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カテゴリ:歴史・教育
自分が65歳になって高齢者の仲間入りをするにつれ、幼少年期のこととその時代を思い出し、現在とのつながり、逆に現在との違いを考えることが多くなった。 さらに自分が生まれないころの父や母の暮らした時代のことも気にかかり、生活様式をてこに当時の経済や政治、教育などを調べたくなる。 人生の先行きが短くなる老年期に過去に意識が向かうのは、自然な現象なのかも知れない。 子や孫の世代に近現代史を教えるときも、今の自分から遡って話すことが、若い世代の近現代への関心を高まるのに重要だ、と説く人も多い。 今の日本では戦中戦前を暗い軍国主義の時代としてとらえ、近現代史を否定的にとらえる風潮が広がっている。8月15日の終戦記念日が近づくと、必ず日本の軍部や当時の政府の問題点をこれでもか、これでもかと追及する番組がNHKを中心に展開される。 問題点を突くのはいいが、バランスを欠いてはいないか。自国の歴史の負の側面ばかりを強調されるので、もう30~40年前から若い世代は近現代史を学ぶのを嫌がり、避けるようになっている。 外務省や文科省など日本政府も近現代史については中国や韓国、欧米との外交を重視してデリケートな問題への教育の仕方に神経を使う。そうしないと朝日新聞や毎日新聞、共同通信などのマスコミが重箱の隅をつつくように騒ぎたて、その「ご注進情報」が韓国や中国に伝わって、外交問題に発展することがしばしばだからだ。 このため、小中学校や高校の教師も近現代史に触れるのを嫌がり、学校で教えるのはせいぜい明治大正時代まで。後はおざなりに流してお茶を濁す。「受験でもデリケートな近現代史はあまり出ないので、それでいいじゃないの」となって、まともな近現代史が教えられていない。 だが、それが若い世代の日本へアイデンティティを薄れさせ、漠然とした不安感を与えているように感じられる。 以前、このブログで福田恒存氏の歴史教育論を紹介したことがあったが、そこの要諦を再録しよう。 <(歴史教育では)時代と民族との別を問わざる人間普遍の弱点、非行を日本人固有のものと見做す如き歪曲を行わざる事。殊に国民学校(小中学校)においては民族の美点を強調すべき事。(同時に高校、大学へと進むにしたがい)国家を超ゆる価値観に目醒める様、配慮すべき事> 少年期に日本民族の美点を教えることで、彼らの父祖の世代への信頼、国家への帰属感が深まり、自己の確立に役立つことは言うまでもあるまい。 その方法として、まず自分の身近な父母の世代、祖父母の世代がどういう時代を生き、どんな暮らしをして、どんな考え方でいたのかを探ることは少なからず重要だと思われる。 私の父母は大正時代の生まれだから、祖父母は明治中期の生まれ、曽祖父母は幕末から明治初年ということになる。 私は子供のころ、父母から、彼らの青少年期の生活ぶりや食べ物、映画、芝居、衣服、正月や節分などの祝日での過ぎし方などについてしばしば聞かされたことがある。 だが、祖父母のことについては、私が生まれたときにはすでに他界していたため、出身地や性格、好みなど断片的なことを除いてほとんど聞いたことがない。まして曽祖父母については名前すら知らず、どこで生まれ、どんな生活をしていたのか、何も知らない。でも、彼らの時代を、祖父母の生きた時代としてとらえると、親しみが増して来る。最近、そのことがしみじみと感じられる。 何しろ自分の曽祖父母ともなると、幕末維新を幼少期に向かえていたのだ。その後、ちょんまげをザンギリ頭に変え、明治の廃藩置県や新橋―横浜間の鉄道開設を肌で知り、日本が独立を維持できるか否かの岐路だった日清日露戦争などの動乱期を生きてきた。 家族の過去や郷土の歴史を遡ることで、自分の現在につながる生きた歴史を学ぶことの大切さ。最近、テレビでも著名人の家族史を取り上げる動きが見られるが、個々人でそれができるよう、遡り近現代史を学校で教えることを、(すでに一部で指摘されているように)私も提案したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.11.11 18:50:41
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