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キタさんのつれづれ日記

原六郎(進藤俊三郎)

原六郎(進藤俊三郎) 1842~1933
朝来町佐中で、源平時代 より続くという名家・進藤家 の六男として、天保13(1842)年に生まれた。父は進藤丈右衛門長廣。名は長政。安政2(1855)に池田草庵の青谿書院に入門。時あたかも尊皇攘夷派の活動が盛んであり、彼も尊皇攘夷論を唱えるようになる。しかし、池田草庵は政治活動に否定的だったために、衝突。北垣晋太郎らとともに脱退し、京都で平野国臣等と親交を結んだ。文久2(1862)年に、北垣らと但馬農兵を組織する。文久3(1863)年の生野の変に参加した時は21才であり、旗揚げの地を熟知していることから「器械買入方(武器調達係)」を勤めた。同役の田中軍太郎・西村哲二郎・鯰江伝左衛門と京都まで出張して武器・具足を買い集め、大八車に載せて山陰街道を下る途中で生野の変が敗れたことを知る。その後は、村岡・浜坂から浦富を経て因幡に入り、鳥取に潜伏した。が、彼は京都の情勢を探索するために、再び西村・北垣と宍粟郡を抜けて上京、鳥取藩邸の松田正人の庇護を受けた。当時、生野の変に参加した者に対する幕府の探索は厳しく、松田の選んだ原六郎と改名し、以後本名は一切使わなかった。また、翌年には長州藩を頼って海路渡り、幕府の厳しい追捕から逃れることに成功した。
慶応元(1865)年には、高杉晋作の紹介により長州藩の遊撃隊に加入し、四境戦争では高杉に従って小倉口の戦いに従軍した。戦役が一段落した慶応2(1866)年、普門寺塾(三兵塾)を母体に山口に創設された陸軍学校明倫館に入学し、大村益次郎から洋式陸軍の手ほどきを受けた。鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では、山国隊司令士として各地を転戦した。
明治維新後は長州藩よりも鳥取藩との繋がりが深くなり、明治2(1869)年には鳥取藩士として取り立てられて、鳥取藩兵の洋式化に従事。さらに、新政府に差し出された鳥取藩軍に入り、第1回天覧閲兵式には大隊長として参加、「兵の指揮、誠に見事也」と絶賛された。しかし、軍人であったのも束の間。明治3(1870)年に太政官が30万石以上の大藩に選出させた海外官費留学生として、原は明治4(1871)年にアメリカに渡る。しかも、短期留学で満足できなかった彼は、官費が打ちきられてもアメリカに残った。今後の日本の発展は、軍事よりも経済だと考えたからだ。苦労の末にコネチカット州にある私立イェール大学に入学して、経済学を学ぶこと2年。次いで明治6(1873)年には、イギリスに渡り、レオン=レヴィについて経済学・社会学・銀行学を2年修め、明治10(1877)年に帰国した。
明治11(1878)年に帰国した彼は金融業界に入り、当時の銀行設立気運に乗った。まずは鳥取に第百国立銀行を創立して頭取に就任。更に明治13(1880)年には、東京貯蔵銀行も設立して頭取に就任するなど、その手腕は広く認められるところとなる。当時、わが国の海外貿易を担うべく国営にて設立された横浜正金銀行(後の東京銀行)が、直後に襲われた経済不況のあおりを受けて倒産寸前に追いこまれていた。その建て直しの辣腕者として、六郎に白羽の矢が下った。明治16(1883)年、2代目頭取に就任した彼は、その手腕を遺憾無く発揮する。松方蔵相立案の改革案を断行、莫大な債務の整理・回復に成功した。また、横浜正金銀行条例の制定や日銀との調整にも尽力し、明治23(1890)年に辞任した。その他、金融業においては、帝国商業銀行・台湾銀行・勧業銀行などの設立にも関与した。
また、金融業にとどまらず、山陽鉄道・播但鉄道・総武鉄道・東武鉄道・北越鉄道・九州鉄道・北陸鉄道・北海道鉄道・京仁鉄道・台湾鉄道などの鉄道業、東京電燈・横浜ドック・富士製紙・富士紡績・横浜水道・東洋汽船・帝国ホテル・猪苗代水力電気・台湾精糖などの事業にも多大の貢献をした。ゆえに、渋沢・安田・大倉・古河とともに、明治期のわが国の金融・実業界の中心となって活躍した「明治財界五人男」の一人に数えられている。
晩年は、兄・丈右衛門とともに山口小学校の講堂兼体育館を寄贈。青谿書院に対しては財団法人とするための基金を寄付。また、朝来町山口に招魂社(現山口護国神社)を建立する際にも基金を寄せるなどし、昭和8(1933)年に、92歳で死去した。また、彼の収集した現代美術コレクションが、品川区の御殿山にある原美術館に展示されている。


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