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現実を超える力~「言葉の箱」


生命のシンボル

 自分がいつもそこに身を置けば、どんなに宇宙が崩れようと、平気だ、と思える、また、そこに身を置けば、楽しく、いきいきとしていられる「生命のシンボル」を発見し、それを伝えたい、辻邦生はいっている(『言葉の箱 小説を書くということ』メタローグ)。それは、その人の生きる根源の力、ひとつの信念、確信となっている。

 人生は一度きりである。だから、「あしたもあればあさってもあれば、きのうもあって、きょうなんてどうでもいいや、ではダメなんです」と辻はいう。今のこの世界からしか生命のシンブルはつかめないし、本当の創造力も生まれてこない。

「これは肝に銘じて、ほかのことは忘れてもいいから、あなた方の生きているという大事さを、今夜寝るときに一人でよく考えてください」

現実を超える

 辻の表現を借りると、何か(人のこともあれば、学問のこともあれば、風景のこともある)と「in love with」な状態、「恋仲のような状態」にあれば、与えられた現実を超えることができる。生命感が高まり、喜びの感情、勇気の充実した感じを持つことができる。

 数学を専攻している友人がこんなことをいっていたのを思い出した。数学の問題を考え始めると夢中になってはっと気がついたら三日三晩が過ぎている、と。

 電車に乗っている時に今まさに日が沈もうとしていて空が赤く染まっていても見ている人はいない。皆うつむいている。身体は疲れ果てていても、このような美しさに気づけるのとそうでないのとでは大きな違いがある。

 ある時は目の前にいる人の顔に見とれる。どうしてこの人はこんなに美しいのか、と。

 このような「自分の好きな世界」が、「ぼくたちの日常の退屈であったり、不幸なものに満ちていたりしても、モノトーンだったり、無感動だったりという現実を超えて存在して、現実に対して絶えずそれが力を与えてくれる」

「何かおもしろいことない?」と問われると驚いてしまう。おもしろいことは不断に見出すことができるから。

僕の生命のシンボル

 僕にとって仕事がそれではないか、と思うとちょっと複雑な気持ちである。毎日、寝ている時間のほとんどすべてを費やしているのは仕事である。仕事というとあるいはうまく僕の意図が伝わらないかもしれないのだが、ずっと何か考えたり、本を読んだり、書いたりしている。

 そのために使うコンピュータはこのような僕の仕事には不可欠なものである。コンピュータを使い始めてもう何年くらいになるだろう。ワープロの専用機を買ったのが博士課程に入った年だからもうずいぶん前のことになる。やがてマッキントッシュを買った。日本語もまだ自由に使えるとはいえなかった頃のことである。

 やがてコンピュータを電話につなぎ、アメリカのパソコン通信のネットワークに入ったりした。メールをやりとりする人ができ、一瞬にしてメールが海の向こうの友人たちに時空を超えて届くことの不思議さに感動した。コンピュータは文字通りpersonal computerになった。機械なのだがディスプレイの向こうに人の息遣いが感じられるという意味である。

言葉の箱

 今度出版された辻邦生の講演集には『言葉の箱』という題がついているのだが、この言葉の出典を講演の中に見つけることができる。

 辻は、ヘミングウェイが第一次世界大戦に志願し、看護兵としてイタリア戦線に従軍した時のことを『武器よさらば』に書いたのは十年後だったという話を紹介している。

「つまり、それ(イタリア戦線の出来事)を追憶の中に全部入れてしまった。現実のイタリアの戦線、ウーディネという町から見たアルプスの姿、雨の降っているミラノの町などは、まったく自分のなかから消えてしまって、そういうものを引き出すときは、自分の心のなかで、ミラノの夜の雨がどうしても書きたいと思うまで待つわけです。ですから、そこで書かれたミラノの雨は、彼が実際に経験した雨ではない」

 事実を書くのではなく、自分の想像力が生んだイメージによって書くのである。ただの事実あるいは日常性の描写に終始したら文学にはならないだろうし、ラブレターにもならない。事実や日常性を超えるものが書いてあればこそ小説を読み心動かされ、ラブレターを読みたちまちにあなたに惹かれていくのだ。

「かつての思い出、かつてのたくさんの出来事、パリでの恋愛事件、雨のしぶきも全部自分の心の中から出てきて、それが「言葉の箱」のなかに入れられていけば、必ず力強いものが生まれる」

 僕が書くのは小説ではないが、過去の出来事を繰り返し繰り返し書いたり講演で話している。時々本当にこんなことがあったのだろうか、と思うことがあるのだが、辻の考えによれば、そういうこともよしとされるということである。

 辻に大きな影響を与えた哲学者の森有正の言葉を借りると、過去の一度きりの出来事を何度も同じようにしか話さない「体験」ではなくて、言葉の箱の中でいわば発酵し、過去の一度きりの出来事であっても、絶えず、その出来事の意味を反芻し新たな意味を見出していくような「経験」にしていかなければならない。

 そのような経験は、現実が不幸や苦悩に満ち満ちたものであっても、それを乗り越えさせる力を持っているのであり、日常性を超えたところでそういう経験を書いていくところに文学の意味を辻は見出している。

写真は何を写すのか

 辻邦生はこんなこともいっている。カメラという媒体を通して現実を記述しただけの写真はつまらない、と。プロのカメラマンは、ある日付に起こった事実的な内容を伝達するのではなくて、例えば、家族の写真を撮る場合、その家族の全体の姿をとらえる。そのような写真は「事実としての現実」「情報の内容としての現実」ではなくて「そのものが語りかけてくる感動を何とかしてカメラに定着しようとする」そのようにして、現実ではなく、一つの感動、畏れ、情緒が生まれてくる、と辻はいう。

 辻は写真を例にとってさらに小説について論じるのであるが、僕は必ずしもプロのカメラマンが優れた写真を撮れるとは思わない。証明書の写真を撮る時、自分でカメラに向かって撮る方がよほどいい写真が撮れるように思う。

 もっとちゃんとした写真を撮ろうと椅子にすわってフラッシュをたいて撮ってもらった写真が思いがけずそれほどいい写真にならないとすれば、カメラマンが被写体である人についてほとんど何も知らないからである。顔という「現実」を撮ればいいわけではない。

 優れたカメラマンならわずかな時間の間に被写体である人についてその「全体」を知り、現実を伝えるというより、その人の(おおげさな表現をすれば)生き様まで見て取り、それをカメラに定着することができるであろう。

 写真を撮る技術はあるよりない方がいいが、では技術がなかったり、簡単なカメラで撮影するのであっても、その人のことを普段からよく知っている人であれば、プロのカメラマンよりも優れた写真を撮ることは可能であろう。なぜならその人の撮る写真は「現実」を写したものではないからである。愛している人なら、他の誰も知らないその人の表情、そしてその表情から自分が感じる心の動きまでとらえることができるかもしれない。

自分の好きな世界こそ現実

 辻邦生の『言葉の箱』(メタローグ)。自分が好きなことがあって、その中にのめりこでいるとそういう自分の好きな世界こそが現実で、他の現実は「仮の現実」であると思えるようになってくる、と辻はいう。

 このような世界、「この世から一段と高い、好ましいものに満ちた世界」をイマージュ(image映像)としてつかんでいく。すると自分という狭い視野、狭い世界から離れて、より大きなものの中に生きることになる。

「そうすると、自分に与えられた環境、自分が不幸な生まれであるとか、病弱であるとか、お金がないといったことをほとんど乗り越えられる」

 そういうものが気にならなくなるからである。プルーストの言葉を引いて、明日死ななければならないのに、ヴェネツィアにどうしても発ちたいという思いで胸が張り裂けるほどだ、という気持ちだといっている。(ヴェネツィアの)美のほうがはるかに「与えられた生きた条件」を超えて、本質的なものになる。

 このような現実を超える力、「上に行く力」が重要であることを辻はくりかえし説く。


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