年を重ねるごとに、容量が減り、要領が悪くなるのはなんでか・・・2016
時間が流れるように過ぎて、気が付けば一カ月なんてあっという間。 目の前の自分の仕事をして、買い物をして、家に帰って、食事の下ごしらえをして パソコンの前に座ったら、日付が変わっていたりする。 いつの間にか、2015年の12月が終わり、 私は父の介護と今後の生活への不安から始まった1年を、 12月25日の渋谷クワトロでの「オリラジ10周年記念音楽祭」で締めくくった。 父の最期の数か月は本当に心に堪えてタフだったので、 3月13日の父の最期を、妹の家族が看取れたことを心から感謝する。 その後のバタバタした葬儀も何もかも、夢か幻、映画の一コマのようだ。 父の死を悲しむ余裕も無かった中、 4月からはまた新しい3か年計画に突入した。 この間、何があっても渋谷へは行こうと心に決めて、 5月からは一度も欠かさず毎月のスペシャルライブに通って、 父の居ない時間の空疎と不可思議とを埋めた。 10年以上続いていた毎晩9時の電話は、2015年3月11日水曜日を最後に 途絶えた・・・ 3月12日の木曜日に電話が無いことに胸騒ぎを覚えて電話を掛けた。 妹にも電話して、父に電話してもらったし、施設にも電話してもらって 職員の人に声掛けしてもらった。 その時、父は、意識が混濁していたが、 翌3月13日の朝には、もう一度清明に話せて、朝食も摂れた。 急遽入院先から見舞いに来た母とも会話していたし、 その後の妹夫婦と姪との見舞いも受けた。 私が、仕事を切り上げて姫路駅から新幹線に乗ろうとした夜8時前に、 さっき息を引き取ったと、妹からメールが届いた。 19時25分のことだったと。 その前の母からののんきなメールでは、 「一旦病院に戻ります。ではまた明日」みたいな感じだったのに。 父は、長く苦しんだりはしなかったし、意識の無い入院生活も無くて、 ただ、母の入院などで、 最後は介護施設に半年以上暮らすことになってしまったけど、 自分の建てた我が家が見えるとお気に入りの部屋で、 最後は静かに息を引き取った。 文字通り、眠るように。。。 形見に、父の使っていた携帯電話をもらってきたので、 私の傍で、電源を入れておいてある。 もう、電話もメールもできないけど、最後に来たメールやら、 最後にかけた電話やらの履歴は見える。 この高齢者用の携帯電話で、毎晩、私と話すのを楽しみにしていた父。 そう思って、バッテリーがもつ限り、充電しておこうと決めた。 母は、8時半から9時の間の適当な時間にメールをくれる。 毎日の話題は明るくて、今は常に前向きだ。 もうすぐやってくる父の1周忌の打ち合わせもしている。 時間は前にしか流れない。 とどまることは許されない。 なんとか、自分を持ちこたえさせて、この1年を過ごした気がする。 忙しさは、空疎さを埋め、心を平衡に保たせてくれた。 かつてジュリーがそうだったように、去年はオリラジがもたせてくれた。 そんな渋谷通いも、もう、今年は終わり。 カウントダウンの始まった残り3年を、捨てる物を捨てながら、生きていく。 去年のお正月に、干支で一回りの長い服喪が明けて、 やっと年賀状に返事を出したら、 今年はまた、喪中になってしまったから、賀状を書かなかった。 もうすぐ、旧正月が来るから、そこまでに賀状の返事は書こう。 1月ももう23日、1・2・3!となってから、 やっと更新した日記だけど、 今年もぼちぼち自分の記録の為に書き残しておこうと思っている。 新年好!って、今頃ですけど。。。 明日の寒さに備えて、今夜は早く寝よう! 為末 大 さんのコラムに感じるところがあったので、転載する。ナチスドイツの強制収容所での体験を書いたフランクルの『夜と霧』に、クリスマスには必ずここから出られるという希望を支えにしていた人たちは、クリスマスが過ぎるとバタバタ死んでいったそうです。フランクルはそれを見て、希望というのは何かにすがることじゃなくて、いまこの瞬間にあるということなのではないかと考えました。収容所で生き延びるときに重要だったもののなかに「愛」があるのですが、それは目の前に愛する人がいるということではなくて――そもそも家族や友人のほとんどが殺されていたりするので――愛する対象がいたということを思い出す行為でした。何かしら毎日思い出すことはできますよね。それを意識的にやるということも大事だと思うんです。毎日小さな幸せを見つけましょう、という月並みな話になってしまうかもしれませんが・・・