鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~

2012/12/04(火)06:31

日本の知的風土は今

日本(16)

 前回のブログで、「いつまでも(米国の)従属国でよいとする雰囲気が今も日本のマスコミや政界、経済界に色濃く存在する」と書いた。  西尾幹二氏のブログを覗いたら、渡辺望著『国家論――石原慎太郎と江藤淳。『敗戦』がもたらしたもの』(総和社)という本が紹介され、その自己解説が紹介されていた。一節にこうある。  <1970年代以降の日本は、実は(石原慎太郎のように)父性的でもないし(江藤淳のように)母性的でもない。男性的でもないし女性的でもない何か(中性化――引用者注)に戦後日本は進んでしまっている>   <現在の日本の知的状況というのは、左翼が台頭しているのではない、かといって保守主義的主題を現実化しようとする意欲もない、そのどちらも敵視し消し去るような、「いつまでもだらだらできる日本」が現実化しつつある、ということにあります。まさに丸谷才一のいう「ただ存在してゐるだけの国家」の建国がほとんど完全な形で実現してしまっているといえましょう>  これは1970年11月25日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で衝撃的な自殺を遂げた三島由紀夫が、その4ヶ月余り前にサンケイ新聞に書いた有名な一文にも相通ずる。 <私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代わりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう>   「中性化」を尊ぶ知的状況になった背景として、渡辺氏は次のように指摘している。  <日本という国家を「中性化」しようとする営為をおこなった表現者として、山本七平や司馬遼太郎、丸谷才一らをあげることができます。左翼でも保守でもない、しかし左翼といえば左翼のときもあり、保守といえば保守らしきときもある。……(彼らは)石原・江藤より遥かに多数派的といえます。彼らは「ただ存在してゐるだけの国家」(丸谷才一)を目指そうとした。それはなぜなのでしょうか。私はその謎を、彼らが共通して経験した(させられた)、軍隊内での陰惨な私的制裁にあると推論しました。私は本書の中でこれら国家の「中性」化に勤しむ知識人のことを「中間派知識人」と命名しています>  軍隊内の陰惨な私的制裁は今も「いじめ」の形で学校内や公的機関、大企業内の職場内に見られる。軍隊に代表される国家的な縦の組織がもたらす負の側面への嫌悪感が、束縛をなくし、自由な空間を保証する「ただ存在しているだけの国家」を求めるのかも知れない。  軍隊のような面倒な組織はアメリカにまかせ、日本は「ただ存在していればいい」とも。  自分の安全を他国に委ねる。これほど楽で自由なことはない。だが、それは「いつまでも子供でいたい」「モラトリアム状態を維持したい」ということにほかならない。現実に直面することを嫌がる。  そういう日本で居続けること、「普通の国」にならず、米国に従属することを アメリカは求めている。しかし、米国の国力が以前よりも弱まる一方、北朝鮮の核保有や尖閣問題が表面化し、そうしたモラトリアム状態を許さなくなりつつあるのも事実だ。    今の選挙で争点となっている「国防軍」論議の根っこもここにある。 

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