島でも江戸幕府の禁教時代と同じような迫害が行われた。
激しい拷問の末、遺体も放置されるような有様で、
2年後残った者も帰されたが、
その後数人が死亡、家なども略奪され、何も残されていなかった。
1873キリスト教の禁制が撤廃され、解禁終わった~ここまで打つのに燃え尽きました~(笑

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