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2013/03/04(月)18:59

大原孫三郎

社会問題(55)

大原孫三郎(1880-1943) 俺がまだ若かった多感な時期に、その生きざまに最も感動を覚えた近代日本の偉人である。 俺が大原孫三郎を知ったのは、大学の学部ゼミで経済学を勉強していた時であった。 ゼミの指導教官が岡山出身の先生で、四年生になった俺達が卒業ゼミ旅行を企画していた頃、倉敷行きを提案してきたのだが、その時「大原孫三郎という人を知っているか?」とはじめてその名を教えてもらった。 卒業ゼミ旅行は倉敷となり、倉敷紡績の工場跡地を利用したホテル倉敷アイビースクエアや、大原美術館などを訪れた。 当時、俺が学んでいた学部の経済学の教員は全員がマルクス経済学の先生であったのだが(80年代の地方大学では決して珍しいことではなかった)、俺自身も熱心な?マルクス学徒だったため、大内兵衛だの久留間鮫造だの宇野弘蔵だの、有名なマルクス経済学達がこぞって集まっていた社会科学の研究所である、大原社会問題研究所という名前は聞いたことがあった。 それが大原孫三郎によって設立された研究所だったのだということを、その時初めて知った。 また、著名な統計学者として知られていた高野岩三郎(日本統計学会初代会長)が大原社研の初代所長だったことも、その時初めて聞かされたと記憶している。 大原孫三郎は、倉敷出身の大地主で大金持ち、そして資本家でもあったので、そんな人がマルクス主義の研究所を作るなんて、なんと心の大きな?太っ腹の財界人なんだと、単純な学生の俺はとても感動したことを覚えている。 だが、この小著にもあるが、大原自身はマルクス経済学者であった河上肇から影響は受けてはいたものの、マルクス主義者のために研究所を作ったのではなく、当時どのような労務管理が、働く者にとっても会社にとっても有益であるのか、単純な党派的な階級闘争史観ではなく、科学的な見地に立脚した貧困問題や衛生問題の解決に尽力したかったのであり、大原社研がマルクス主義者の巣窟みたいになることを望んではいなかっただろうと思われる。 但し、大原は社研の運営や研究内容には一切口出ししなかったと伝えられている。 結果的に、1928年の3・15事件によって大量に共産党員が検挙されることで、大原社研のメンバーも関与していたことが明らかになって、研究所は1937年に東京に移転することとなってしまった。 (現在、大原社研は法政大学の下に置かれている。) なお、広島大学の初代学長であった森戸辰夫もこの大原社研の一員であった。 彼は、無政府主義者クロポトキンに関する研究論文を発表したことで、危険思想家として逮捕され東大経済学部を追われたが、出所後(1920)この大原社研に来ている。 (なお、クロポトキンの無政府主義の思想は、一般に考えられているほど危険でも過激でもないと俺は思う。クロポトキンの核心は、共同体による社会の再構成であり、理想主義的な連邦国家論に近い。「無政府主義」という名前が、あらゆる権力を否定し、国家の解体をイメージさせることから、権力者によって真っ先に弾圧の対象とされたことは、日本での大杉栄の虐殺に見られるように、大変不幸なことであった。) ともあれ、大原が社研と同時期に設立したもう一つの研究所、労働科学研究所と同様に、彼は社会の中の悲惨な状態や貧困の克服を実業家としてだけではなく、学術研究的にも行ないたかったのであろうことは確実である。 すなわち、単なる経営者・実業家という範疇を超えたスケールの大きさを感じさせる人物であった。 彼が手がけたものは、紡績業に始まり、金融、電力会社、新聞社、病院、研究所、美術館、孤児院などなどであり、そのほとんどが名称を変えながらも今日まで存続している。 大原孫三郎は、岩崎弥太郎や渋沢栄一などの実業家ほど有名ではないかも知れないが、明らかに偉大な功績を残した日本の重要な実業家であった。 ルソーやヴィクトル・ユゴーのような偉大な魂が、近代日本にも存在し、人知れず大きな影響を与えていたことは、大変な誇りであると俺は思う。 ご賛同頂けるならクリックをお願いします。

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