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カテゴリ:花巻市民の暮らし
(↑写真は浄土ヶ浜(宮古市)。去年の夏に撮影) 3月11日から、今までのことを、忘れてしまわないように、書き残しておこうと思う。 11日は金曜日。その日は、勤務先の美術館で仕事をしていた。たまたま運よく利用者を本体施設に送る業務からは外れることができて、ちょっとウホウホの午後、岩手日報による企画展の取材があって、その対応が終わって、私は書類のプリントアウトをしようと思ったところだった。 ピピピピ……という聴き慣れない電子音が鳴って、なんだろうと思ってたら、近くにいた利用者のCさんが、「もっちさんの電話が地震だっていってるよ」と。 昨年暮れに買い替えたばかりの携帯電話。私はいつもマナーモードにしていて、着信音すらろくに聴いたことがないので、そもそも音が出るはずがない。おととい(9日)の釜石沖地震の時には鳴らなかった。でも、auとかで地震を知らせる機能有ったなぁ……。ということで、去年東京で会議があったときに、そういう場面に遭遇した……。なんてことを思っていると、揺れた。 大きな力に建物が揺すられている感じだった。そりゃそうだ。地震なんだもの。 でも普段感じている地震がけいれん程度なら、今回の地震はメトロノームの針先にでもいるかのような振られ具合。すげースイング感。 とりあえず同じ部屋にいた利用者8人に向かって叫ぶ「机の下!」。私の剣幕に気圧されて、彼らは目を丸くしながら揺れる床面を這いつくばるように机の下に入る。揺れは収まらず、彼らはまだかといった面持ちで机から出てこようとするため、私はそこに目を光らせ「まだ」と叫び続けた。そういう私自身が机の下に入らないんだから、そりゃ彼等だって大丈夫なんじゃないかと思うわな。 やがて、棚の書類やファイルは床に散乱し、立てかけてあったすべてのものが倒れ、蛍光灯のカバーが落下し、天井板も一部が破損し、室内は埃だらけになり、口の中はジョリジョリした感触だらけになった。 あとは建物が倒壊しないことを祈るしかなかった。すぐそこに非常口があるのだが、随分遠く感じられた。 いったいどれほど揺れただろうか、やがて揺れはおさまり、床面は様々なものが散らかって、全く見えなくなった まずは屋外へ出なくては。 隣室のメンバーの無事も確認し、それぞれ外に出ることにした。下駄箱も倒れ、外套も見当たらない状況だったが、余震の恐れもあるため、ぜいたくは言えない。ぐずる方もいたが、命の方が大事だ。外へと促す。 結局、メンバーは施設の方へ戻ることにし、残された私と何人かのスタッフで、館内の後始末をすることになったが、いかんせん電気も途絶え、寒く、暗くなった室内、頻繁にくる余震といった状況では作業がはかどるはずもなく、私の車で暖を取りつつラジオで情報の収集などして過ごした。そのころはまだ、そのうち電気が復旧して、館内が片付けばすぐに元の日常に戻れると思っていた。 9日の地震では、驚くほどスピーディーに情報を得られたツイッタ―を今回も頼ったが、あまりの地震の大きさゆえか、あまり欲しい情報はなかった。あげく9日の地震で私がつぶやいた「田野畑村震度2」に食いついてくる輩や、デマとその応酬にあけくれる輩もいて、案外あてにならないものだなと。そのあたりはまたいずれ。かといって、iモードもたかが知れている。ラジオはうわごとのように大きな地震がありましたとしか言わないし。 結局その日は17時ころに解散となり、私は近隣に住む職員1人を今で送ってから家路についた。信号が止まったせいで、渋滞する道をのろのろ帰る。真っ暗な私の部屋は、やはり凄惨な状況になっているようだったが、とりあえず直視しようとはしないで、寝床の確保にあたった。電気はだめだが、水道とガスは生きていた。給湯はだめ。 夜8時、車で高校時代の担任がやっているコンビニに行った。とりあえず無事っぽい。店内は酒瓶が倒れて割れた影響で酒臭かった。100円のスナック菓子をいくつか。真っ暗な店内で手に取る。電池も、何もなかった。 あとは、車内でいくらか充電した携帯の電池を振り絞って、何人かの人にメールで無事を伝えた。 それすらもなかなか行き届きにくくはあったが。 携帯がこと切れると、もはや何時かもわからなくなるのに任せて、眠りについた。余震のせいであまり深くは眠れなかった。 12日の朝を迎えた。 この日は、地震がなければ、紫波の工房に行って、陶の作品が焼きあがったのを回収するはずだったが、おそらく粉々だっただろうなと思う。なんといっても、我が家がそういう状態だから。 生きものっぽい作りにしてしまうと、割れた時に、哀しさが募る。無機な器を作ってればよかったのかと悩む。一方で180cmの書棚上から落下したにもかかわらず無傷だった子もいて、奇跡に感謝する。 結局どこにも行けず、寒くて暗い部屋の中で毛布がお友達状態で過ごした。 明るくなって、充電器が見つかったので、携帯が一時的に復活した。 群馬に住む友人から電話。今まで見えなかったさまざまな状態が伝わってきた。 日本で過去最大、世界で5番目(のちに4番目)に大きい地震と聞いて、笑ってしまった。あはは。そんなタフな地震で生き延びて、これからどうしろというのだ。 夕方明るいうちに近所を車で流す。ガソリンスタンドは閉じている。給油不可能。ガソリン残量は心細い。明日の通勤に陰り。 夕方16:30日没前まだ明るいうちに摂った夕食はうちにあったスープとどん兵衛で。電気が通えば、すこしは光がさすはず。 19:00、花巻市の時報のチャイム「星めぐりの歌」が聴こえた。真っ暗な夜空に響く、希望の音色。盛岡や北上で電気が徐々に復旧しているという報せもあった。やがて、携帯の再充電もこと切れ、完全な闇と静寂の中に身をゆだねた。 夜11時ちょっと前に、電話機の間抜けな電子音が鳴って、電気が開通した。蛍光灯に明かりが灯る以上に、心に光がさす。 唯一、世間と自分とをつなぐ架け橋の携帯電話にも充電する。 その間にも寄せられていたメールとつぶやきに感謝する。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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大変でしょうが、どうか出来るだけお体を大切になさってください。すぐにでも行きたい気持ちです。少しでも、何でもいいので出来ることがあれば声をかけてくださることを待っています。ご自身も、美術館も、作家の皆様も、僕たちにとってとても大切な人と場所ですから。
(2011年03月15日 21時05分31秒)
大変だとは思いますが記録として必要な事だと思います
どんな小さなことでも記録しておくことはきっと何かに必要だと思います 会社の子の携帯がバイブにしてあるのに鳴りだしてびっくりしました 緊急地震速報だそうです (2011年03月15日 21時33分11秒)
揺れは内陸の方が激しかったのか?
職場のライフラインも今日までに復旧しました。物資の供給が不安です。 (2011年03月15日 21時33分55秒)
やまなみ山下さん
この度はいろいろご心配おかけしてすみません。お心遣いありがとうございます。 なんだかんだ不便はしていますが、皆元気に頑張っています。 津波や原発というもっと困難な事に立ち向かっている人たちもいます。 そんなことにも心を寄せて、今日も明日も粛々と。 というような今日この頃です。 一件落着したら、みんなで何かできるといいですね! (2011年03月18日 01時29分10秒)
T.T.2さん
おぉっ。ご無事で何よりです。 内陸は、地盤と建物次第でどうにでもという感じのようですね。 これからが本当のサバイバルの予感です。 無理せず、じっくりいきましょう! (2011年03月18日 01時31分53秒)
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