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2007年11月03日
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カテゴリ:ゲーム
もう一人の尊敬する人物は、「六文銭が三途の川の橋渡し」。
「真田は日の本一のつわものぞ」と徳川に言わしめた真田雪村です。

真田信繁(真田 幸村)永禄10年(1567年)~ 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
安土桃山時代から江戸時代前期の武将。
武田信玄の家臣、真田幸隆の孫。
大阪夏の陣で徳川家康の本陣を攻め、あと一歩のところまで追いつめた。
天才軍師。剣術に長けていたのかは疑問?
雪村の家系子孫・仙台真田家として現在も続く。
旗印は六連銭。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」仏法のために身命をささげて惜しまないことを意味する。
人柄は、柔和で辛抱強く物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。
江戸時代になってからも、その軍略、人物共に慕われ続け、幕府側もそれを敢えて禁ずることはなかった。
徳川家康があの世に行ったら酒を飲み交わしたい人物であると言ったと逸話がある。

時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄10年(1567年)
一説に永禄13年(1570年)とも
死没 慶長20年5月7日 享年49歳
(1615年6月3日)
改名 弁丸、信繁
別名 源二郎、幸村
諡号 伝心月叟
官位 従五位下、左衛門佐
氏族 真田氏
父母 父:真田昌幸
母:宇多頼忠の娘・山手殿(寒松院)異説有
兄弟 信之、信繁
妻 正室:大谷吉継の娘・竹林院
側室:豊臣秀次の娘・隆精院、
堀田興重の娘、高梨内記の娘
子 阿菊(石合重定室)、於市、阿梅(片倉重長後室)、
あくり(蒲生郷喜室)、幸昌、
なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、
おかね(石川貞清室)、片倉守信、三好幸信、之親

幼名は弁丸、通称は源二郎。信繁の名は、武田信玄の弟、兄に生涯忠義を尽くし
第4回川中島の戦いで討ち死にした。名将武田信繁にあやかって命名されたと云われている。
真田幸村の由来は、江戸時代以降の講談・歴史小説・映画などを通じて付けられたもの。
「幸」は祖父や父・兄の通字であり、「村」は信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達氏の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがある。
また、幸村の名前は信繁の死後比較的短い期間で広まっているため、真田昌幸死後に昌幸の片諱を継承して実際に幸村を名乗ったのではないかとの推測もある。詳細は、不明。

天正3年(1575年)、信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国(山梨県)と信濃国を治める武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北した。この際、父・昌幸の2人の兄も亡くなったため真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ上田(上田市)に移る。そして信繁も真田を称するようになる。

天正10年(1582年)3月11日、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。3月19日、武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。

天正10年(1582年)6月2日に信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれると、織田家の関東管領であった滝川一益は、地元の伊勢に引き上げてしまう。信長という後援が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉氏・後北条氏・徳川など周辺の諸大名に傘下に入っては離れてを繰り返した。この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている(この頃真田氏は徳川家康と所領争いをし、豊臣秀吉の仲介で和解するも、遺恨を残している)。昌幸は最終的に豊臣秀吉の傘下に入ったために秀吉の下に留まり、豊臣氏の恩を受ける。また、信繁は豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎えている。この女性は後世竹林院と呼ばれるが、吉継の実娘ではなく、姪を養女にしたものらしい。

秀吉死後の慶長5年(1600年)に、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で、徳川方の東軍についた兄・信之と敵対する立場となった(これは昌幸の策であり関ヶ原の戦いによりどちらが負けても必ず真田家が残るという昌幸の考えによるものだともいわれている)。
徳川方の東軍は軍団を2分し、東海道と中山道を進軍すると、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の軍を上田城に引き付け、散々に徳川軍を打ち破った(第二次上田合戦)。そのため中山道を進んだ秀忠軍は進行が遅れ、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。
しかし三成率いる西軍は9月15日に敗北を喫する。昌幸と雪村は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の必死の取り成しで二人は紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われている)。
蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)には信繁は出家、伝心月叟と名乗った。

慶長19年(1614年)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、豊臣家は浪人を集めて勇士を募る策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した。しかし、入城の際の雪村の容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため門番に山賊と勘違いされている。信繁の率いた軍は鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)。しかし信繁自身についてはそれまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康も昌幸ではなく、その息子で無名の信繁が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされている。

慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣で雪村は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた。しかし、この真田丸を造る際、大阪方の他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて真田雪村として、その武名を知らしめる事となる
冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた雪村は「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。

翌年の大坂夏の陣では、奥州・伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で果敢に戦い、一時的に後退させた(道明寺の戦い)。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。
ただ、「道明寺の戦い」では雪村の行軍ミスにより援軍に赴くはずの後藤基次勢は壊滅し、基次は討死している。歴史小説で強調されるような大活躍だけではなかったことも記憶すべきである。しかしこのとき信繁は豊臣勢の総指揮権を得ていない。そして全軍の指揮系統が錯綜していたのも事実である、この時期の総指揮は大野修理が行っている。又この戦いの前に家康は後藤氏に対し徳川方への寝返りを謀略によって実行している為、後藤氏に対して豊臣方では謀反の噂が流れた。そのため死を決して先鋒を勤め先陣を進んでいった。そして後方部隊との開が出来、数の上で圧倒的な徳川勢の攻撃が集中してしまった為、壊滅したといわれている。
豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していく。雪村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てる。それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまった為、作戦を断念せざるを得なくなった。そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。この突撃については真田軍のみの突撃ではなく左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄した、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。
真田軍は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を散々に蹴散らした、ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田軍の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。奇しくも家康は武田縁の武将に二度馬印を倒されたこととなる。
しかし、最終的には数で勝る徳川軍の前に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。享年49。
信繁討死の翌日5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わる。





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Last updated  2007年11月03日 09時06分50秒
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