清造の分館

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2004年08月08日
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更に続きです。
例によって何処かから頂いております。
元のサイトへ、何かしらの攻撃が起こらない為、あえて伏せさせて頂いてます。



南京の街頭にて


昭和12(1937)年12月20日

南京住宅街にて撮影


「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より

撮影者、朝日新聞林カメラマン

掲載書解 説 文(キャプション)
支那事変写真全集(中)上海戦線南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達 ・・・(12月20日撮影)
朝日新聞12/25写真特集玩具の戦車で子供達と遊ぶ兵隊さん(南京中山路にて)




南京の街頭にて


昭和12(1937)年12月20日

南京住宅街にて撮影


「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より

撮影者、朝日新聞林カメラマン

掲載書解 説 文(キャプション)
支那事変写真全集(中)上海戦線・・・無心にも戦場の跡に笑い興ずる幼童の姿に、春の歩みを聞くことが出来る(12月20日撮影)
朝日新聞12/25写真特集戦火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊び場だ(南京住宅街にて)




南京城の昨今


昭和12(1937)年12月20日

南京住宅街にて撮影


「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」と朝日新聞昭和12年12月30日より

撮影者、林カメラマン(朝日新聞)

昭和12(1937)年12月20日 林特派員撮影

掲載書解 説 文(キャプション)
支那事変画報(朝日臨時増刊) 惨虐無道な支那兵に脅かされ、空と地に唸る砲弾に怯えていた避難民地区の支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い。
その上に食事は元より子供にはお菓子を恵まれて大喜びの嬉しい涙で唯々「謝々」を繰り返している。
朝日新聞、昭和12(1937)年12/30 サァ、おっぱいが足らなきゃミルクをお上り=ヒゲの隊長温情 この中国婦人の嬉しそうな顔はどうだろう。




南京野戦病院の支那兵


昭和12(1937)年12月20日撮影


「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」より

林特派員撮影(朝日新聞記者)

日本兵によって看護される支那傷病兵

掲載書解 説 文(キャプション)
支那事変画報(朝日臨時増刊) 暴虐無頼な抗日支那軍ながら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈悲に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽(むせ)んでいる支那傷病兵。(12月20日 林特派員撮影)




平和立ち帰る南京


昭和12(1937)年12月22日撮影


難民区内にて


撮影者 林特派員
朝日新聞カメラマン

日本兵が難民区内の避難民にお菓子を分配している様子





南京の難民区


昭和12(1937)年12月27日

南京難民区にて撮影


「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」より

撮影者、影山カメラマン(朝日新聞)

南京の難民区内に非難している市民と子供達

掲載書解 説 文(キャプション)
支那事変画報(朝日臨時増刊) 敵前上陸以来激戦また猛闘、快速また追撃、夜に日をついでの戦と進撃に、華やかな南京入りをした快速部隊の兵隊さん達、ひなたぼっこをしながら速製の支那語に、手まね、足まねを加えて支那良民や子供と話をする朗(ほが)らかな南京難民区の情景





本当に、南京では何人が虐殺されたんでしょうね。






最終更新日  2004年08月09日 01時45分44秒
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2004年08月07日
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続きです。
例によって何処かから頂いております。
元のサイトへ、何かしらの攻撃が起こらない為、あえて伏せさせて頂いてます。


難民区の避難民(その1)


昭和12(1937)年12月17日撮影


「支那事変画報 第十五輯(大阪毎日・東京日日特派員撮影)1月11日発行」より
佐藤振壽(毎日新聞)特派員撮影

掲載書解 説 文(キャプション)
支那事変画報(大阪毎日・東京日日新聞特派員撮影) わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民



難民区の避難民(その2)


昭和12(1937)年12月17日撮影


偕行社刊「南京戦史II」より
佐藤振壽(毎日新聞)特派員撮影

お菓子や煙草を配る日本軍の模様

掲載書解 説 文(キャプション)
偕行社刊「南京戦史資料集II」 入城式(12月17日)が終わる頃、難民区で宣撫班が菓子や煙草を配ると、多くの市民が集まってきた。



難民区の避難民(その3)


昭和12(1937)年12月17日撮影


鈴木明「「南京大虐殺」のまぼろし」(文藝春秋)より
佐藤振壽(毎日新聞)特派員撮影

(12月17日)日本軍宣撫班と難民の写真

掲載書解 説 文(キャプション)
鈴木明「「南京大虐殺」のまぼろし」より 日本軍の宣撫班が南京市内の「難民区」で宣撫工作を行っているところ。女性も交えた大部分の難民は、特に日本軍を警戒する気配もなかった、と撮影者は語っている。



日本軍の配給を受け取り

喜ぶ南京避難民の様子


昭和12(1937)年12月17日撮影


「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より
撮影者、佐藤振壽(毎日新聞カメラマン)

わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民

HP作者解説:「支那事変画報」は当時、朝日と毎日の2社から同じ題名で2つ発刊されていたようです。新聞記者達の行動については、阿羅健一著「「南京事件」48人の証言」(小学館)、偕行社「南京戦史」にも詳しく掲載されています。




南京戦没者慰霊祭


昭和12(1937)年12月18日、撮影


撮影場所 城内(故宮)飛行場


撮影者 毎日新聞カメラマン

慰霊祭における松井司令官

掲載書解 説 文(キャプション)
「支那事変画報第十五輯」 松井最高指揮官の玉串奉納



この温情


昭和12(1937)年12月19日撮影


朝日新聞、上野記者撮影

この温情
南京にて松島部隊の兵隊さんに可愛がられている支那人の子供







最終更新日  2004年08月07日 22時05分46秒
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2004年08月04日
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例によって何処かから頂いております。
元のサイトへ、何かしらの攻撃が起こらない為、あえて伏せさせて頂いてます。

 昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である陥落以降に撮影された写真ばかりを集めました。
陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在していました。(外国人記者達を含めて)彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子を写真などによって撮影、記録しています。
ところが戦後、これらの写真を「朝日新聞」、「毎日新聞」「岩波書店」、「日教組」、「NHK(?)」などのサヨク系団体や組織によって封印されたのです。戦争ですから戦死体があるのは当然ですが、虐殺とは全く無関係の写真を大虐殺の証拠として(特に)朝日、毎日、岩波書店、日教組、(サヨク)系マスコミなどが大宣伝を行い、現在でも日本国民を洗脳しています。
南京の真実を報道しているのは唯一、産経新聞だけ。朝日、毎日、日教組、TV朝日(朝日新聞系)、TBS(毎日新聞系)は、偏向・捏造・歪曲報道が露骨に表れてます。。



入城する日本軍に拍手


昭和12(1937)年12月13日撮影


撮影者 アーサー・メンケン

(米国パラマウント・ニュース映画カメラマン)


拍手で日本軍を迎える南京市民の模様

掲載書解 説 文(キャプション)
「パラマウント・ニュース映画」より(日本軍入城を目の前にしながら)ちらほらと飢えた中国人が拍手をしています。




水餃子を売る風景


昭和12(1937)年12月15日撮影


難民(安全)区付近にて


撮影者 佐藤振壽(さとうしんじゅ)、毎日新聞カメラマン


水餃子を食べる日本兵

掲載書解 説 文(キャプション)
偕行社「南京戦史II」より 中山北路東側の安全区付近では、すでに水餃子の露店などが営業していた。日本兵がお客の第一号であった。
鈴木明「「南京大虐殺」のまぼろし」より 南京占領数日後には、「難民区」に早くもたくさんの食べ物屋が並ぶようになった。宣撫班の一人が50銭を払ってギョーザを頼むと、女主人が大サービスで給仕してくれた。





戦禍を免れた避難民


昭和12(1937)年12月15日撮影


難民(安全)区内を撮影


撮影者 佐藤振壽(さとうしんじゅ)

毎日新聞カメラマン

安全区内を中山北路にそった土手から撮影


掲載書解 説 文(キャプション)
偕行社「南京戦史II」より  戦禍を免れた市民が大勢集まっていた。




戦禍を免れた避難民


昭和12(1937)年12月15日撮影


難民(安全)区内を撮影


撮影者 佐藤振壽(さとうしんじゅ)

毎日新聞カメラマン

安全区内を中山北路にそった土手から撮影

掲載書解 説 文(キャプション)
偕行社「南京戦史II」より戦禍を免れた市民が大勢集まっていた。




難民区内の避難民(その2)


昭和12(1937)年12月15日(水)


偕行社「南京戦史資料集II」より

佐藤振壽(毎日新聞写真記者)撮影

避難民の中で湯を沸かして売っているお店

掲載書解 説 文(キャプション)
偕行社「南京戦史資料集II」より 湯を沸かして売る店がある。




安全(難民)区付近の風景


12月16日(木)快晴


撮影 佐藤振壽、毎日新聞カメラマン



安全(難民)区内の様子



安全(難民)区の様子


昭和12(1937)年12月16日、安全(難民)区付近にて


佐藤振壽、毎日新聞カメラマン撮影



大人も子供も白い布に赤丸の布を縫い付けた日の丸の腕章をしている。







字数の関係から、今日はここまでとします。
また、次回もよろしく。

最近は重慶で行われてるサッカーの試合で、中国人の過激な反日行為が目立ちます。
重慶爆撃の資料が、中々見つからないので、とりあえず分かっている南京事件をとりあげました。






最終更新日  2004年08月05日 00時42分31秒
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2004年08月03日
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最近、日記の更新が滞っております。

実は、ケーブルテレビで放送されている世界名作劇場「赤毛のアン」が原因です。

いや~、ここまで電波飛ばすヒロインも珍しいものですね。

おかげで、全話見直し始めちゃいましたよ、全話持ってますから。


しかし、かなりの名作です。
「赤毛のアン」の紹介文を別ページに用意しました。






最終更新日  2004年08月04日 00時41分30秒
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2004年07月31日
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パラオ

【 国旗の意味や由来など 】
1994年、パラオがアメリカから独立した際に、国民からの一般公募によって制定された国旗。青は南太平洋、黄色の丸は満月を表わしている。 日の丸のデザインが元になっているが、パラオ国旗の満月は中心ではない。これは、旗がなびいた時に中心に見えるようにと旗竿側に寄せてあるのだが、日本に失礼だからわざと中心をはずしたとの考え方もあり、パラオの人々の慎み深い心を表している。


「日本とパラオの心を結ぶ会」の手になる英文小冊子(一部英和対訳)『パラオと日本の友好よ永遠なれ』(展転社、1997年)の中で、日本統治時代を知る現地人の次のような話が紹介されている。「日本時代はオール・グッド(皆よい)でした。日本の皆さんは、我々といっしょに汗を流して働き、勤勉の徳を教えてくださいました。砂糖キビや米の作り方を教えられ、生産することの喜びを知りました。スペインやドイツの植民地時代とは違って心が通じました。自然に日本人の生活態度を学び、子供たちは親孝行になり、治安がよくて泥棒がいませんでした」

「パラオ人は、心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い、日本統治時代を懐かしんでいる。
その証拠にパラオ人の八割は、その姓名のどちらかをに、日本式の名前を付けているとい
われる」




増田俊男の時事直言!より
 所は南洋の国パラオ共和国、行進曲調のパラオ共和国の国歌を合唱し始めると、夜の大海原に浮かぶ月をあしらった青地に黄色い○印の国旗が掲揚された。続いて荘厳な「君が代」のメロディーが流れはじめると観客の中に静かな動揺がおこった。伴奏だけで歌が無いからだ。すると突然隣の席の妻眞理子が声高らかに歌いだした。「君がーよーおーはー」。思わず私も従った。すると私たちの後方にいた、もう八十を超えたリケリケさんが「千代にーいー八千代にさざれー、、、」と歌いだした。リケリケさんは日本軍へ志願して米軍と戦った「斬込隊」の生き残りだ。背中に軍刀を背負い米軍機に見つからないように夜の海を島伝いに激戦地ぺリリュー島へたどり着き米軍に斬り込みをかけようとしたのであった。正に日本のために命を張ってくれたパラオ人特攻隊員である。私が彼の声の方へ振り向いて感謝の会釈をすると、直立不動のまま「、、、苔のむーーすーーまーーーで」と声を一段と高めた。演奏は終わり、私たちの周りだけであったが君が代の斉唱が終わると、周りから大きな拍手と歓声か起こった。
 交通、電気、水道、通信が総て切断され、首都コロー市が完全に孤立してしまった1996年9月26日のKBブリッジの崩壊の惨事を振り返った。そして日本が異例の処置でパラオを救ってくれたことを体を震わせながら感謝した。あれから5年、今日本政府開発援助(ODA)約30億円によって完成した「日本・パラオ友好の橋」の開通式典が始まったのである。
 車椅子のおばさんと目が合うと「ありがとう」が返ってきた。5~6歳の子供が欄干から乗り出して海を見下ろしているので「気をつけてね」と言うと、「おじさん、日本人?」と聞くので「そうだよ」と言うと“Thank you”と言った。
 サービスカウンターに行くと、17~18歳のアルバイト・ボーイが「日本人?」と聞く。そうだと言うと又しても日本語で「アリガトー」と言った。道行く人々の目がみんな「ありがとう」と語っている。パラオ中が日本への感謝に満ちている。


 村山内閣が誕生した1995年の10月1日、パラオでは独立1周年を祝う式典がくりひろげられた。各国の元首から祝電が届き、米国海兵隊のパレ-ドやチャ-タ-機で乗り付けた台湾の歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典場のアサヒグランドを埋めつくした。
 この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来なかった。私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。私に同伴して式典に出席した江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュ-島の激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を大統領に深く陳謝した。悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた。二宮尊徳と日本の心はマッカ-サ-に破壊されたままなのかと思った。




パラオの歴史教科書
 アメリカの統治が終わったのは1994年。パラオはついに独立し、世界で最も新しい国家となりました。独立後「歴史を奪われたままでは真の独立国とは言えない」という声がパラオ国民の間にあがり、1997年、パラオ初の国定パラオ史教科書が作られました。
 日本がこの国を立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、しばらくの間は、アメリカ人教師による目に余る反日教育が行われていたようです。歴史の授業ではアメリカで作られた教科書が使われ、ごく一部ながら、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された反日的歴史教科書もあったのです。
 ところがパラオの年長者が「そんな話はない」とにべもなく否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。



教科書作る会にパラオ大統領賛同
 パラオ共和国のクニオ・ナカムラ大統領が、公正な中学校の歴史、公民教科書の発行を目指す「新しい歴史をつくる会」(西尾幹二会長)の賛同者に参画、このほど声明文に署名した。
 日系二世のナカムラ大統領は、日本統治時代の行政や対戦中の日本軍の戦いぶりを称賛し「日本の保護領になれないか」と発言するほどの親日家で知られる。
 署名に際し、ナカムラ大統領は「自国の歴史を正しくとらえ直そうという日本国民の努力を支持する」とのコメントを書き込んだ。



 カトリック教会パラオ管区の元管区長フェリックス・ヤオ神父がぽつんとこんな話しをしてくれた。彼はお兄さんを戦争で亡くし、日本時代に教育を受けた親日パラオ人である。8月15日をアメリカの影響で解放記念日にしようとした若い政治家が「あの日にアメリカが侵略を始めたのではないか」と日本時代の人々から糾弾され、その案が却下されたことがあった、と。アメリカの影響は若者を働かなくさせる一方、使い捨て文化を定着させた。この小さな国でこれからどうしていくのか。日本時代へのなつかしさは、センチメンタリズムだけではない。確かに厳しいときでもあったが、自活しようとする力と無駄をしない精神が、あのときだれにもあった、とフェリックス師は言う。




ペリリュー島のサクラ
 ペリリュー島というのは、パラオ諸島の中の小さな島です。ペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男(くにを)大佐)一万二千名。これまで太平洋の島々が攻撃された時、日本軍の持久期間が短かく次々玉砕しました。それは「水際撃退」を至上の戦法にしてきたからでもあります。その戦訓をいかし、ペリリューでは、内部に深く洞窟を構築して待機していました。
 既に制海権・制空権を手にしている米軍は、狭い小島に文字通り絨毯(じゅうたん)爆撃と艦砲射撃を加え、九月十五日、航空母艦を含む機動部隊を背景に、上陸作戦を敢行してきました。総兵力四万二千。それに対して、我が方は、二度までも上陸を阻止するほど勇戦しました。しかし衆寡敵せず、上陸を許してからは、予定通り五百の洞窟にこもって、持久戦に移りました。連日連夜、彼我肉迫する戦闘が続きました。我軍は弾丸や食糧の補給が続かなく、死傷者が続出しました。しかし七十三日間を持ちこたえ、健在者は僅か五十数名に減ってしまいました。
 中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。三人のあっぱれな最期に続けと、最後の決死隊が組織されました。根本甲子郎大尉以下、傷だらけの五十五名は、夜鬼のごとくになって突撃してゆきました。米海兵隊公刊戦史によれば、「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とあります。そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時でした。この六文字の電文は、ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味するのです。

 ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」

 ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているので、大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。この誠意が通じたのか、戦いが終って帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣きました。「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。



 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
 やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…。船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


最後にペ島の桜を讃える歌を紹介します。


皆さん、日本を尊敬してくれているこの国の事を決して疎かにしてはいけないと思います。






最終更新日  2004年07月31日 04時23分14秒
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2004年07月30日
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<中国大陸に樹を植えた緑の連隊長>
吉松喜三大佐は、支那事変当時、戦車連隊長として中国大陸で活躍した人でした。英霊は緑の樹に宿ると信じて、作戦が終わると「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」という慰霊標をたて、その周囲に樹を植えました。
そんなことを繰り返しているうちにやがて吉松大佐は、中国人からも「緑の連隊長」と呼ばれるようになりました。昭和十五年から復員する二十一年まで、吉松連隊長が大陸各地で植えた樹は実に四百万本に達し、敵の蒋介石総統も感謝したほどです。 吉松さんは戦後も靖国神社の銀杏を苗木にして頒布することを始めました。「靖国」とは青を立てて国を安んずることだというのが、吉松さんの信念でした。
戦後、育てた苗木は百六十万本に達し、国内はもとより世界各国に植えられました。ドイツ海軍が靖国神社に参拝した時、吉松さんが育てた靖国の銀杏の苗木三本を貰い受け、キール軍港。慰霊塔(高さ八十五メートル)の横に植えました。靖國の銀杏は大きく育ち、現在、銀杏の側にはその「いわれ」を日独両語で刻んだ銅版をはめこんだ碑が建っています。
ドイツはこのお返しとして樫の樹三本を日本に贈ってきました。靖国神社境内に建つ靖国会館入口左にそびえているのがそれです。
後日談となりますが、戦後五十一年目の終戦記念日を前にした平成八年八月十三日、ドイツ大使館付駐日武官のロベルト・ウエルナー陸軍大佐が、イラン大使館のM・シャケリ一等書記官とともに靖国神社に正式参拝しました。参拝した後、ウエルナー大佐は「他の国の戦歿者モニュメントは退役軍人たちが音楽などを演奏し、賑やかだ。しかし、靖國神社は静かで、慎ましやかで、他のところとは比べようがないほど感動的だ」という感想を漏らしました。その後ウエルナー大佐は、ドイツから贈られたこの樫の樹の前に立ち、深い感慨にひたっていました。


<オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍>
大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、シェマールアンで、必死の抵抗を試みました。シンガボールの中学二年用教科書は、その時の模様を次のように書いています。
「オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた」
マレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」
当時上等兵として戦った中島慎三郎氏「そんなことはいくらでもあった。第一山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではないか。日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した」


<キスカの十字架-五十年目の日米合同慰霊祭>
キスカ島、米軍のP40戦闘機1機が、高射砲陣地を上空から攻撃し、突入自爆しました。それに感動した日本軍は、そこに十字架を建て、板製ながら、英文で次のような墓碑銘を書いたのです。
「Sleeping here a brave hero who lost youth and happiness for his Motherland!」

(青春と幸福を母国のために進んで捧げた英雄、ここに眠る)
平成五年(一九九三)八月十五日は、米軍がキスカに上陸して五十年目に当ります。米国側がシャトル氏を中心に十名と、日本側が春日部氏と菅野豊太郎氏〈米兵を丁重に葬った一人、当時分隊長、山形県在住)の二名で計十二名がキスカに集りました。
日本で言えば「終戦記念日」、米側にとっては「キスカ上陸記念日」に、十二人はかって十字架が建っていた場所で、仏式とキリスト教方式で慰霊祭を行ないました。一行はその後五日間、現地においてテントで共同生活を営みながら、戦跡を訪ね、友好を深めたといいます。


<三国旗掲揚慰霊塔>
高野山奥の院の北ボルネオ戦歿者墓所には、「三国旗掲揚慰霊塔」が建てられています。その掲示板には、次のように書かれています。
〈第二次世界大戦に於て、北ボルネオ(現マレイシア、 東マレイシア)に派遣され、豪軍(オーストラリア)と戦い戦没された両軍の将兵、並に殉死された現地住民の総霊を祀ってあります。乞ふ合掌〉
この掲揚塔には毎日、日本、マレーシア、オーストラリアの国旗が交互に掲げられ、敵味方を越えて三国の戦死者を慰霊顕彰しているのです。


<おまけ>
外国の敵を弔う例は、元寇の時にもありました。…文永・弘安に及ぶ2度の元寇が終わると、弘安5年(1282)、時宗は鎌倉に円覚寺を建て、水没した10万の元軍の死者のために一千体の地蔵尊を作って奉納しました。その時、開山の僧・祖元は、その語録の中に、「前歳及往古此軍及他軍戦死与溺水、万象無帰魂」と記録しています。「前歳」とは文永の役のことであり、「往古」とは弘安の役のことです。「此軍」は日本、「他軍」は蒙古を意味することは勿論で、敵味方の慰霊であることは説明するまでもないでしょう。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時にも、各地で敵兵の屍を埋めて弔いました。そのことを当時朝鮮政府の要職にあった柳成龍が、「懲ひ録」という著書の中で明らかにしています。日本軍が全羅道に進撃した時、朝鮮軍は熊嶺で防戦し、激戦の末、鄭堪、辺応井らの武将は戦死しました。それに対して成龍は『日本軍は、熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、その上に標柱を立て、「弔朝鮮忠肝義胆」と書き署した』と紹介し、『これは恐らく、わが軍の力戦を賞賛してのことであろう』と結んでいます。




前回からとても読みにくいかと思いますが、複数の情報源からのコピペ編集作業に問題があったためです。

さて如何でしたか?
これらを見ても「日本の蛮行は大罪で赦されざる行為なのは揺るがない事実だ。こんなモノで赦されるモノではない。こんなモノ、クソ食らえ」
何て思っている人がいるかもしれません。
そう言った人は、これらを単なる「プロパガンダ」なのだと考えてます。
問題は、彼らが信じてる「日本の蛮行」が同じ「プロパガンダ」ではないと、何故考えないのかです。
被害者が嘘を付くはず無いですって?

では、最後にこれを提示しましょう。


「偽証が氾濫する法廷」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/02/13/20030213000039.html
偽証とは民・刑事および行政訴訟などで、事実を明らかにするために裁判に出頭した証人が嘘をつくこと。(略)特に、偽証自体がほとんどないに日本とは統計だけでもはっきりとその違いが分かる。2000年の場合、韓国で偽証罪で起訴された人が1198人であることに比べ日本は5人だった。韓国と日本の人口の差を考慮した場合、国内の偽証が日本の671倍に達するというのが最高検察庁の分析だ。






最終更新日  2004年07月30日 17時47分27秒
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2004年07月29日
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日本軍は、戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。


● 山東戦線の彰徳で墓標を建て慰霊祭を営んだ。「中国無名戦士の墓」と書いてある。(1938年)





● 北京郊外の中国戦死者墓地に参拝する日本軍将兵(1938年3月)





● 孟子廟の入り口にこのような注意書きを掲げた。


「孟子廟に参拝する日本軍人の心得」


1、孟子は孔子と共に支那人の最も崇拝する偉人である。我々、日本人にとっても精神的文化の恩人である。


2、参拝する者は、故国において神社、仏閣に参拝すると同様の心得を持って慎み深く行動すること。


3、模範的行動が皇軍の名誉を発揚し支那民衆に日本軍が親しまれる力となることを忘るべからず





● 道端に倒された孫文の銅像に旗をかける日本兵








現地市民の間でも日本軍は、規律に厳正で、シナ軍よりもよっぽど信用できるとの評価を得ていた。





● 中国人の子供を可愛がる日本兵(1938年)





● 中国人の子供を中心に正月万歳(1938年)





● 日本軍部隊へ毎日来て遊ぶ中国人の子供(天津)





● 中国人の子供に芸を披露する日本兵(1938年)





● 中国人の子供にキャラメルをあげる日本兵





● 日本軍兵士と遊ぶ中国人児童(1937年)








中華民国の蒋介石総統は、日中が戦っているさ中にあって、拉孟・騰越において全員が玉砕するまで戦った日本軍の勇戦を讃え、「東洋道徳の範とせよ」と二回にわたって全軍に布告しました(昭和十九年六月)。

世界の識者を驚かせたのは、「万世の為に太平を開く」ために終戦に応じる、とされた昭和天皇の「終戦の詔書」に対する日本人の反応でした。この詔書が換発されるや、あれほど戦意に燃えていた日本民族が一億慟哭の中に秩序整然と矛を納めたのです。この威武不屈の態度は、「わが国人の範とするに足る」と、中華民国の王世杰外交部長も感嘆しました。

和歌山県の高野山には弘法大師霊廟があります。そこには「日清両国戦病死者供養塔」「日露両国戦病死者供養塔」「世界大戦〈第一次世界大戦)関係諸国戦病死者供養塔」「満洲・上海両事変(日中戦争)日満支三国戦病死者供養塔」等の供養等が建っています。その近くには「満州・五族之墓」も建っています。昭和五十一年に建立されたもので、「五族協和」の理想を掲げた満洲国の建設に尊い命を捧げた人々の慰霊碑が、日本、朝鮮、漢、満洲、蒙古の順に五基並んでいます。その中央には慰霊塔が建ち、背後には、五族すべての戦残者(英霊)の芳名を刻んだ壁が建っています。










5つの戦病死者供養塔(高野山奥の院) 満州・五族の墓 五族の墓の後ろには、五族の英霊芳名壁がある。



昭和十二年十二月十二日、日本軍は首都南京を陥落させました。その後、すぐに「南京戦歿支那陣亡者之霊」と書いた墓標を建て、日中両国の僧侶と中国側の自治委員会とが合同で慰霊祭を行ないました。

この南京攻略戦の日本軍司令官は、松井石根(いわね)大将です。松井大将は日本敗戦後、連合国が開いた極東国際軍事裁判で「南京暴虐事件」(いわゆる「南京大虐殺」を裁判の罪状ではこう呼んでいた)の責任を追及され、「A級戦犯」として絞首刑に処せられました。
大将は復員すると、支那事変での日中両国の犠牲者の霊を弔うために昭和十五年(一九四〇)の二月二十四日、熱海の伊豆山・鳴沢山に観世音菩薩像(興亜観音)を建立しました。この像は最も戦闘の激しかつた現地の血土を運んできて造ったものです。
この観音像の横に本堂があります。その中には、観音菩薩が一体安置され、中央に「松井将軍部下戦死者霊位」、左右に「支那事変日本戦歿者霊位」、「支那事変中華戦歿者霊位」の位牌が祀られ、いまも丁重に供養されています。





うむぅ。もっと載せたかったところですが、字数限界です。
今回はここまでです。
今回も他所から失敬したものです。






最終更新日  2004年07月30日 02時39分40秒
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2004年07月28日
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また、某所より、拝借させて頂きました。




ドイツ空軍総監ヨハネス・シュタインホフ中将





フランス護衛艦ヴィクトール・シェルシェとヘリ空母ジャンヌ・ダルクの乗組員と士官候補生





米国空軍士官学校の士官候補生ら





イタリア、J・アンドレオッティ国防相と陸海空軍士官候補生ら





タイ練習艦隊司令官パントム海軍少将





アルゼンチン海軍練習艦リベルタード号艦長オスカルモヘ海軍少佐と海軍士官候補生





在日アメリカ海軍司令官ダニエル・T・スミス海軍少将以下幹部25人





ブラジル練習艦隊クストディオ・デ・メーロ号のシャモンテ艦長以下士官候補生と乗員120人





スペイン海軍練習艦隊ファン・セバスチャンエルカー号のリカルド・ラウレル海軍中佐以下50人





ブラジル、イスラエル、ポーランド、トルコの各国駐在武官





ペルー海軍練習艦隊、ルイス艦長以下60人





チリ海軍練習艦隊エメラルダ号、シルバ大佐以下士官候補生と駐日大使





イタリア陸海空軍の士官候補生




日本と戦ったアメリカの姿がありますね。
日本の占領下になった事があるタイの方々もいます。

彼らは何の為に参拝に来たのでしょうか?
軍国主義賛美のためでしょうか?
憎い日本の英霊達を侮蔑しに来たのでしょうか?

それとも、国は違えど、同じ立場の人達が敬意を持って、
哀悼の意を表すために来たのでしょうか?

それにしても、適性国家だった連合国の軍関係者が、
こうも参拝している靖国神社とは何なのでしょうね。



次回は、中国の言う悪逆非道の旧日本軍について、
逆の視点から情報を集めたいと思います。






最終更新日  2004年07月28日 23時00分50秒
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2004年07月27日
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某所より、引用させて頂きました。




張道藩中華民国(台湾)国立法院院長一行





アルゼンチンフロンデシ大統領ご夫妻





トンガ王国のタウファアハウ・ツポー4世国王とマタアホ王妃





ウー・ヌー前ビルマ首相





タイのプミポン国王ご夫妻





リトアニア共和国のスレジェベシス首相





インドネシアのアラムシャ・R・プラウィネガラ宗教相





ブラジル・カトリックのドンジャイネ司教





チベット、ラマ教法王のダライ・ラマ14世





ウィーン大学宗教学仏教学のフリッツ・フィンガー・ライダー教授夫妻と学生





全世界イスラム審議会事務総長のM・T・オーエイダ博士





ニューギニアの国会議員M・T・ソマレ氏とハニアウル・ヘトラス・サンオン酋長





インド独立運動の志士チャンドラ・ボースの下で活躍したインド国民軍のS・B・カーン陸軍大佐





東京裁判で無罪判決を下したインドの故ラダビノード・パール博士の令息、プロサント・パール氏





真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上に建つ米国立公園アリゾナ記念館のゲーリー・カミンズ館長



この様に、過去に日本によって占領された地域の要人も参拝してますね。
何で、「中国」と「韓国」だけが反対するのか?
とても不思議ですね。

とりあえず今回は、「靖国参拝問題」を取り上げました。
これは、私がマスコミの偏向報道に疑問を持ったキッカケです。
韓国では「世界中が非難している」と叫んでいました。
韓国の言う世界とは「中国」と「韓国」だったと言う事ですね。






最終更新日  2004年07月28日 00時53分53秒
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2004年07月26日
カテゴリ:カテゴリ未分類
う~む。
他の場所で、政治関係の発言ばかりをしてますが、
私はいっかいのアニオタに過ぎないんですよね。
既にカミングアウトしている身で、政治の話なんてガラじゃないんです。

本当は、間抜けな顔してアニメを観て、しょーもない感想をだらだら書く方がガラなんですよね。


前々から、偶に(アニメの息抜きに)観るニュース等で
「何トンチンカンな事、言ってるんだこの番組?」
と思ってましたが、最近調べてみて、大いに驚きました。

政治扇動のオンパレードです。
戦時中の話と思ってましたが、情報操作は今もありました。


今後はそういった、情報操作の話を挙げていきたいと思います。
また、アニメの話やメイド等の制服系の話もしていきたいとも思ってます。
因みに、メイドさんのスカートはロング以外認めません。
ミニの場合はウェイトレスとして認定します。
(親が泣く発言だなぁ。って言うかウェイトレスとしては認めてんじゃん)


うあ、途中、宗教入りたての熱心な信者か、
右翼団体の工作員みたいな文章だなぁ。
(アニオタのくだりは別。ところで、右翼団体って何があるんだろ?右翼団体ひとつも知らない)






最終更新日  2004年07月27日 01時31分25秒
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