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遠くへ行きたい
2026.06.06
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ー高麗福信 (こまのふくしん)は、709年武蔵国高麗郡生まれの奈良時代の渡来系の官人です。

 ”高麗福信”(2026年3月 吉川弘文館刊 荒井 秀規著)を読みました。

 聖武天皇から桓武天皇まで6代の天皇に仕え、地方出身の渡来系官人として異例の出世をしました。

 この高句麗系三世の渡来人の、高麗福信の生涯を紹介しています。

 氏姓は背奈公といい、のち背奈王、高麗朝臣、高倉朝臣と称しました。

 高句麗王族と伝承される、背奈福徳(せなのふくとく)の孫です。

 父親については、実名が確実な史料に出てこないため不詳です。

 福徳は第19代高句麗王・広開土王の後裔で、その七世の子孫の延興王の子孫といわれます。

 668年に高句麗が滅亡したことから倭国日本に亡命し、のちに武蔵国に居住しました。

 渡来人は、主として古代に朝鮮・中国より日本に移住してきた人々を指しています。

 武蔵国には、高麗郡・新羅郡などの渡来系の地名が残っています。

 高麗郡は、高句麗系渡来人を集住させた郡として知られています。

 福信は少年のころ、明経博士として聞こえた叔父・背奈行文に従って上京しました。

 背奈行文(せなのゆきふみ)は福徳の子で、武蔵国高麗郡に居住していました。

 後に上洛して、学問を生かして朝廷に仕えました。

 721年に正七位上・明経第二博士となり、727年に正六位上から従五位下に昇叙されました。

 福信は、上京して間もなく夕方に、同輩と大和国山辺郡石上郷近辺で相撲を取ったそうです。

 すると、力を巧みに使って相手をよく倒し、その評判が朝廷にまで届きました。

 召されて内豎所に近侍することを命ぜられ、福信の名が知られるようになりました。

 そして、相撲の力を認められて出仕し、右衛士大志となりました。

 これをきっかけに立身出世の道を歩み、ついに従三位の公卿にまで昇りつめました。

 荒井秀規さんは1960年東京都生まれ、1993年に明治大学大学院博士後期課程を単位取得満期退学しました。

 その後、藤沢市役所郷土歴史課学芸員、日本高麗浪漫学会副会長を務めました。

 現在、明治大学兼任講師、駒澤大学大学院非常勤講師を務めています。

 専門は歴史考古学で、古代相模の渡来人・帰化人、古代東国社会、寺院や道路などを研究しています。

 渡来人は、古代に日本に渡来し住みついた人びとです。

 4世紀後半から大和朝廷が南朝鮮に進出すると、捕虜や人質として技術者や知識人が渡来しました。

 そして、漢字をはじめ学問・芸術・宗教や統治技術・産業技術を伝えました。

 7世紀後半には百済・高句麗の滅亡で渡来人が増加し、律令国家の形成に寄与しました。

 朝廷は渡来人を各地に分散移住させ、その一部を東国へ配置したとされます。

 武蔵国など東国は、当時、未開地が多いと認識されていた地域です。

 渡来人は開拓民として、対蝦夷戦略の一部として、軍事・防衛力の補強要員として期待されました。

 高麗福信は、日本で生まれた高句麗系渡来三世で、早くに父を失ったと思われます。

 福信は少年の頃、伯父で学者の肖奈行文に伴って平城京に上りました。

 青年となったころ、折から相撲ブームとなりました。

 福信が相撲巧者だという評判が宮中に達し、聖武天皇の身近に召し抱えられました。

 738年に従六位上から三階昇進して外従五位下に、739年に内位の従五位下に叙せられました。

 743年に正五位下・春宮亮に叙任され、皇太子・阿倍内親王に仕えました。

 747年に同族7名と共に背奈公から背奈王(こにきし)姓に改姓しました。

 聖武天皇の寵遇を受けて順調に昇進し、748年に正五位上に至りました。

 749年に仕えてきた阿倍内親王が即位し、孝謙天皇となりました。

 福信は、同年7月に従四位下・中衛少将兼紫微少弼に叙任が、11月に由機須岐国司に叙位が行われました。

 そして、従四位上に昇叙されるなど昇進し、750年に同族5名と共に背奈王から高麗朝臣に改姓しました。

 756年に聖武上皇が崩御すると、山作司(やまつくりのつかさ)を務めました。

 山作司は、天皇の墓を造営・管理するために設けられた古代の役所です。

 その後、福信は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇、桓武天皇に仕えました。

 756年に、地方官の兼務が山背守から武蔵守に遷任しました。

 武蔵守在任中に、武蔵国分寺を築いて武蔵国内に新羅郡を設置しました。

 757年に、正四位下に叙せられました。

 同年の橘奈良麻呂の乱では、藤原仲麻呂に従い橘奈良麻呂派の小野東人・答本忠節らを追捕しました。

 淳仁朝では、760年に信部大輔に任ぜられ、のち内匠頭も務めました。

 763年に、但馬守として地方官に転じました。

 764年の藤原仲麻呂の乱での動静は不明ですが、乱後まもなく但馬守に再任されました。

 道鏡政権下では、765年に従三位・造宮卿に叙任され公卿に列しました。

 公卿は、太政大臣・左右大臣・大納言・中納言・参議など、三位以上の上級貴族官僚を指します。

 767年に、法王宮職が設置されるとその長官に任ぜられました。

 770年8月の称徳天皇崩御にあたって、装束司を務めました。

 装束司は、朝廷の儀式や天皇の行幸の際に、その衣装や設備の設営を担当する役人です。

 同年に、国守である武蔵守に再任されました。

 光仁朝でも造宮卿を務め、773年に担当していた楊梅宮を完成させました。

 その功績により、嫡男・石麻呂が従五位下に叙爵されました。

 779年に高倉朝臣の姓を許され、のち弾正尹で武蔵守を兼ねました。

 781年5月に弾正尹に遷り、12月の光仁上皇崩御に際して山作司に任じられました。

 783年に、三度めの武蔵守を兼ねました。

 785年に官職を退いて引退し、789年10月30日に81歳で亡くなりました。

 最終官位は、散位従三位でした。

 福信は、次のように異例の人であったといいます。

(1)地方出身の渡来人にして、従三位まで昇り公卿となりました。

(2)31歳の若さで、貴族である従五位下となりました。

(3)81歳の長寿、かつ途中数ある政変に連坐することなく、77歳に至るまで高官を務めあげました。

(4)聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武と6代5人の天皇に仕え、聖武・称徳・光仁の御葬司となりました。

(5)肖奈・肖奈公・肖奈王・高麗朝臣・高倉朝臣と、生涯に5つの氏姓を持ちました。

(6)武蔵国の国司に兼任ながら3回も任用され、子息石麻呂と同族大山も国司となりました。

(7)渡来系氏族として、初めて朝臣姓を下賜されました。

(8)皇族以外で、初めて皇室財産を管理する内匠頭となりました。

(9)57歳で従三位に叙されてから、辞職する77歳まで昇叙がありませんでした。

(10)任用資格の従四位下に達してから致仕するまで、36年間ついに参議になれず非参議に終わりました。

(11)孝謙天皇から賜姓された高麗朝臣を返上し、光仁天皇に希望する高倉朝臣への変更を認められました。

 著者は、(2)~(5)はわずかに類例があるが、(1)と(6)以降は福信ならではと言わねばならないといいます。

 福信は、地方出身者であると同時に、高句麗系三世の渡来人でした。

 福信の生涯の前半は、渡来人であることがアイデンティティーでした。

 後半は、その克服が福信の目指すところとなっていったといいます。

 本書は、そのような福信の長い人生をたどっています。

はじめに/第一 伯父行文との上京/第二 祖父福徳の渡来/第三 聖武天皇と福信/第四 肖奈から高麗へ/第五 橘奈良麻呂の変と福信/第六 山背守から武蔵守へ/第七 藤原仲麻呂の乱と福信/第八 高麗と高倉ー光仁朝の福信、二度目の武蔵守ー/第九 致仕と薨去ー桓武朝の福信とその後の高倉氏ー/第十 深大寺白鳳仏と福信/高麗福信関係系図/桓武天皇略系図/略年譜/東国渡来人年表/参考文献

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Last updated  2026.06.06 10:01:12
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