カテゴリ:歴史
旅行記もようやく書き終わったところで、一気に話飛びます・・。 今日は飲み会だったのではなはだしく酔ってます。
この状態を行動ではここにどうやっても示しようがないので、言葉に示しておきます。
最近読んだ本です。
「ヴァイキングの暮らしと文化」(レジス・ボワイエ著) 「ルーン文字」(大英博物館双書、レイ・ページ著) 「初期アルファベット」(大英博物館双書、ジョン・ヒーリー著)※ 「初期アルファベットの歴史」(ジョセフ・ナヴェー著)※ 「世界の歴史」(古代オリエント)(岸本通夫、他著)※ 「古ヨーロッパの神々」(マリヤ・キンブタス著)※ 「縄文の素顔」(勅使河原彰著)※ 「縄文の豊かさと限界」(今村啓爾著)※ 「縄文の生活誌」(岡村道雄著)※ 「生の緒」(縄文人の精神文化)(ネリー・ナウマン著) (※は以下に出てくる図の引用元です)
一応ある一定の興味関心に従っているんですが、わからないですよねえ・・・。
最近、約1万2千年前からの先史時代に興味があります。文字が発明されて歴史時代を迎える少し前の時代の世界と日本。 世界最古と言われるシュメール人のメソポタミア文明がBC3500頃成立し、同時期にシュメール絵文字が生まれて後の楔形文字に発展していきます。エジプト聖刻文字もほぼ同時期に誕生しています。記録手段の開発によって人類は歴史時代をむかえるのです。 新石器時代の東ヨーロッパはビンチャ文化やククテニ文化などに代表される独自の発展を遂げ、研究者によっては古ヨーロッパ文明としてメソポタミア文明より先に既に文明と呼べるものができていたと主張しています。およそBC7000-BC3500年頃をさします。皆さんマンガの「マスター・キートン」はご存知の方も多いと思いますが、この中に出てくるドナウ文明説はこれにあたります。古ヨーロッパと称される地域は黒海から東側、ドナウ川流域やアドリア海沿岸などを指し、文明と呼ぶかは別にして当時相当に高度な文化が発達していたことがわかっています。東欧と呼ばれる地域が多少これにかぶります。マンガの中ではドナウ文明説は異端視されていますが、実際にはそれなりに認知されている話のようです。 そしてその頃の日本は縄文時代のど真ん中です。古ヨーロッパ「文明」と同時期、むしろ縄文時代の方が長く続いているわけですが、定住生活を送っていたという点で古ヨーロッパの人々と同じであり、築いた文化には大きな共通点があるように思うのです。それは女性原理に基づく社会だったということです。古ヨーロッパでは女性を表す様々な彫刻が作られています。また縄文時代の土偶は全て女性を現したものです。文化の変遷や思想の変化は1万年もたてば当然変化するのでひとくくりにできるものではないですが、現在の社会とは異なる原理に基づいていた当時の人々の生活に妙に惹かれるものがあるわけです。(いわゆる文明化されていない民族は母系社会であることが多いですね。) 古ヨーロッパ「文明」はメソポタミア及び中東・西アジア地域の勃興とともにその姿を消してしまい、以降は男性原理に基づくインド・ヨーロッパ語族に属する民族がヨーロッパに進出していきます。しかしインド・ヨーロッパ語族の侵入を免れたクレタ島で古ヨーロッパ「文明」の後に興ったのがクレタ文明(ミノア文明)です。(BC2000-BC1400頃) 以下は余話ですが、クレタ文明の中からクレタ絵文字、線文字A、さらに線文字Aをもとにミュケナイ文明において線文字Bが発明されます。(線文字Bは解読されていますが線文字Aおよび絵文字はいまだ未解読です) 線文字A 頑張ってだれか解読してください。。笑 これらはみな音節文字であり、最終的には子音を1つの文字として表記したアルファベット(BC2000-1500頃できた原カナン・シナイ文字を最初としてフェニキア文字、ギリシア文字、ラテン文字と発展してゆく)にとって変わられることになるのですが、では文字の起源はいつやねんと問い詰めていくと、現在ではシュメールの絵文字(BC3500頃)が最古とされていますが、古ヨーロッパ「文明」の1つであるビンチャ文化時代(BC5000頃)に絵文字らしきものが見つかっています。もちろん意味はわかっていません。しかしこのことからも当時の古ヨーロッパの文化が相当に進んだものだったことが想定できるのです。後に起こるギリシア文明はこの女性的な古ヨーロッパ「文明」と男性的なメソポタミア系統の文明が混合した独特なものになっています。ギリシア神話の神々の名前の由来や位置づけなどにその根拠を求めることができます。
ひるがえって日本の縄文時代。1万年も続いた縄文時代は草創期から晩期までの6つの時代に区分され、有名な青森県の三内丸山遺跡は前期中頃(BC3500)から中期末(BC2000)にわたって1500年もの間連続して存在した日本最大規模の縄文集落の1つです。当時の北海道の石狩平野から東北地方北部は円筒土器文化圏と呼ばれる共通の文化を有し、大規模な集落が前期から中期にかけて数多く存在していました。農耕は行っていませんが、植物栽培は知っていて豊かな食生活を営んでいました。三内丸山遺跡はかつては植えられたクリ林にすっぽり囲まれていたようです。樹木が生い茂り植物資源の豊富な日本の風土は当時、世界でも有数の恵まれた自然環境だったのです。これまで言われていたように食料を求めて彷徨っていたというのは完全な誤りで、食生活はかなり安定したものでした。一種の分業やリーダー的階層の存在も示唆されていますが、現在のようなはっきりと固定化した階層は存在していなかったと見られています。 縄文時代の早期から中期は定住生活が確立した時代で、縄文文化を代表する土器も種類や数を増していきます。その頂点が三内丸山遺跡に代表される中期末の大規模集落で500人程度の人々が暮らしていたと考えられています。
(異常なまでに発達した縄文時代中期の東日本が急速に崩壊した理由はなんだたったのでしょう。) これまでの日本の縄文時代の解説書をひもとくと縄文時代の慣習に関しては「豊饒祭祀」という言葉で何でもかんでもまとめられているのですが、実際のところ当時の彼・彼女らは何を考え世界をどのように捉えていたのか、ものすごく知りたいです。豊饒祭祀って結局何やねん、と。今後の勉強(研究)課題です。 また、新石器時代以降の人類の発展は地球の気候変動と密接に絡んでいます。新石器時代の始まり(日本では縄文時代の早期)は氷河期が終わり間氷期に入って気候が温暖化した時期と一致します。一時は今より暑い時期もあったようです。そして現在も、氷河期と氷河期の間である間氷期の最中なのです。なので明日から氷河期に戻る可能性もゼロではありません・・。 古ドライアス期、新ドライアス期と呼ばれている期間が気候の寒冷期になります。100年で気温が6度下がったとか。そしてその末期には50年で7度気温が上がったとか。氷河期の終わり(BC8000頃)とともに人類は一気にその文化を多様化させていくのです。 たまには、人類の歴史を空の上から眺めてみるのも面白いですよ♪ 笑
以下はおまけ。。
たぶんこの像を作った人は突出して芸術的才能があったのでしょう。
(次の日起きて大幅に文章・年号直しました。やや二日酔い気味。)
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