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cozycoach@ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…

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遠くへ行きたい
2025.05.24
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 佐久間象山は、江戸時代後期の信州松代藩士で、兵学と朱子学に長けた思想家です。
 ”佐久間象山”(2022年7月 吉川弘文館刊 源 了圓著)を読みました。
 幕末に開国と海防を訴えて西欧の近代科学を積極的に受容すべきと説いた、時代の先覚者である佐久間象山の生涯を紹介しています。
 通称は修理といい、諱は国忠、のちに啓、字は子迪、後に子明と称しました。
 洋学、蘭学、砲術、造艦、天文、医術、あらゆる分野に最先端の深い知識をもっていました。
 幕末の天才と呼ばれ、当時の日本最高の知識人と言われていました。
 1811年に松代藩士の佐久間一学国善の長男として、信濃埴科郡松代字浦町で生まれました。
 佐久間家は微禄でしたが、父は藩主の側右筆を務め卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていました。
 母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘で、国善の妾に当たります。
 象山は、父が50歳母が31歳の時に生まれた男児でした。
 1824年に、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学びました。
 1826年に、佐藤一斎の門下生だった鎌原桐山に入門して経書を学びました。
 1833年に、江戸に出て林家の塾頭の佐藤一斎の門下となりました。
 林家は、林羅山を祖とする日本の儒学者・朱子学者の家系です。
 のち帰郷しましたが、1839年に再び江戸に出て、神田お玉ヶ池付近に塾を開きました。
 さらに、松代藩の江戸藩邸学問所頭取なども務めました。
 このころ、松崎慊堂、藤田東湖、渡辺崋山などと交流しました。
 源 了圓さんは1920年熊本県宇土市生まれ、第五高等学校を経て京都大学文学部哲学科に進みました。
 1948年に同大学を卒業し、同大学大学院に進学しました。
 京都学派の田辺元や西谷啓治に学び、梅原猛と親交を結びました。
 日本女子大学文学部教授を経て、東北大学文学部教授に就任しました。
 1981年に、学位論文を東北大学に提出し文学博士となりました。
 1984年に東北大学を定年退官となり、名誉教授となりました。
 その後は、国際基督教大学教授として教鞭をとりました。
 2001年に、日本学士院会員に選出されました。
 並行して、コロンビア大学・北京日本学センター・オックスフォード大学などで客員教授を務めました。
 佐久間象山は、若い頃は朱子学を学んでいましたが、藩主・真田幸貫の命令により洋学研究の担当となりました。
 1841年に松代藩主の真田幸貫が老中に抜擢されると、象山は海防顧問となり海防八策を提出しました。
 アヘン戦争の報により対外的危機に目ざめ、1842年に江川太郎左衛門に入門して砲術を学びました。
 大砲の鋳造をはじめカメラや地震予知機まで、洋書だけを頼りに自分で作り上げたという逸話も残っています。
 続いてオランダ語学習をはじめ、砲術教授の塾を開きました。
 そこで、勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、加藤弘之らを教えました。
 蘭学・砲学を入り口に、西洋学問の第一人者となり日本初の指示電信機による電信を行いました。
 ほかに、ガラスの製造や地震予知器の開発まで成功させました。
 西洋技術の摂取による、産業開発と軍備充実を唱えました。
 1854年に門人吉田松陰の海外密航の事件に連座して蟄居となり、洋書をむさぼり読びました。
 ペリー来航時は攘夷論を主張していましたが、のちに和親開国論者に立場を変えました。
 1863年に赦免となり、翌年幕命により上洛しました。
 当時上洛していた徳川慶喜に、公武合体と開国の必要性を説くことになりました。
 これにより、京都に潜伏していた尊王攘夷派に目をつけられることとなりました。
 1864年に、幕末四大人斬りのひとりである河上彦斎らの手により暗殺されました。
 7月11日の夕刻、路上を馬に乗って通りかかり、刺客に襲われて斬られ即死したといいます。
 松代町の西南には象山生誕の地が残り、隣接して象山を祀った象山神社があります。
 近代日本における西欧文明への対応には、二つの型がありました。
 第一は、いかなる意味においても西欧文明を排撃しようとするものです。
 第二は、日本の取るべき進路は積極的に西欧文明を受容することにあるとするものです。
 アーノルド・トインビーに従うと、第一のタイプの人々はゼロット(熱狂的排外主義者)、第二のタイプの人々は耐え難きを耐えるヘロデ主義者とみなされるでしょう。
 象山は、ヘロデ主義者の代表ともいうべき人でした。
 西欧の科学技術文明を積極的に受容することによって、西欧諸国の圧力に抵抗して自国の独立を守ろうとしました。
 したがって、象山は両義性をもつ日本の近代科学技術文明の型をつくった人と言ってよいといいます。
 近代日本の優れた面もそこに潜む問題点も、自分の生涯に集約的に具現しました。
 しかしその範囲だけでは、象山の歴史的個性や日本の西欧文明受容の個性は明確にはなりません。
 大切なのは、象山がどんな仕方で西欧の科学技術文明を学び、それを受容しようとしたかです。
 ここまで問題を深めてはじめて、歴史的意義も日本の近代化の特性も明らかになります。
 本書の初版は、PHP研究所の歴史人物シリーズの一冊として刊行されました。
 温厚篤実な人格者の著者が、変人奇人と評される象山を扱うのは意外かも知れません。
 著者は江戸時代の実学思想史の研究において、幕末期を代表する重要人物として早くから象山に着眼していました。
 それゆえ象山理解は本格的で、実学史研究のさまざまな作品の中に象山研究の成果が織り込まれています。
 著者は、長年の実学思想史研究の中で得たエッセンスを、簡潔平易な文体をもって要約しています。
 象山の地元史家の、長年に亘る地道な研究の産物です。
 本書は、著者が象山になり代わって象山という人間の人と思想を簡潔に語った伝記と考えられます。
 「序章」と、「象山の生い立ち」「儒者の時代」「兵学への開眼」「黒船来航」「聚遠楼の日々」「上洛とその死」の六章で構成されています。
 さらに各章の中が五話前後に区分けされ、全体が「五〇話」で完結しています。
 すなわち、五十面体の象山像を読みやすさ理解しやすさに配慮して書かれた象山の伝記です。
 読み進めると、変人奇人と言われた象山の虚像が覆され、長短を併せ持つ個性豊かな象山の実像が浮かびます。
 コメンテーターの坂本保富氏は、本書は象山の思想と行動の全体像を描写した、象山研究の啓蒙書といえるのではないかといいます。
序章 佐久間象山への視覚/第1章 象山の生い立ち/第2章 儒者の時代/第3章 兵学への開眼/第4章 黒船来航/第5章 聚遠楼の日々/第6章 上洛とその死

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Last updated  2025.05.24 10:21:35
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