みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生(感想)
松平容保の孫の松平和子は華族として生まれて育ち、23歳で公爵・徳川慶光と結婚して徳川和子となりました。 ”みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生”(2020年11月 東京キララ社刊 徳川和子/山岸美喜著)を読みました。 徳川慶喜の孫、徳川慶光に嫁いだ松平容保の孫、徳川和子による手記を元に貴重な史料と多数の写真で綴る家族の物語です。 本書で、長女、次女が生まれた戦前の暮らしから、戦後、華族制度が廃止され長男が生まれた後の暮らしまでを紹介しています。 徳川慶喜は1837年生まれの江戸幕府第15代征夷大将軍で、在職は1867年1月10日から1868年1月3日でした。 江戸幕府最後の将軍であり、日本史上最後の征夷大将軍でした。 在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍で、最も長生きした将軍です。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に、将軍後見職や禁裏御守衛総督などの要職を務めました。 徳川宗家を相続した約4か月後に、第15代将軍に就任しました。 大政奉還や新政府軍への江戸開城を行ない、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となりました。 1888年に 静岡県の静岡城下の西草深に移住し、1897年に再び東京の巣鴨に移住しました。 1901年に小日向第六天町に移転し、1902年に公爵を受爵し、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家の創設を許されました。 德川慶光は江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の孫で、1913年に公爵、徳川慶久と有栖川宮威仁親王の第二王女、實枝子の長男として東京市小石川区第六天町の屋敷で生まれました。 1922年に父が急死したため10歳で襲爵し、伯父が後見人となりました。 学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務しました。 1938年10月5日に、会津松平家の子爵松平保男の四女・和子と結婚しました。 松平保男は旧会津藩主、松平容保の七男で会津松平家の12代目当主です。 松平容保は陸奥国会津藩9代藩主で、京都守護職を務めました。 江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主、松平義建の六男庶子として生まれました。 1846年に実の叔父にあたる会津藩第8代藩主、容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられました。 高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫で、現在の徳川宗家は容保の男系子孫です。 松平保男は1900年に海軍兵学校を卒業し、1902年に海軍少尉に任官し、横須賀水雷団第1水雷艇隊付となり、日露戦争に出征しました。 1905年に海軍大尉に昇進し、鎮遠分隊長とし日本海海戦に参戦しました。 1910年に長兄、松平容大の死去に伴い、子女がいなかった容大の子爵位を継承しました。 最終階級は海軍少将で、貴族院議員を務めた政治家でもあります。 本書収載の「みみずのたわごと」は、親族に配られた私家版をもとに、私家版未収の原稿を追加し、直筆原稿原本を参照の上、全体を再構成したものです。 第1章みみずのたわごとは、徳川慶喜の孫・徳川慶光に嫁いだ松平容保の孫・松平和子(徳川和子)による手記です。 第2章歴史の中に生きる家族は、徳川和子の孫である山岸美喜が、家族の歴史が日本の歴史であるという立場から、本手記を出版する背景などを解説しています。 第3章徳川慶喜家写真帖は、写真で綴る徳川慶喜家4代の歴史です。 徳川和子は1917年に東京市小石川区第六天町で、旧会津藩主松平容保の5男で子爵、海軍少将、貴族院議員の松平保男の4女として生まれました。 母親は旧沼津藩主子爵、水野忠敬の4女でした。 本書を取りまとめたのは、松平容保の玄孫の山岸美喜氏です。 同氏は1968年生まれ、徳川和子の長女、安喜子の次女です。 現在、クラシックコンサートの企画事業を手掛けるとともに、「徳川将軍珈琲」宣伝大使も務めています。 徳川将軍珈琲は、徳川慶喜のひ孫にあたる、叔父の徳川慶朝氏が茨城でコーヒー豆の開発と販売に取り組んでできたものです。 慶喜も大のコーヒー好きと伝えられ、2017年9月に慶朝氏が亡くなったため、玄孫の美喜氏が宣伝大使となったそうです。 慶朝氏が亡くなってから資料整理を続け、自身の祖母でもある、徳川和子の手記をまとめました。 和子は生まれた家のことは、取り壊されて建て替えられたのであまり覚えていないといいます。 最初の記憶は、1921年頃、邸新築のため一時家令の飯沼の舎宅に住んでいた時に、妹・順子が生まれたことでした。 その家のお勝手には、もちろん水道がありましたが、玄関脇にポンプ式井戸があって、向かい側の長屋の人たちも使っていました。 生まれてすぐの頃に父が大病をしたため、母は毎日病院へ行っており、そのあと今度は、母が死に掛かったそうで、あまり親に甘えることができませんでした。 そのため無口で周りの人に気を遣ってばかりいて、自分でも損な性格だと思っていたそうです。 和子は1921年に女子学習院幼稚園に入園しました。 祖父にあたる容保は正室にはお子がなく、父親たちは側室の、田代孫兵衛の娘の佐久さんという方の子供です。 新築の邸には、このおばあちゃんの部屋もできていましたが、完成前に亡くなったので子供のおねんねの部屋になりました。 この部屋は、八畳の二の間続きで床の間と出窓もあり、手洗いも付いていて立派でしたが、日当たりは悪く陰気だったそうです。 一方、1910年に他界した、容保の長男、松平容大の未亡人のお住まいは、二階建てで見晴らしも最高で、おまけに納戸を入れて上下二間ずつ四部屋もありました。 新邸は、1922年か23年にできたかと思いますが、普請場は本当に楽しい遊び場で、カンナをかけている大工さんのそばで、木っ端をもらって積み本などをしていました。 和子は1923年9月に、女子学習院に前期入学しました。 9月1日のこと、学校ごっこの準備のため、黒板を取り付けたり小さい椅子を並べたりしていました。 すると、突然ものすごい音と一緒に家が揺れ動き始め、何がなんだかわからないまま隣の勉強部屋までこけつまろびつ行ったそうです。 その時、執事室から長い廊下を走ってきた家令に抱き上げられて、廊下の出口から外に出ようとした途端、目の前の石灯龍が音を立てて倒れてきました。 おまけに屋根から瓦がザザーツと降ってきました。 9月1日11時58分32秒に発生した、マグニチュード7.9と推定される関東大地震でした。 幸いして助かり、家も新築のため潰れくて済みました。 1933年4月に女子学習院本科を卒業しました。 同年、裏千家不審庵に入門し、以後、50年間断続的に、茶の湯に親しみました。 1938年10月に公爵、徳川慶光と結婚しました。 1940年に、夫の最初の召集があった習志野での訓練中、肺炎のため陸軍第二病院に入院し、召集解除となりました。 1942年に長女、安喜子を出産しました。 1944年に次女、眞佐子を出産しました。 同年、夫が3度目の召集で出征しました。 東京の空襲が激しくなって、5月に軽井沢の別荘に疎開しました。 1945年8月に終戦となり、11月に東京へ引き揚げました。 同年12月に、夫が帰還しました。 1946年に、高松宮別邸、興津座漁座に引き移り、その後、静岡市西奈村瀬名へ引き移りました。 長女、安喜子が西奈小学校へ入学しました。 1950年に次女、眞佐子が入学しました。 2月に長男。慶朝を出産しました。 4月17日に、東京港区高輪高松宮邸内官舎へ移転しました。 子供たちは高輪台小学校へ転校し、後、森村学園へ入学しました。 1964年に長女、安喜子が深川行郎と結婚し、後、2男1女をもうけました。 1966年に次女、眞佐子が平沼赳夫と結婚し、後、2男1女をもうけました。 1972年9月に、町田市南つくし野に移住しました。 1993年2月に夫、慶光が他界し、1995年3月に長女、安喜子が他界しました。 そして、2003年5月に和子が他界しました。 原稿をワープロで打ってくれた和子の姉、徳子の長男から電話があり、何か題名をつけなければと急に言われて困ってしまったそうです。 まえがきにあった「限りなく透明に」が良いというのですが、文中に手あたり次第、ベストタブーの本から言葉を取り入れて書いてしまったため、それでは盗作になってしまいます。 「まあ、みみずのたわごとみたいなものね」と、口走ったら、それが良いといって、そのままタイトルに打ってしまいました。 なんとなんとこれは、大文豪・徳富蘆花の作品の一つの名前でもあったのです。 6部限定で兄弟だけに配ったものの、九州在住の和子の長姉から、他人には見せないようにとの電話がきたそうです。 ワープロ打ちの製本があまりに上手にできていたためか、印刷所に出したと思ったのかもしれません。 「もちろんです、回し読みをしたらすぐに捨てますから」と申し上げました。 ところが、これを読んだ甥姪孫たちが面白いと言ってお腹を抱えて笑っています。 「おばあちゃま、早く続きを書いてよ」などと年寄りを喜ばせます。 また何か勘違いをしておいでのようで、華やかな全盛時代のお話を読ませてほしいなとのお世辞も言います。 確かに、軽井沢には6000坪の別荘があり、庭で乗馬やテニスを楽しむことができました。 葉山の海岸近くの別荘は海水浴と冬の避寒用、第六天の広い屋敷にはコックや運転手など20人以上の使用人も住んでいました。 公爵夫人として上流社交界でのお付き合いもありました。 晩年は、都内のマンションで息子の慶朝と二人で平穏に暮らしていました。 その昔話に語られる華族としての暮らしと、現代の暮らしとのギャップに驚かされたものです。 大きな屋敷に住んでいた幼少期に対して、広くもない普通のマンション暮らししていた和子に、「こんな暮らしになって、昔はよかったなあって思うことはないの」と尋ねたそうです。 すると返事は、「だってしょうがないじゃない。それが時代というものなのだから」であったといいます。 和子がこの本のもとになった手記を書き終えてから、30年以上が経ちました。 書かれた当時「みみずのたわごと」と題されていて、「なんでみみずなの」と聞くと、「地下でゴニョゴニョ言ってるからよ」と言っていたそうです。 ワープロで入力されたコピー版を松戸市の戸定歴史館に預けた時点では、「老婆のたわごと」というタイトルが付けられていました。 戸定歴史館のある戸定邸は、現在の松戸市松戸に水戸藩最後11代藩主の徳川昭武が造った別邸で、現在、国の重要文化財となっています。 今回は、和子が考えた「みみずのたわごと」を題名として世に出し、墓前にお供えしたいといいます。第一章 みみずのたわごと 徳川和子まえがき/一 少女時代/おいたち/関東大震災のこと/幼稚園/女子学習院初等科/変な話/小石川の通学路/二 懐かしい人たち/同級生/いしのこと/まきのこと/俥夫のしょうとくにのこと/間瀬さんのこと/野出蕉雨と佐々木主馬/商人部屋/行商人/市電/映画と演劇/三 人種差別(差別用語)について/四 歯医者の思い出/五 オートバイの音/六 美容院の今昔/あとがきに代えて第二章 歴史の中に生きる家族 山岸美喜はじめに/徳川家と松平家/祖父母一家の暮らし/戦後の徳川家/高松宮妃喜久子殿下のこと/秩父宮妃勢津子殿下のこと/華族の責任/徳川和子のその後/祖父母の家/祖母の友人/祖父母との別れ/叔父の晩年/さいごに第三章 徳川慶喜家写真帖[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生徳川和子