2018/03/31(土)06:58
池田光政-学問者として仁政行もなく候へば(感想)
池田光政は、1609年生まれの江戸時代前期の大名です。
姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男として生まれ、母は江戸幕府2代将軍秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫でした。
当時の岡山藩主・池田忠継が幼少のため、利隆が岡山城代も兼ねていました。
”池田光政-学問者として仁政行もなく候へば”(2012年5月 ミネルヴァ書房刊 倉地 克直著)を読みました。
江戸前期の備前岡山藩主で仁政理念に基づいた藩政を展開し、新田開発や藩校開設などを行った池田光政の生涯を紹介しています。
1613年に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移りました。
1616年に父の利隆が死去したため、幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となりました。
1617年に幼少を理由に、因幡鳥取32万5,000石に減転封となりました。
1632年に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、従弟で嫡男の光仲が3歳の幼少のため、光政が岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなりました。
以後、輝政の嫡孫である光政の家系が、明治まで岡山藩を治めることとなりました。
本書の大筋は、著者が2009年度から2011年度にかけて岡山大学、大谷大学、九州大学で行った講義によっているということです。
倉地克直さんは1949年愛知県生まれ、1972年京都大学文学部卒業、1977年京都大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学、1980年から岡山大学文学部講師、助教授、教授でした。
2007年に社会文化科学研究科教授、2015年に定年退任し、現在名誉教授を務めています。
なお、池田家文庫は、戦後、岡山総合大学設立期成会が買取り、岡山大学に寄贈されました。
池田文庫は、光政が鳥取から岡山城に入部して以来廃藩置県に至るまでの、約240年の備前藩藩政資料と池田侯爵家襲蔵の図書類です。
内訳は、藩政資料68,083点、和書4,166部22,117点、漢籍653部10,420冊となっています。
江戸時代には全国に260あまりの藩があり3000人を超える大名がいました。
現在使われている高等学校の日本史教科書に登場するのは、幕府の老中などを務めたものを除くと、10人にも満たないです。
池田光政はその数少ない大名の一人で、江戸時代前期を代表する典型的な大名として取り上げられます。
この時期の大名はどのような課題に直面し、それをどのように処理しようとしたのか、を説明するために、光政の治績か取りあげられます。
鳥取藩主としての光政の内情は苦しかったようです。
因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域でした。
藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かったのです。
しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮しました。
光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めました。
岡山藩主としての光政は、儒教を信奉し陽明学者熊沢蕃山を招聘し、1641年に全国初の藩校花畠教場を開校しました。
1670年に日本最古の庶民の学校として閑谷学校も開きました。
教育の充実と質素倹約を旨とし、備前風といわれる政治姿勢を確立しました。
干拓などの新田開発、百間川の開鑿などの治水を行い、産業の振興も奨励しました。
このため光政は、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されています。
光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学と心学を藩学として実践しました。
光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とし、神仏分離を行ない寺請制度を廃止し神道請制度を導入しました。
また、光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行い、庶民の奢侈を禁止しました。
光政を明君とする評判は当時からありました。
三代岡山藩主池田継政は祖父光政を敬慕し、その政治理念を受け継ぐことを理想としました。
家中に伝えられた光政の逸話を集めたものに”有斐録”があり、のちに”仰止録””率章録”といった言行録も作られました。
いずれも、光政の偉業を賞揚しその言行に依拠することで、家中の結集を図ろうとする意図をもって編まれたものです。
時代を経るにしたがって、明君光政像は教訓化、理想化されました。
また、光政には自筆の日記が残っており、そこに光政の自意識の高さを認めることができます。
本書の副題とした言葉は光政の言葉そのままではありません。
”池田光政日記”1655年4月15日にあるのは、
”我等学問者と有名ハ天下ニかくれなく候ニ、仁政行ハ一ツとしてなく候ヘバ、名過候、此天罰ハのがれざる所ニて候”
です。
光政が学問に志す者であることは天下のだれもが知っています。
そうした者であるのに仁政の行いは一つもなく、民に苦しみを与えています。
これは名か過ぎて実がないということです。
だから、天罰は遁れられないのであり、今回の洪水は天が自分への戒めとして与えられたものだ、といっています。
光政の治者としての個性は、学問者であること、仁政行の実践を目指したこと、常に自己反省を欠かさなかったこと、などが重要な点です。
1672年に隠居し藩主の座を長男の綱政に譲り、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与しました。
1681年10月に岡山に帰国した頃から体調を崩し、1682年5月に岡山城西の丸で享年74歳で死去しました。
巻末に。詳しい年譜が付いています。
第1章 岡山以前の光政/第2章 光政における「家」と「公儀」/第3章 最初の「改革」と「治国」の理念/第4章 二度目の「改革」と「心学者」たち/第5章 最後の「改革」と光政の蹉跌/第6章 晩年の光政