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二人の関係をよくするために

ライフスタイルの問題

 友達だったら一緒に過ごして別れる時、次いつ会おうかと約束しなくても平気なのに、恋人だと次に会う約束をしないで別れたら心が落ち着かない。ジョン・ベイリーが(『作家が過去を失うとき』)結婚してからは、妻のアイリスがいなくて寂しいと感じたことはなく、その意味では向こうも同じだったと思う、と書いている。結婚前は理不尽な嫉妬の念に駆られていたというのに。
「相手に抱かれ、愛され、伴われながらもひとりきりでいること。心身ともに親密でありながら、接触そのもののように心がぬくもる孤独のやさしい存在を感じていた」(pp.159-60)
 問題はベイリーもいっているように結婚してどんなふうになるかは結婚しないとわからないことがあるということ。
「結婚がどんなものかわかるには結婚するしかないのだ」(p.60)
 結婚しても時に結婚する前よりも嫉妬心に駆られる人もいるかもしれないし、ベイリーとアイリスのような「孤独の喜び」を享受するカップルもいるかもしれない。あるいは、急速に相手への関心を失ってしまうということがあるかもしれない。
 結婚して幸福にならなければ意味がないと思うが、どんなふうになるかが結婚してからでないとわからないというのではリスクはあまりに大きいように思う。
 そのリスクを回避するために結婚する前に一緒に暮らすということも有効だとは思うが、そういう方法ではなくて結婚する前に結婚後起こりうることを予言するようなことができれば事前にもしも何か問題が起こることが予想されるならば回避のための手続きを取ることは可能であろう。
 そのためにはライフスタイルを見ていくしかないだろう、と僕は考えている。この自分のこと、まわりの世界のことをどんなふうに見ているか、何か問題に遭遇した時にどんなふうに問題を解決しようとするか…こういうことを内容とするライフスタイル(一般的には「性格」と呼ばれている)を自分でも知り、互いのライフスタイルを知ることは仲良く生きていくために重要になってくる。
 結局、ライフスタイルしかない、と思ってしまう。お金があろうがなかろうが、親と同居していようがいまいが、子どもがいるとかいないとか、そういったすべてのことは外回りの条件で、二人の関係に大きな影響を与えるかもしれないけれど、二人の関係を決めることにはならない。互いのライフスタイルを知り、必要があればそれを変える決心をし、その方向に向けて努力する、あるいは、今のライフスタイルについて共に生きていくために必要な調整をしていく必要があるだろう。そしてまさにそのことを二人が共に生きていく過程において試行錯誤して行っているのである。

ソクラテスの妻

 ソクラテスの妻、クサンティッペは悪妻として知られているが、プラトンが伝える彼女はごくノーマルである。いよいよソクラテスが死刑に処せられるというその日、子どもたちを連れて獄にやってくる。一番、幼い子どもはまだ乳飲み子である。ソクラテスはこの時七十歳だった。いよいよソクラテスが死ぬことを思って泣き出す。連れて帰るようにとソクラテスは命じているが、こんな時泣かない方が不思議である。
 このようなクサンティッペであるがディオゲネス・ラエルティウスが伝えるソクラテスはクサンティッペを恐れている。もっともソクラテスも相当ひねくれているように思える。無実であなたが死ぬのは悲しいという彼女に、ではあなたは私が有罪で死ぬ方がいいのかと切り返す。心配する彼女にこれはないだろう、と思ってしまう。
 ソクラテスは妻を恐れたゆえに家にはいようとはせず一日中外で青年たちと議論を重ねていたという。僕は妻を恐れたゆえにというのは本当ではないと考えているが、ともあれこのエピソードを聞いて、悪妻を持つと男は出世するというようなことをいう人がいる。早々に家に帰ったりせずに可能な限り残業し、休みの日も出勤するからだという。こんな話がまことしやかに語られたのは景気が良かった時代のことであろう。
 家にいないでおこうとすることなど結婚した当初には考えられなかったことであろうにどうしてこんなことになったのか。もしもこのような事態を回避するためには二人の努力が必要である。どちらか一方が被害者であるとは思えないからである。

権利の主張

 誰かとつきあうとか一緒に暮らすというときそれまでとまったく同じようでいることは事実上不可能である。どんな関係になるかはもちろんカップルによって違うが、例えば、カップルのどちらかがなんらかの権利を主張するのであればそれと同じ権利を相手にも認めるのでなければならない。他の人と二人で会わないでほしいと思うのなら自分もそうしてはいけない。私は他の人と会ってもいいがあなたがそうしてはいけないと主張する権利はない。もしもこんなふうに決めることが互いに不自由なことであるというのであればこのような権利の制限を撤廃すればいいのである。しかし、その際、相手も自分と同じように誰かと二人きりで会うことを認めなければならない。
 次に権利を主張する時相手を傷つけていいということにはならない。人を殺す権利がないのはいうに及ばず、相手を罵倒したり相手が傷つくような言い方をする権利はないのである。

あなたは自由であってほしい

 何かの権利を主張するのであればそれと同じ権利を相手にも認めなければならないということを書いたが、私が相手にしてほしくないことがあった時それを相手に「しないで」と主張するほど支配的であってはならないと思う。私が相手にはそうしてほしくないのあれば、この私はそんなことをしないでおこうと決心するということはできる。それしかできない。もちろんすべてをビジネスライクにとらえたらこのように主張することも可能ではあるが。
 権利の制限という言葉を使ったが、こういう意味である。誰からも何の制限も受けることなく、自由に生きたいと思う。しかし二人で生きるのであれば完全に自由であるということはありえない。何らかの意味で権利は制限されないわけにはいかない。しかし、なるほどこれくらいの権利の制限は二人が共に生きていく上でやむをえないと納得できるのであればそのような権利の制限を受け入れることができる。
 この時、二つのことを考えることができる。一つは制限の内容の合理性。二人が仲良くなれるために必要だと判断できるようなことであれば二人が納得して制限を受け入れることができる。相手を所有あるいは支配しようとするような意図があって提案されるような権利の制限はかえって二人の関係を損なうことになりかねない。
 例えば、他の男性、あるいは、女性とは一切口をきいてはいけない。これはどうか。実際問題としてこれは守ることは不可能であるし、口をきかないことが二人の関係に影響を及ぼすことだとは思えない。
 しかし、他の男性、あるいは、女性以外の人とはセックスはしない。これはどうか。セックスは親密なコミュニケーションだと僕は理解しているが、他の男性、女性と仕事上の、あるいは意見は分かれるだろうが、友人としての会話はいいとしても、他の人と親密なコミュニケーションをすること、あるいは、そのような親密なコミュニケーションを他の人とすることが必要だと感じられることは既に二人の関係に何か問題があることを示していると考えられる。
 次に権利の制限が合理的なものであることがわかったとしても、この人と共に生きようという強い意志がなければ制限しようとすらそもそも思わないであろう。この人のためならしたいことでもあきらめられるくらい相手のことを大切な人と思っているかどうか。あの人のためにそんなふうに思えないのであれば関係そのものを見直す必要があるだろう。
 もちろん、以上のことも私の側の態度決定のことであって、相手に要求することはできない。むしろ相手は可能な限り自由であってほしいと思う。私は何らかの権利の制限をよしとするが、相手にはそのことを要求しないで可能な限り自由であってほしいと思う。他方、相手もこれと同じように考え、自分は権利の制限をよしとするが相手には自由であってほしいと願うのであれば二人の関係はうまくいくだろう。

二人の間にルールを作る

 二人でルールを決める。そのルールが二人が共に生きるために、あるいは、私とあなたの作る共同体が維持されるために必要であると互いに納得できるなら権利の制限を内実とするルールであっても守られるだろう。
 ここでルールということばを使ったがそもそもルールというようなものが必要なのかという疑問を持つ人が多いのは知っている。二人の間にルールなんてそんな水くさいというわけである。しかし、ルールは二人の関係を窮屈にするためのものではなく二人の関係をより快適にするためにある。適切でないルールがあるというよりはルールそのものが存在しないカップルは多い。ルールが形骸化してしまっていたら意味はない。イエスが律法主義を否定する一方で、聖書の一点一画までも成就されるために私はきたといったように、ルールがそのために存在する理由、つまり、二人が仲良くするという目標は見失ってはならないし、それを実現するためにルールは存在するのである。
 関係がうまくいっていないカップルにはルールを作ってもらう。かてて加えてコミュニケーションの取り方の練習をしてもらう。概して、相手を思う気持ちはあってもそれを適切に表現する手段が上手ではない。この点についてはこのHPの日記でもしばしば書いてきたとおりである。

守られないルール

 二人の間のルールはいうに及ばず、共同体にあるあらゆるルールについてそれが守られるための条件がある。
 まずルール作りに自分もかかわったという意識がなければならない。知らない間に決まったルールは誰も守らない。二人のルールであれば二人が協力して作りたい。このルールは未来永劫にわたって有効というわけではなくて、しばらく守ることにしてもしもうまくいかなければ改定するという約束にしておけば暫定的にルールを守ることに協力しようと思える。
 ルールに限らないが事後承諾を好まない人いる。内容には実はあまり関係がなくて手続き上自分が知らないところで決まったことをよしとはできないのである。今度彼と暮らすことにしたから、と親にいった時、このような手続きにこだわる人は介入しようとする。我々の課題であって親の課題ではないというのはその通りだが、早い段階から報告をしておいたほうが賢明かもしれない。
 二つ目は例外特権階級がないこと。ルールを守らなくていい人がいたらそのようなルールは守られないのである。二人の間のルールの場合は、あなたは守るべし、でも私は守らないというのあればアンフェアなルールだといわなければならない。
 三つ目はすでに見たように内容の合理性である。これくらいの権利の制限であれば共同体が維持されるためにはいたしかたがないと納得できるルールであれば守られる。それ以外の目的のためにルール、例えば、支配するためにルールが作られるのであれば守られなくて当然である。なんの疑問もなく守られているとしたらその方が問題といっていいくらいである。校則で定められる服装規定などは共同体の維持には何も関係がない。

関係をよくするために

 この人を愛しているというだけでは長く関係を続けることはむずかしいと思う。初めからけんかばかりしているカップルがあるとは思えない。あるいは、先にも書いたように急速に相手への関心を失ってしまうということもある。いずれの事態も回避するためには、適切なコミュニケーション(これについてはこのHPの多くの場所で書いている)と、適切なルールを作ることが有効である、と考えている。技術やルールはともすれば二人の愛にいわば水をさすものであるかのように可能ならばなしですましたいと思われることもあるようだが、関係をよくするためにこれらは必須である。当然、関係をよくすることが技術とルールを使うことで達成される目標なので、もしもこれらによって関係が悪くなったり、あるいは、窮屈なものになったとしたら再検討の余地はある。


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