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カテゴリ:生活・仕事
先月、教え子の一人が亡くなった。
自殺だった。 自分が抱えた病気を苦にした末の行動であったと思われる。 自殺という死に方は、周りの残された者達に強い衝撃を与えるだけではなく、過失がなかったかどうかを含め、いろいろなことを考えさせ過ぎてしまう点で大きな罪だ。 過失があればもちろん苦しむだろうし、何もなかったとしても、自分たちの側を責めてしまうものだ。 もっと何かしてあげられなかったのか、どうして苦しみに気付いてあげられなかったのか、何気ない言動が傷つけたり追い詰めたりしたのではないだろうかと普通は考え込んでしまい、かなり苦しんでしまうはずだ。 現に、こんな俺でさえもそうだった。 だが、最終的に死を選択した者の心の内は、俺達がどんなに考えたり、自分を責めても理解できるものではない。 しかも、自らを責めたところで、亡くなった当人は返っては来ない。 以上のことから、一般的に言って、自殺はなすべきではない行動の一つだ。 だが、他方で、自らを死を選ぶという「生き方」は、究極的な人間行動の選択としてはあり得るだろうと俺は思う。 その学生は、今後の自分の長い人生を思った時、このまま辛くて苦しい病を抱えた状態で生きるぐらいなら、今の学生のうちに苦しみのない世界に行こうと思ったに違いない。 俺がその学生を知ったのは、もうかれこれ5~6年前のことだったが、当時から、病気のことは聞かされていたので、互いにのんびりやっていこうという感じの付き合いになっていた。 そういう気の長い付き合い方だったので、この時点での自殺というのは、はじめは、人生否定の絶望感と虚無感だけが俺を襲い、教育というものの無力感や徒労感に襲われていたが、ひょっとしたら、そういう考え方は違うのではないかと感じるようになった。 ひょっとしたら、その学生はゼミ生のまま死にたかったのではないだろうかと感じるようになったのだ。 先月、その学生は何度目かの休学をすることにしていたのだが、長年住んでいた下宿を月末で引き払って、実家の方に戻ることを決めていたらしいと後から知った。 その引っ越しを目前にした最後のタイミングでの自殺だった。 だから、自ら死を選択することで、永遠に大学生になることを決めたのだという気が俺はするのだ。 これは、病魔と孤独に闘った末の壮絶な戦死だったのだと今俺は思っている。 最後は自ら死を選ぶ形ではあったが、病魔を道連れにして戦いを終わらせたという意味で、見事な戦い方であったと、俺は言葉をかけてあげたい。 輪廻転生を期しての、次の人生へと繋げる一歩だったのだろうと信じている。 とは言え、病気との孤独な闘いの中で駆け抜けた25年の歳月は、あまりに短く痛ましい。 いつか俺がそちらに行く日が来たら、また酒でも飲もう。 冥福を祈る。 合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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