鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂(感想)
鳥居強右衛門=とりいすねえもんが歴史の表舞台に登場するのは1575年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていません。 強右衛門は奥平氏に仕えていた武士ですが、身分や、どの程度の禄をもらっていたのかなどははっきりとわかっていません。 ”鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂”(2018年9月 平凡社刊 金子 拓著)を読みました。 500の兵が立てこもる難攻不落の長篠城に攻め寄せる大群の勝頼軍を、「某にお任せ下され」と頭を垂れた名もなき侍の名が後世に伝わった理由を解き明かします。 資料によると、強右衛門は三河国宝飯郡内の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わります。 奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆でしたが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していました。 武田家の当主であった武田信玄が元亀4年4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び徳川家に寝返りました。 金子 拓さんは1967年山形県生まれ、1990年東北大学文学部国史学科卒業、1997年東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了、東北大学文学博士です。 1998年に東京大学史料編纂所助手、2007年に中世史料部門助教、2013年から准教授を務めています。 奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌、後の奥平信昌は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していました。 天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲されました。 5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていました。 しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失しました。 食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められました。 そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断しました。 しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われました。 この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。 14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破しました。 翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡しました。 当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請しました。 この時、幸運にも家康からの要請を受けた信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着していました。 そして、織田・徳川合わせて3万8,000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていました。 これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返しました。 16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みました。 ところが、城の近くの有海村で武田軍の兵に見付かり、捕らえられました。 武田氏側は強右衛門に、城内にいる味方に対し、もう援軍は来ないから諦めて開城せよと伝えれば召し抱えてやろうと提案しました。 この提案を強右衛門は受諾したふりをし、いざ味方の前に出されたとき、まもなく援軍がやってくるのでもう少しの辛抱だと叫んだため、怒った武田軍によって殺害されてしまいました。 名のある戦国武将ではなく、一介の伝令にすぎない強右衛門のことを知っている人が、このようにいまの時代も少なからずいるらしいのは、よく考えれば不思議なことです。 理由のひとつは、武士としての自己犠牲の精神、忠義の心が人びとを感動させたことにあるのでしょうが、ほかにも大きな理由が存在すると思われます。 それは、強右衛門の姿を描いたとされる旗指物の図像です。 この絵は、強右衛門が、長篠城の味方に対し援軍が来ると叫んだあと、傑にされ殺害されたときの姿を描いたものとされています。 原本は東京大学史料編纂所が所蔵し、白地の絹に全身真っ赤に描かれた裸一丁の半裸の人物が傑柱に大の字に縛りつけられ、口をむすんで大きな目をかっと見開いています。 一度見たら忘れがたい、強烈な迫力に満ちた図像です。 なぜこのような図像が制作され、現代に至るまで受け継がれてきたのでしょうか。 本書では、このような疑問について考えながら、強右衛門の人物のことが述べられています。 第一部の各章では、鳥居強右衛門が使者として働いた長篠城の攻防戦とはどのようないくさであったのか、 このいくさが長篠の戦いにどのようにむすびつくのか、 このいくさのなかで、いかなる事情で強右衛門が使者として立てられることになったのか、 強右衛門の死を伝える史料にはどのようなものがあるのか、 彼の死は後世、江戸時代の記録においてどのように描かれ、その人物像はどのように変容してゆくのか、といったことがらを考えています。 第二部の各章では、強右衛門の姿を描いた旗指物に焦点を当てています。 この旗指物を制作した落合道次という人物について、 なぜこの図像をみずからの旗指物としたのか、 どのような立場の武士であったのか、 子孫たちは家祖道次が制作した旗指物をいかにして受け継いだのか、といったことがらを考えてみます。 第三部では、江戸時代において、文字によって語られてきたり、旗指物図像の流布によってつくりあげられたりしてきた虚像”としての強右衛門像について書かれています。 近代以降いかなる経緯をたどって増幅、再生産され、現代のわたしたちが頭に描く彼の姿につながってくるのか、 どのような背景によって『国史大辞典』の項目や、『水曜どうでしょう』のようなテレビ番組に流れこむのか、といったことを眺めています。 鳥居強右衛門を通して、ある種の歴史認識の形成と展開・受容といった問題を考えてみます。第1部 鳥居強右衛門とは何者か(長篠の戦いに至るまで/長篠城攻防戦と鳥居強右衛門/鳥居強右衛門伝説の成立)第2部 落合左平次道次背旗は語る(目撃者・落合左平次道次/旗指物の伝来と鳥居強右衛門像の流布/指物としての「背旗」/よみがえる「落合左平次指物」)第3部 伝承される鳥居強右衛門像(近代の鳥居強右衛門/三河武士鳥居強右衛門)