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2025.05.10
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 三浦義村は鎌倉時代初期の相模国の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。
 ”三浦義村”(2023年10月 吉川弘文館刊 高橋 秀樹著)を読みました。
 北条義時と政子の死後に執権泰時と協調して新体制を支えた、有力御家人であった三浦義村の生涯を紹介しています。
 1168年ころ、桓武平氏良文流三浦氏の当主である三浦義澄の次男として生まれたとされます。
 義村の母親は、伊東祐親の娘にあたります。
 義村の時代は、源平の戦い、鎌倉幕府の成立、御家人らの権力闘争が行われた時期と重なります。
 父親の義澄は相模の国の武将で、源頼朝の挙兵に初期から加わりました。
 各地に転戦して鎌倉幕府の成立に尽力し、十三人の合議制の一人として選ばれました。
 義村は、生年を始め幼少期についてあまり明らかにされていません。
 義村が初めて史料に登場するのは、1182年の『吾妻鏡』です。
 源頼朝正室政子の安産祈願のため、安房東条庤へ遣わされた使者として三浦平六の名前が見えます。
 三浦平六は、義村の別名の通称です。
 1184年と翌年の平氏追討や、1189年の奥州征伐に従い、父親とともに平氏追討に武功をあげました。
 和田義盛の挙兵や承久の乱で北条氏を助けたことから信任され、評定衆にも選ばれました。
 頼朝亡き後は北条氏と密接に結びつき、幕府内での政治的地位を高めました。
 高橋秀樹さんは1964年神奈川県生まれ、1989年に学習院大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。
 1996年に同博士課程を修了し、”日本中世の家と親族”で博士(史学)となりました。
 1992年に日本学術振興会特別研究員、1994年に放送大学非常勤講師となりました。
 1995年に国立歴史民俗博物館非常勤研究員、1998年に東京大学史料編纂所研究員となりました。
 2018年から國學院大學文学部史学科教授となり、現在に至っています。
 1190年に頼朝が上洛したとき、義村は父親の功によって宮中の警備をする右兵衛尉に任じられました。
 のちに左衛門尉に転じ、さらに駿河守となり正五位下に叙せられました。
 1199年1月に源頼朝が没し、嫡男の源頼家が2代将軍となりました。
 このころ鎌倉幕府内部では、御家人らの権力闘争が目立つようになりました。
 義村は、そのなかでたびたび重要な役割を果たしました。
 1199年12月の梶原景時の乱では、朋友の結城朝光を助け他の御家人たちの談合を画策しました。
 義村は、御家人66名による梶原景時の糾弾状を作成し、梶原一族を退けました。
 1202年には、娘を北条泰時に嫁がせ北条氏との関係を固め勢威を強めました。
 1205年の畠山重忠の乱では、北条時政の命により義時とともに畠山重忠を討滅しました。
 この事件は、牧の方が時政に讒訴したため畠山氏に叛意のなかったことが判明しました。
 すると義村は、事件の関係者らを鎌倉の経師谷で討ちました。
 同年7月には、将軍の実朝を廃して平賀朝雅を擁立しようとした牧の方の陰謀が発覚しました。
 このとき義村は、北条政子と義時に協力して実朝の安全を守りました。
 この事件がきっかけで、執権の時政は落飾して伊豆に隠退し義時が執権となりました。
 義時の味方となったために、ときには一族と相対する立場に身を置くこともありました。
 鎌倉幕府内部の権力闘争を、冷静かつ大胆に生き抜いたのです。
 執権義時の亡き後は、幕府を左右する政治力を持つ存在となりました。
 この頃、三浦一族の国司、守護、地頭職にあった地域は全国に及びました。
 1213年に、一族の中で大きな勢力であった従兄弟の和田義盛と和田合戦で敵対しました。
 将軍実朝と執権義時を廃して、故将軍頼家の遺子栄実を擁立しようとしました。
 義村は、義盛に味方するという起請文を書きながら変心しました。
 義時に義盛の挙兵を伝え、謀反人とされた義盛らは滅亡しました。
 1219年1月27日に、将軍実朝が頼家の子の公暁に暗殺されました。
 公暁は義村に幕府の準備を頼む書状を持った使いを出しましたが、義村は偽って討手を差し向けました。
 公暁は、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害されました。
 1221年の承久の乱では、弟の胤義から決起をうながす書状を受けとりましたたが、義村は使者を追い返し義時の元に向かい通報しました。
 出戦が決まると、東海道方面軍の大将軍の一人として東海道を上り東寺で胤義と相対しました。
 その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害しました。
 乱終息後の戦後処理でも、義村は活躍しました。
 1224年に北条義時が病死すると伊賀氏事件が起き、義村は伊賀の方一族を追放しました。
 1225年夏に、大江広元・北条政子が相次いで死去しました。
 執権北条泰時の下で評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任しました。
 幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では、北条氏に次ぐ地位となりました。
 1232年の御成敗式目の制定では、前駿河守平朝臣義村として署名しました。
 4代将軍の藤原頼経には、義村は子の泰村と共に近しく仕えました。
 そして1239年に亡くなり、死因は「頓死、大中風」だったといいます。
 頓死とは急死、大中風とは脳卒中発作の後で現われる半身不随です。
 ほとんどの日本人にとって、ごく最近まで三浦義村は未知の存在でした。
 本人は、中学校歴史教科書や高等学校日本史教科書に登場しません。
 子供の泰村は、1247年に起きた鎌倉幕府の内乱である宝治合戦で滅ぼされた存在として、多くの高校教科書に書かれています。
 父親の義澄については、いわゆる十三人の合議制の一人として名を載せている教科書があります。
 しかし、義村の名を記す教科書はないのです。
 載っていないのは、北条氏に討たれなかったからです。
 滅ぼされた梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、三浦泰材は敗者として記述されています。
 義村は北条氏の協力者かライバルとみられ、対象外でした。
 義村像の再評価のきっかけをつくったのは、作家の永井路子氏でしょう。
 1964年の直木賞受賞作『炎環』で、源実朝暗殺事件の黒幕として義村を描きました。
 1978年の『執念の家譜』では、三浦一族の歴史をたどりました。
 1979年のNHK大河ドラマ『草燃える』で、ダーティーな義村のイメージは一部に定着しました。
 2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主人公の北条義時の生涯にわたる盟友として描かれました。
 本書の主眼は、三浦義村の人生をたどることにあるといいます。
はしがき/第1 義村の誕生/第2 若き日の義村/第3 宿老への道/第4 義村の八難六奇/第5 最期の輝き/第6 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財/三浦氏略系図/略年譜/参考文献

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Last updated  2025.05.10 08:20:18
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